blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

6月11日農園会議を開催。

2019-06-12 | 農作業

農園会議を開催。

 

 

孫が一人増えた。私事ながら男の子。

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『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』 

2019-06-09 | 風の備忘録 

『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』  

http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi1.htm

市川瑞雄作品集 見沼風物詩
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
滅びゆき武蔵野の田園風景と人々の生活より

入江から湖沼地帯、そして広大な泥炭地に
見沼田んぼは、古くは東京湾の海水が入り込む、水鳥が遊び、魚が泳ぐ広大な入江だったようです。
今から6000年を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂の堆積で次第に高くなったため、今の東京湾と分離して見沼は湖沼地帯になっていた。湖沼地帯では、枯れて溜まった水草や枯れ葉が長い年月の間に堆積しだんだん浅くなっていきます。たまった植物の残骸が腐ることなく長い間に炭化して泥炭の層を形作ります、これが泥炭地です。見沼も、沼や湖に葦等の水草が生い茂り、そうした葦などの水草が堆積して湿潤で広大な泥炭湿地になっていった。
泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より

泥炭湿地のことを詳しく知りたい人は
日本泥炭湿地保全協会HPへ 
見沼田んぼは『田んぼ』と言い表すように『湿田』です。泥炭湿地に客土を行い田畑用の耕土にしてきたのです。見沼田んぼを『ウエットランド』との主張があります。
「湿田」と『ウエットランド』の違いは何なのでしょうか。
1971年,イランのラムサールで締結した、水鳥の生息地として重要な湿地を守るためのラムサール条約では、淡水、海水、汽水、水田、または人工的なところも含めて水のあるところは全て湿地として定義し、重要視しています。
日本生態学会は二次的自然(里山や水田)にこそ絶滅危惧種が多いという調査から保護・保全対象が大きく変わりました。また、
19995月、コスタリカで開かれたラムサール会議では泥炭湿地の持つ・生物多様性・自然の浄化機能・炭素資源の「賢明な利用が注目され保全行動計画を締約国に提言しました。
日本を含む全ての締約国(
110カ国)は、泥炭湿地が過小評価されてきたこと、そして各国が湿地を保全するための特別の努力をすることを約束しました。そのために3つの国際環境条約が、生物多様性条約、ラムサール条約、気候変動枠組み条約です
東アジアには特殊な状況があります。
それは、湿地がほとんどが水田耕作に利用されていることです。「泥炭湿地の水田利用を湿地の保護・保全とどう整合性をとるのか」という論議があります。
日本泥炭湿地保全協議会では、泥炭湿地の水田利用もその耕作方法が大型機械に頼らない限り、小規模な生態系の攪乱ととらえています。
「適度な農業という攪乱」によって育まれた水田雑草も絶滅危惧種が多いのです。

人と自然との農業を通しての深いかかわりこそが、持続可能な社会に繋がると考えています。
私たちが考える賢明な利用とは--
農地を開発することと、湿原を保全する事を対極的に考えるのではなく湿原の持つ地域環境への機能を利用することの可能性を考えるということです。
 
