blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

9月29日 わらじの会手作り班

2015-09-29 | 農作業



秋晴れの爽やかな今日、手作り班は農園にいきました
目的は『サツマイモの試し掘り』果たして、
サツマイモはちゃんと育っているのでしょうか?
そして、前回蒔いた大根の種は芽が出ているのでしょうか?


さすがにゴーヤと茄子は枯れてるよなぁ…
などなど思いながら畑に向かうと………
ゴーヤと茄子は出来ていました(しかも結構大きい❗)大根はよーーーー
探せばチョロリと芽が出ているものもあるものの
蒔いた人たちは納得がいかないようで
もう一度蒔き直し、寒れい遮をかけることにしました。
そしてそしてサツマイモはどうか⁉
1株だけ掘ってみようとするもののなかなか根元がわからない。
葉っぱはかなり育って入るけれど実は…………?
『おっ⁉』と思ったのは一瞬。
小さな実がほんの少しだけ採れました。

中には『長芋じゃないよね?』って言うくらいの細長いサツマイモも。
来週には本格的に収穫をしたいと思っているのですが…
どうなることやら。

そうそう、里芋に花が咲いていました。

初めて見た里芋の花。調べてみたらあまり咲くことはないようですね。
珍しいので写真におさめておきました。
さて、次回は来週です。晴れると良いですね。
みなさん、お疲れさまでした。












心配な事

2015-09-28 | 共生社会のデザイン


3年位前に農園に来てくれた、奥田愛基君に脅迫文が来た。
「学校の方に、僕と家族に対する殺害予告が来ました。
なんか、僕だけならまだしも、なんで家族に対してもそうなるのか…。
何か意見を言うだけで、殺されたりするのは嫌なので、
一応身の回りに用心して、学校行ったりしてます。
被害届等、適切に対応してます。」

大げさではなく、
非凡で有ることと平凡であることのわきまえのある若者が
何故、こう言うことをされるのか、

自然を相手にしていると理解が難しい、
歪んだ不自然な心を感じる。
農業分野の先輩が共産党による野党再編を批判をfacebook掲載したので
「農園に来てくれた奥田君がSHIELDSのメンバーとして活動してくれている、
発想がまるで違う、何が始まるのか分からないが、
『止める]』と言い切るところが左翼や既成政党との違いだ。
予め負けを読んだ上でのそれと違う。
共産党の党首が街頭の動きの中で感じたことで
『最も保守的な政党』が変わらざるを得ざるをえなくなった」のではと言う書き込みを行った。
それに対して反論?の書き込みがあった。
たしかにshieldsは反日教育を施す高校出身者の集団が立ち上げた組織だったり
国際政治や軍事、外交の基礎も知らずデモの方向もやり方も間違っていて
普通とは発想が違うなと思わせるところがありますね。
民主主義のルールもまるでわかっていないようなので、
国会前の通行を止める以上の結果を出す事にはならないでしょう。」

農業関係者のようだが「木見ない、森も見ない」寂しい話だ。
 
29日付田原総一朗公式メールマガジン( http://www.taharasoichiro.com)に
SHIELDSのことが載った。
「田原総一朗です。9月19日、安保法制法案が参議院で可決された。
この法案に反対する人びとが国会前に押し寄せ、
2万人ともいわれる大規模なデモとなった。
その前日の18日の夜、僕も国会前に行ってみた。
法案可決の直前、集まった若者たちが、
どれくらい熱狂しているのかをこの目で見たいと思ったからだ。
ところが、国会前に集まっていた若者たちは、いい意味で「クール」だった。
空腹を覚えれば自由に食事に行く。遅い時間になると、
集まっていた高校生たちに「早く帰れ」と帰宅を促している。
ニュースで報じられていたような。
絶叫ばかりではなく、落ち着いた空気が、そこにあった。


25日深夜の「朝まで生テレビ!」は、
「激論! 安保国会・若者デモ・民主主義」をテーマに放送した。
今回、若者デモの中心となっているSEALDs(シールズ)の創始メンバー、
奥田愛基さんと諏訪原健さんの二人にも討論に参加してもらった。
「SEALDs」とは、「自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクション」の英語の略だ。
自民党の片山さつきさん、ジャーナリストの江川紹子さん、漫画家の小林よしのりさんらも出演し、
日本の安全保障のこれから、そして憲法や選挙制度について熱く議論したのだ。
討論の内容は、とても有意義だった。それについては、改めてお話しをした。
その前に、
僕が、若者たちの意見を聞いて明るい希望を持ったことを、まず言っておきたい。
討論で、奥田さんと諏訪原さんに、「いったい何をそんなに怒っているのか」
という質問を僕はぶつけた。
これに対して奥田さんは、
「僕たちの意見、国民の権利、憲法をバカにしていると思う」と答えたのだ。
さらに、諏訪原さんが、
「現在の国際的な安全保障関係をきちんと認識した上で、
解決策を徹底的に議論してほしい。可決を急ぎすぎですし、
異論もあります」とまで述べている。
僕は意外だった。
実は、僕はもっと単純に「戦争反対」という答えだけが返ってくるかと思っていたのだ。
だが彼らは違った。彼らは「プロセスに異議あり」と言っているのだ。
もうひとつ意外に思ったことがある。
彼らを報道するとき、
いつも彼らがデモの集会で絶叫しているシーンが映し出されている。
だから僕も、彼らのデモを熱狂的なムーブメントにすぎないのでは、と思っていた。
しかし、彼らはデモについて、「ひとつの手段でしかない」と語っているのだ。
そして、なによりも彼らは地道に勉強もしているし、
自分たちでパンフレットを作成し、配布しているという。
SEALDsの活動に対して、
小林よしのりさんは、「大人に利用される。危ない」と指摘していた。
だが、彼らは自分たちの活動を、「あくまでも『緊急』ですから、
次の参院選挙を区切りに解散する」と冷静に計画を立てている。

僕は、60年安保のことを思い出していた。
自分自身も国会前に行って、「安保反対、岸退陣」と叫んでいた。
しかし、実は法案を読んでいなかった。
安保改正の内容について何も知らなかった。
ただ「反自民」という流れに乗って、ただ叫んでいただけなのだ。
そんな僕や、当時の多くのデモ参加者に比べると、SEALDsの若者は、
しっかりと勉強し、考えているように見えた。
彼らのデモを実際に見て、討論に参加してもらったことで、
メディアの報道ではわからない、真摯な姿を発見できたのだ。
奥田さんが語った、「賛成派、反対派はお互いにレッテル張りをしている」
という言葉も印象的だった。
きちんと会って話を聞かなければ、本当のことはわからない、僕はそう改めて思った。
もうひとつ、僕が興味を持ったことがある。
奥田さんの次の言葉だ。「震災以後、
主体性を持って、自分の考えを言うことが大事だと思った」というのである。
津波、原発事故、復興の困難さなど、
とくに10代であの震災を体験した彼らは、
大きな影響を受けざるを得なかったのだ。
震災は、日本にとって不幸なことだった。
だが、僕たちはこの経験を活かしていかなければならない。
そのためには、主体性をもって自分の意見を出さなければならない。
だが、主体性をもちながらも、
異なる意見の人とも柔軟に話し合い、行動を起こすことも必要だ。
SEALDsのふたりのような若者が、これからは増えるのではないか。
僕は期待しているのである。
SEALDsが現れた背景を考えるとき、ネットを無視することはできない。
ツールや場としてネットを使いこなす人びとが増えるとともに、
新しい政治、新しい民主主義が生み出されるのではないか。楽観主義かもしれない。
だが、そんな希望を持つにいたった、若者たちとの出会いだったのだ。風聞だっけで判断する風潮にジャーナリズムの使命として現地に赴き記事を書く、
老いてもなを盛んな田原さんには頭が下がる。


9月18日国会へ 19日深夜安保関連法案強行 朝は農園へ

2015-09-21 | 龍神伝心


大宮で眼鏡の修理を終えて国会に向かう、
上野に着いたのが午後9時過ぎ、

そして、憲政記念館の脇の茂みの中でフクロウのような感じで浩平君と斉藤さんがいた。

 橋本画伯を自宅に送ってから帰ると、連れ合いが国会前へ行く準備をして待っていた.。
70年安保闘争の敗北から後、ずっと「埼玉ひきこもり」にあえて徹してきたが、
戦争国家へ大きく舵が切られる瞬間を凝視しておきたいという思いから、一緒に出かけた。
経産省前テントを回り、路上でビッグイシューを買い、国会前へ。
.
初めて行くらしき人も多く見かけた。
たくさんの組織、グループ、個人が、ごちゃごちゃになって国会を取り囲んでいる情景が、
地域を、暮らしをひきずっている気配が濃く、好ましい。