見沼溜井の時代
見沼は、上流の配水池であると同時に下流の用水源であった。徳川家康が江戸に幕府を開いて以降見沼は一変する。江戸へ食糧を供給するために見沼の辺りも農業が盛んになった。
そのため農業用水が不足し、水争いが頻発するようになった。
江戸幕府は関東郡代に見沼を灌漑用水池とするように命じ、関東郡代伊奈忠治(いなただはる)は1629年見沼の両岸がもっとも狭くなっている浦和大間木と川口木曽呂の間に堤(=ダム)を築堤し見沼全体を大きな溜井(=ダム湖)として下流の農業用水の水源を確保し、生産の安定をはかり水争いを治めたという。この堤(=ダム)は長さが八町あったことから八町堤と呼ばれている。
見沼田んぼと見沼代用水の誕生
八丁堤の築堤後100年を経た享保期には耕地の開発は極限に達し、用水・排水をめぐる見沼溜井上・下流の利害対立の矛盾は貯留量の増加ではもはや抜本的に解決できなくなった。
1728(享保13)年8月。見沼を干拓し新田を拓き、用水路の建設により用水問題を一挙に解決する大構想が実施され、建設には将軍吉宗(よしむね)の命をうけた紀州流の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが)が当たった。
為永は、見沼溜井の縁辺に用水路、中央に排水路を設ける干拓方式をとった。干拓によって生まれたのが「見沼田んぼ」である。また水源を利根川に求め、現在の行田市で利根川の水を引き入れ、用水路を一路南下させ、上瓦葺掛樋(かみかわらぶきかけひ)を過ぎたところで二つに別れて見沼たんぼの東西縁を流れる総延長84kmに及ぶ長大な用水路を開削し、不足する農業用水を供給し、農業用水の供給を安定させた。
また、同時に排水路を整備することにより、関東平野中部地域の既成の用排水系統を再編成し、池・沼の干拓を行うという、大きなプロジェクトだった。見沼代用水は干拓された溜井の代替(だいがえ)用水として「代用水」の名で呼ばれている。
このプロジェクトでは,利根川の元圦(もといり)、柴山の伏越(ふせごし)、綾瀬(あやせ)川の架樋(かひ)東西縁用水と芝川を結ぶ閘門(こうもん)式運河(通船堀(つうせんぼり))など独特の技術が発揮された。驚くべきことに着工後半年間でほぼ全形態を備えた。
 見沼代用水の完成により旧利根川と旧荒川の三角州地帯では関東流による葛西(かさい)用水系統に紀州流による見沼代用水系統が重なり、微高地に開削された見沼代用水の余排水が古利根川に流出し、葛西用水の水源としての機能を果たすという大規模かつ合理的な水利用の反復形態が確立された。
 現在、この2大用水は,周辺の用水とともに利根大堰(おおぜき)のもとに合口(ごうぐち)され、農業用水としてはもちろんのこと、東京都へ上水を送るなど新たな使命をも担いながら,流れ続けている。

見沼のような泥炭湿地は地下水が高く、表土が浅いので、農業をするには排水溝を掘り地下水位下げます。また客土を行って耕土を厚くします。泥炭層は土を載せると土の重さで薄くなり土地が沈下します。沈下したら更に客土をします。こうした積年の努力できあがったのが見沼田んぼの耕土です。
しかし、つい最近まで見沼田んぼでは腰までつかる湿田で、田下駄という忍者のような下駄を履いて田植えや稲刈りを行っていました。
そうした重労働から農家が解放されるようになったのは、農業の機械化と田んぼから畑への田畑転換のための農業構造改善事業によってでした。
後に「見沼田んぼは実りの稲穂、野田のさぎ山、通船堀を守り育てる里景色」と歌われ、武蔵野の原風景と言われる見沼田んぼは、当時の最先端の農業土木技術と勤勉な農民の積年の努力が生み出したのです。

今でも、見沼田んぼでは冬になると農家は客土を行って耕土を守っています。
利根導水路事業=合口一期事業
見沼田んぼの東縁と西縁を流れる見沼代用水。見沼代用水の流れは利根川の水であること。また、総延長が82キロもある事は余り知られていない。
江戸中期から始まるこの大きな流れ・見沼代用水に変化が始まったのは、経済の高度成長が始まり「東京水飢饉」が頻発した東京五輪前頃である。
東京の水不足解消のため、当時のお金で総工費193億円をかけ合口一期事業が行われた。
この合口一期事業で利根大堰や秋ヶ瀬取水堰の建設、武蔵水路開削などが行われる。
合口一期事業の利根大堰の完成で、見沼代用水や葛西用水など八用水が合口(=一括取水)されるようになった。
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
沼三原則の時代
1958年の狩野川台風は県南と東京の下町に大きな被害をもたらしました。狩野川台風の被災により、見沼田んぼの治水能力が省みられるようになり、見沼田んぼの農地の転用を厳しく規制する見沼三原則(注)が定められます。