SEALDsを間近で見、コールを聞き、応える。
国会を包囲する人々の帯の中に細い流れがひらかれており、
メインステージの近くまで回り込んで行ける。
そのけもの道のようなコースを二回りしたら、
膝が痛くなった。山ではずっと歩けるのだが、明日も仕事なので帰ることにした。
同じように帰る人の群あり、逆に来る人々あり。
 国会前の道路を、浪江町の希望の牧場の、黒牛の像を載せたラックが激励しながら周回する。
ネットでは大阪の行動にスト中のコンクリートミキサー車が
「戦争法」制定許すなと横断幕を付けて連帯の画像。
 60年安保や70年安保の闘いとはかたちが異なる政治への参加が始まった感覚に胸がじんわりする。
整然と分け隔てられるのでなく、
雑然と一緒に生きたいという人々の潜在意識が、いまここを創っている。by山下浩志

合流した代表はしばし行動を共にしたあと、
国会議事堂前まわり一周するといってさっていった。
つかの間の一期一会 。また明日農園で会うが。
国会議事堂前デモは、一人暗いなか来て、明るいところで人びとと出会い、共に動き、
また暗い道を一人もの思いながら帰るのが人生のようでもあり。
何かが光っている。キラキラとチカチカと。言霊と人魂が行き交う。
その中を、平和を叫びながら歩く。by coop
齢66才の我が身のために早めに帰路に着く、奥田君のコールーが聞けた事ができた。


永田町まで歩いて行き、地下鉄で池袋を周り浦和の街へ
気持ちの悪い結論が出たのを見極めて床につく。終わらない、戦い続ける。

そして翌朝、農園では変わることのない農作業が行われている。


9月19日20日安保関連法が強行された日に

2015-09-21 | 様々な農


安保関連法が強行採決されたその日、ときがわ町へ

次男と奥さん、そしてお孫さんと行く事に。

勝俣先生の山の農園にお邪魔させていただく。


朝起きると晴。

勝俣先生の畑は山の上。

おいしい朝食を頂き、

「狼さま」の本を見せていただいただく。

勝俣先生の愛車は赤のダットラ、懐かしい車だ。

手漉きの和紙の工房へ案内して頂いたりと楽しい時間を過ごす。

表現を含む生き方を追求する人たちとの出会うを得る事ができた。
.


9月15日わらじの会 手作り班

2015-09-16 | 農作業

3週目の火曜日は私が手作り班には参加できないので、
いつもなら手作り班の皆さんには
室内作業(本来の手作り作業?)にしていただくのですが
『台風で農園が水没した(かも)』との情報を聞き、
いてもたってもいられなくなってしまったメンバーが
べしみ職員さんにお願いをして農園に行くことになりました。

「ちょっと様子を見てくるだけ…」
「大根の種を蒔いてくるだけ…」と言いつつも結局かなりの作業をしてきたようです。

いつもながら手作り班の皆様のパワーには頭が下がります。
水没したとの噂のサツマイモなどもどうやら無事だった様子。
良かっ;良かった.

そして私は月に一回の巡業団に…

今月は新座の野火止4丁目集会所での練習でした。
9月が誕生日の新座のNくんと
越谷のMさんのお祝いをたまたま頂いた『茄子入りおやき』でお祝い

✨来月は川口で行います。ちなみに、農園は最終週の火曜日に行きますよ❗


北海道の旅レポート ―離れては交差する楕円軌道 行木さんとの縁から

2015-09-13 | 龍神伝心


 北海道へ3泊4日の珍道中をしてきた。
連れ合い、聾唖・弱視・下肢マヒの橋本克己画伯、
見沼田んぼ福祉農園協議会代表の猪瀬良一さん、
それにかって1年間ボランティアとしてわらじの会に滞在し
今は京都で看護師として働く廣田京子さんの5人で。
 そもそもは写真右端の旧友・行木紘一さんからの再三再四の
「お互いにいつ死ぬかわからないからその前に来い」との熱い?
メッセージにひかれての旅。
そしてまた、
生きて還れるか、不安におののきながら出かけた旅でもあった。

その直接の理由は、
最近めっきり上肢や体幹の機能が衰えた橋本克己画伯のトイレや風呂や泊りの介助を、
北海道のバリアフルな環境で、
基本的には72歳になった自分一人でやらなくてはならないということ。
       
既に出発数日前に、腰痛が起きていた。
脊椎の圧迫骨折でも起こして入院し、そのまま衰弱してゆくのではないか。
主観的な想念ばかりがふくらんでゆくのだった。
結果的には、杞憂にすぎなかったのだが。
 だが、いわば「介助死」の危機をくぐりぬけてでなければ北海道には行けないという、
ひとりよがりの気負いのようなものが筆者自身にはあった。
なぜなら行木さんが半生をかけて家族や現地の人々と共に重ねてきた生活の場に行くには、
自分自身も半生を引きずって出かけるのでなければという思いがあったからだ。0
 行木さんとは1961年大学に入学したての山岳部の新人歓迎山行で一緒になって
  

(上の写真右端が行木さんで左端が筆者)以来、
時代の節目節目で運命的な出会いをしてきた。
というのも、私たちの青春時代は60年代。
大管法、日韓・原潜闘争から二つの羽田闘争、
三里塚闘争という70年安保へ向かう政治の季節。
それらとからみあって全国に広がった学園闘争の時代だった。
 筆者は体育会系なのだが、
たまたま部活の先輩たちに自治会役員が多くいて活動にひきこまれたクチ。
それに対して、行木さんは音楽、美術、詩などの才があり、新聞会にも属していた。
分野がちがうから、むしろ気になる友人としてつきあってきたように思う。
 正確に言えば、
筆者らの入学の前年に60年安保の昂揚と敗北後の沈滞ムード(池田内閣の所得倍増路線の下での)があり、
入学してからしばらくして誘われていった国会デモは、
全都動員のかけ声にも関わらずわずか20名ほどでしかなかったことを覚えている。
60年安保で名を馳せた「ゼンガクレン」も事実上解体していたが、
唯一医学部だけは全国の自治会が参加する全日本医学生連合(医学連)が、
医学生ゼミナールと医学生体育大会をベースとして存続していた。
 
その医学連が60年代前半から「インターン制度完全廃止」の運動を全国的に取り組み、
筆者も後に医学連中央執行委員長になるなど、
医学部以外の学園闘争の契機ともなった運動に関わることになった。
 この運動は、全国の医学部卒業生が、厚生省の定めたインターン指定病院を拒否し、
さらにはインターンの1年後に行われる医師国家試験も拒否するという実力行使をもって国と対峙した。
だから、全国のすべての医学部4年生の参加が不可欠で、
医学連では手分けしてすべての大学の医学部4年生のクラス討論に入って説明した。
筆者は、岩手、東北、大阪、神戸、和歌山、熊本、鹿児島の4年生のクラスに入った。
大阪は、後に徳洲会理事長となる徳田虎雄さんのクラスだった。
また、彼より下の学年だが、
この運動の推進に熱心だった学生と出会ったが、それが後述する木村健一さんだった。

 上は「27日間のストに何を学ぶか」と題した大学新聞の特集。
行木さんはNAというペンネームで、
「斜すかいにストを見た ― 医の中の蛙」という一文を書いている。
 「医の中の蛙」とは医学生。
6年間を通し少人数で学び、卒業後も医局を通した濃密な人間関係の「有情」の世界。
しかし、その「有情」の世界を組み込んで巨大な「非情」の機構が成立している。
「インターン制度完全廃止」とは、非情の機構に対してあえて非情の闘いを対置することだった。
 行木さんはこう結んでいる。
 「有情が『良識』であるに越したことはない。
問題は『良識』を『非情』の世界に持ち込んで、有情をキシませ、
権力の『非情』を『良識』で抱擁してしまうかどうかであろう。
『幻想』とは場違いの有情のキシミと覚えた。
キミも蛙、ワレも蛙、同じ『医』に棲む蛙ならそれらしく、激しく生きてみたいもの。」
 いい文章だ。
 とはいえ、この大学病院立てこもり、
そして1年後の医師国家試験ボイコットは全国すべての医学部の参加により敢行され、
しかも毎年積み重ねられていった。
 そして、立てこもった人々は「青年医師連合(青医連)」を結成し、
「無免許医師」ながら自主研修で力をつけ、
民間病院を開拓して労働力を供給するアルバイト委員会を組織したり、
全国的にも連帯しながら、先輩の無休医局員といわれる人々と組んで、
医療・医学のあり方、大学のあり方を問いつつ、大学によっては医局を解体したりもしてゆく。

 

 安田講堂攻防戦で知られる東大闘争も、医学部のインターン闘争が発端。

 しかし、筆者自身は、心情的にはいわば卒業試験ボイコットを一人で続けた形で、
医学部以外の大学の運動や70年安保へ向かう政治闘争に関り続け、
4年後の1971年に除籍となった。
 その辺のことは長くなりすぎるので端折るが、
70年安保闘争に対する国家ぐるみの弾圧が激しさを増し、
運動や組織の展望をめぐり、一緒にやって来た人々と次々別れを繰り返し、
孤立の極に至って、既に本屋を営んでいた仲間の誘いに応じ、
連れ合いと東京を離れ、地域から一転出直そうと埼玉へ来た。
      

 ともあれ、埼玉に来て、団地自治会が設立した生協で働き出し、
その活動の縁で「総合養護学校」を作るんだという障害児の母ちゃんたちと出会い、
彼女たちの語りの迫力に引きずり込まれ、いつのまにか事務局として重宝がられた。
上の写真は、学生運動で鍛えた原紙カッティング技術を駆使して筆者が作成した総会議案。
 そこでは、かって「帝国主義大学解体」の論理になじんでいた身として、
「生活の場としての学校」という感覚にびっくりさせられた。
でも、越境して入れた都立の養護学校から追い出されるので、
自宅から通える地域に養護学校を作らせたいという論理には、疑問を強く感じていた。
また、いつも話し合いは午前中子供達がいない所で、
私や市議を除けば母ちゃんたちばかりで行われていたため、
障害児って誰なんだと謎が膨らんでいった。

 その疑問と謎を受け止め、きっかけを作ってくれたのは、あの青医連の生き残りで、
東大病院を拠点に
「日本の医療を告発するすべての人々のつどい」をアリナミン告発で
有名な高橋晄正氏を代表として立ち上げて間もなかった。
            
事務局長・故木村健一さん(上の写真)だった。
    
 大阪から上京し、当時、東大闘争終息後の東大病院を拠点にがんばっていた。
その後1980年になって、がんばっていた仲間たちで、
新座市に地域医療実践の場として、病院を設立することになる。
彼の紹介で、どの子も地域の学校へと活動していた「がっこの会」と出会い、
その例会で「川口とうなす会」のメンバーと出会い、そして川口で八木下浩一と出会うことになる。
 「川口とうなす会」の分家のような形で、
東武伊勢崎線沿線をエリアとするわらじの会が発足するのはその数年後の1978年。
「総合養護学校」の会を担った母ちゃんたちや子どもたちも多く参加した。
      

 そうした流れの中で、「総合養護学校をつくる会」は「福祉と教育を考える会」に名前を変え、
上の新聞記事にあるように、就学先の決定は保護者の希望尊重を、
現在地域の学校に在学中の子はそのまま在学させてという県交渉を行うまでになった。
しかし、すでに地元に二つの養護学校が開設され、多くの子どもはそこに通学しはじめ、
「福祉と教育を考える会」会員の多くは養護学校PTAとしての活動が忙しくなったこともあり、私たちの会は自然消滅するに至った。
 ちなみに、わらじの会発足時にも、行木さんとの縁がからむ。
彼は日中国交正常化により1973年、
北京に日本大使館が開設された時、初代の医官として派遣された。
 そこにいる間に、戦前、埼玉県から満蒙開拓団として派遣され、
敗戦時の混乱の中で八路軍の医師と結婚し、
ずっと中国で暮してきた石川さんという看護師と出会い、
彼女の一時帰国の引受先を私に依頼して来た。

 連れ合いと相談し、当時住んでいた団地の住戸で彼女と半年の間一緒に暮した。
それが、ちょうどわらじの会立ち上げの時期と重なり、
彼女も会の活動に何度も参加した(下の写真)。
            
 そういえば、
1980年に「親と子の福祉体験旅行」でスウェーデンに出かけた時もカンパを沢山いただいた。
その翌年1981年にスウェーデンの障害者団体RBUを日本に招く相談をするため、
札幌いちご会の小山内さんのアパートを訪ねた時も、
ちょうど北海道の別のクラスメートの結婚式があり出席したので、行木さんと会った。
 その後も折にふれ、会っている。
そんな仲だ。そうだ!「克己絵日記」にも文章を寄せてもらったっけ。
 以下の文は、最近メディカルトリビューンという業界紙に載ったもの。行木さんらしい。
「本棚から」(投稿)’15 6・22 北海道 弟子屈クリニック 行木紘一
 「そんな場合じゃない!」が最近の日常の口癖になった。
日常を仕訳すれば「公・私」ということになろう。
起きてから寝るまで、むろん大半は仕事(公)に費やす時間であるが、
その流れのなかで頭の中を絶えずめぐっている思念(私)は、
実は多くが現在の社会的状況に関わっていることに気付く。
落ち着かない。さながら?上の空″の状態といっていい。
だから、「そんな場合じゃない」は「仕事どころじゃない」に行き着きそうになるので慌ててしまう。
・・「どうなっているんだ」「なぜだ」「どうすればいいんだ」ばかりである。
この国は(その中の私という存在も含むが)オカシクなってしまったらしい。
 マスメディアの現状はとっくに「なんとかならないの?」の域に入り込んでしまっている。
しらけた三猿(見せざる・言わせざる・聞かせざる)ばかり。
だから情報探しの日々となる。「ほんとの話」に飢えている。
で、本を漁ることが格段に多くなった。
寝室も書斎も職場のデスクも、積み上がった本が今にも崩れそうになっている。
しかもまだ進行中。(ネット関連については省略)
 本の山を見ながら思う。
これは個人的嗜好のなせるものだけではない、「社会的状況」の結果でもあろう。
海岸に堆積する漂着物の山になぞらえ得る。仕訳が必要と思う。「仕訳」・・、
時間も方法論も乏しいので、並べながら考えることにする。ご一瞥をお願い申し上げたい。
 非知性的な扇動(ヘイトスピーチも)のキナ臭さを体中から振り払いながら、
戦後70年を思うと・・『きけわだつみの声』(日本戦没学生記念館)、
『無言館の青春』(窪島誠一郎)は原点を想起させる。
『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー)は七つ星だろう。
『日米開戦の正体』(孫崎享)この人の著作は今を考える際の最上質の参考書と思われる。
『日本の国境問題』『戦後史の正体』など、啓蒙とはこのことと思う。
山本七平『日本はなぜ敗れるか』も追加したい。
 今を根源から考えるうえからは、『人は愛するに足り真心は信ずるに足る』(澤地久恵・中村哲)、
『日本という国をあなたのものにするために』(カレル・ヴァン・ボルフレン)を挙げたい。
ボルフレンの最初の本『日本権力構造の謎』は目から鱗だった。
『人間を幸せにしない日本というシステム』はその表題からして心に刺さった。
現状を掘り下げたものは数多いが、ここでは『絶望の裁判所』(瀬木比呂志)の衝撃を分かちたい。
医療関係では『沈みゆく大国アメリカ』(堤美果、続編も)が筆頭か。
かつて李啓充が『アメリカ医療の光と影』で指摘していたことが、
 新自由主義跋扈の今になって全開になったことを実感する。 
 9・11もそうだったが3.11は日本人にとって未だ覚めぬ悪夢そのもの。
かねて『原子力神話からの解放』
を著した高木仁三郎の先見の明は脱帽ものだ。
原発に関しては『原発のウソ』他(小出裕章)。氏には多数の精力的な出版、講演活動がある。
医療関係では『放射線健康被害の真実』(西尾正道)も挙げたい。
ついでながら、福島共同診療所の活動は「闇の中の一条の光」であろう。

正面から3・11以降を見据えた本に『大震災の中で私たちは何をすべきか』(内橋克人)がある。

内橋は震災前に、

宇沢弘文との共著『始まっている未来・新しい経済学は可能か』を上梓しているが、

現況との落差には空しさを禁じ得ない。この国は「ボタンを掛け違えた」のだ。

さだまさしの歌(小説ではない)「風に立つライオン」の中のフレーズを思い出させる。

 そして?そんな場合じゃない″今の視点では、

童話風だが『茶色の朝』(フランク・パブロフ)が心に刺さる。

本ではないが、マルチン・ニーメラン牧師(ドイツ)のあの有名な言葉(慨嘆であろう、
血を吐くような)・・「ナチスが社会主義者を攻撃した時、私は行動に出なかった。
なぜなら私は社会主義者でなかったから。
ナチスが次に労働組合を攻撃した時、私は行動に出なかった。
なぜなら私は労働組合員でなかったから。
ナチスがユダヤ人を攻撃し始めた時、
私は行動に出なかった。なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、ナチスが私を攻撃し始めた時、
私のために声をあげる人は一人も残っていなかった。」
が今更のように心に刻みこまれる思いだ。
 さらに、「どれほど繰り返し宣伝されようが、誤りが真実になることはない。
誰も知らないからといって真実が誤りになることはない。
真実はたとえ人々が認めなくても存立しているのだ。
それは自ら成り立つものである。」(マハトマ・ガンジー)も、もって銘すべきだろう。
マーチン・ルーサー・キング牧師は「嘘は生き延びることが出来ない」といい、さらにこうも語った。
「重大な事柄に我々が沈黙するようになる日に、我々の生命は終わりに向かう」。
 晩年、「鐘の鳴る丘」を唄いながら涙していた小沢昭一は、
やはり晩年になって始めた俳句を死の床でまとめていた。
『変哲半生記』。どこか救いを感じさせてくれる句集だが、
彼はそれを手にすることなく他界していった。よく言っていた、
 「何かヘンだな、と感じた時はもう大分怪しくなっている。
これはいかんと思った時はもう手遅れ・・」。戦中派の正確な回顧だ。野坂昭如に通う。
先の戦争は、
国内外の歴史文化の数々の蓄積を無惨に破壊してしまったが、
中東の現在はそれらを何十倍も上回る破局を演じているのだと思う。
スカイツリーを見上げながら、精神科医である先輩が呟いた言葉が忘れられない。
「ああ、これでやっと東京大空襲で亡くなった無数の人たちへの『鎮魂の碑』が出来上がった」。
 ・・古き佳き東京の風景については、お勧めしたい画集(版画)がある。『夕暮れ巴水』(川瀬巴水、林望)。
終りに、劇画『総員玉砕せよ!』(水木しげる)を追加する。
・・『希望は絶望のど真ん中に』(むのたけじ)を再読しながら。


わらじの会市民福祉講座再開第4回「いのちの選別~出生前診断」

2015-09-06 | 共生社会のデザイン


わらじの会市民福祉講座再開第4回をします。
「いのちの選別~出生前診断」がテーマです。
NPO法人くれぱす・神経筋疾患ネットワークの見方信子さんにお話ししてもらい、
その後、自由に話し合います。
横塚晃一さんが「母よ殺すな」を出版したのが、1975年。
今では生まれる前に「障害胎児」を殺してしまう。
どなたもどうぞ、ご参加ください。
9月12日、午後2時、武里団地内、武里大枝公民館。


9月1日わらじの会 手作り班の農園活動

2015-09-02 | 農作業
 

午前中は雨が降っていたのでべしみにて定例会を行いました。

が、どうしてもナスとゴーヤが気になって午後に
「雨がやんだら収穫だけでも行きましょう❗」
と言っていたら…やんじゃいました❗さすが晴れ女。...

てなわけで、サササッと農園に行ってきました。

前回みんなが見ていない隙に植えられたサツマイモは
しっかりと元気に育っていてビックリ

もちろん、ちゃんとした時期に植えた紅東と
シルクスイートはめちゃくちゃ元気です❗
里芋も育っています。

ナスとゴーヤも良くできていました✨

小一時間作業をしただけなのに蒸し暑さで汗をかきました。

次回は来週。
車があれば全員で行きますよ〜。
今度こそ大根の種を蒔かなければ!