(注)見沼三原則(見沼田圃農地転用方針)とは
1、八丁堤以北県道浦和岩槻線、締切までの間は将来の開発計画に備えた、現在のまま原則として緑地として維持するものとする。
2、県道浦和岩槻線以北は、適正な計画と認められるものについては、開発を認めるものとする。
3、以上の方針によるも、芝川改修計画に支障があると認める場合は農地の転用を認めないものとする
経済の高度成長と見沼田んぼ
 見沼田んぼの下流域や周辺は都市化が急速に進んだ。そして見沼田んぼはしだいに忘れられ取り残されていった
合口二期事業 
 1979年春。総工費507億3700万円かけ、素堀だった見沼代用水を全面的に三面コンクリート舗装に変える「合口二期事業」開始。
農業用水の都市用へ転用する事業がスタートする。
 合口二期事業は、水資源開発促進法に基づいて水資源開発公団が農業用水の都市用水への転用を踏み切った最初の事業だった。
収穫の秋が終われば用水は締められるが、用水全体を三面コンクリートで舗装し、冬でも用水西縁・県立西高下から連絡用パイプラインで荒川へ用水を送水し、大久保浄水場で取水し県南の都市用水として使うための事業だ。
この事業は、県南住民への水の供給のみに止まらず、さらに秋ヶ瀬取水堰を経て東京でも上水としても利用する事業だった。
日本経済の高度成長による人口の都市部への集中と、農業の外部化と衰退という流れの中で、農業用水の需要が減った分を都市用水として利用する、余った農業用水を都市用水に回す施策だった。
 当時は、用水の三面コンクリート舗装は水の浸透が全くないので漏水によるロスが無くなるため水資源の効率的な活用につながると考えられていた。見沼代用水(=農業用水)は、都市住民が使う水を確保するために三面コンクリートで隔離されていった。

「隔離される川」連載始まる。
 1981年に埼玉新聞は「隔離される川」の連載を開始。「見沼代用水の水路改修(三面舗装)工事は生態系を破壊するものだ」という連載記事の主張を契機に、見沼田んぼと見沼代用水に対する社会的な関心が広がっていった。
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
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『分解者たち』の書評が今朝の朝日新聞に載っていると連絡あり。

2019-06-08 | 風の備忘録 

 

(書評)寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト

『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』 

猪瀬浩平〈著〉 森田友希〈写真〉

■多様な人々の共生に地域耕す力

 障がいのある兄を持つ1978年生まれの著者は、

埼玉の見沼田んぼの福祉農園に一家で関わる中で育った。

彼は自らの土地感覚を踏まえつつ、首都圏開発の周縁に位置し、下水処理施設やごみ焼却場、

朝鮮学校といったものが集められてきた見沼田んぼと周辺地域の歴史を掘り起こし、

その意ログイン前の続き味を咀嚼(そしゃく)していく。

タイトルにもある「分解者たち」というキーワードが表すように、居場所のない、

見向きもされないものたちが、ダンゴムシやミミズが土を豊かにするように、

少しずつ地域を生きやすい場所に変えてきたその軌跡は、静かに力強い。

 76年越谷市役所の職員から起こった、障がい者との共生を目指す運動は、

「わらじの会」となり現在まで継続しているが、

その初期の過程ではそれまで家の一室に閉じ込められてきた障がい者たちの「過去」が見いだされた。

「寒いとき綿くりやってたんだ」という当事者の語りは、農業が機械化していく70年代までは、

障がい者が農閑期の手間仕事の重要な労働力であったことを明らかにする。

 相模ダムと津久井やまゆり園の歴史に触れる章もある。

ダム建設の日本人・朝鮮人・中国人犠牲者の追悼会では2017年、

津久井やまゆり園事件の犠牲者も同時に追悼された。

共にその場に参加した際、障がいのある兄が叫んだことについて著者は不安と不満を読み取り、思い巡らす。

私達(たち)は自ら叫ぶことを忘れて言葉のみを空しく並べ、それ以外の表現を排除してはいないか。

かつてその土地に響いた叫び、本当は今も人知れず響いている叫びに耳を澄ますことを忘れてはいないか。

健常者と障がい者、日本人と朝鮮人、定住者と野宿者。

いくつもの差異を無化していく営みの可能性を、著者は多様な者がうごめく見沼田んぼに見いだす。

論文の硬さとエッセイの軟らかさをあわせ持つ本書は、

読み終えた本の重さがそのまま筆者の未来への祈りのように感じられた。

 評・寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト)

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6月22日、農園20周年を記念する集い

2019-06-03 | 農園作り
福祉農園が1999年5月に開園し、
共生の農業を掲げて、20年を迎えました。
 この間
農園に関わっている方々も当時からライフステージが変わり ながらも、
耕し続け現在まで続いています。
 皆さんにとって関わり始めた頃の農園や今の農園はどんなものでしょうか。
そしてこれからの農園はどんなものになるでしょう。 
 
写真は、
開園10年を祝って挨拶に来てくれた隣の畑の清水卯吉さん、
開園以来いろいろお世話になったていました。
福祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げて、20年を迎えました。
 20周年を記念し、6月22日に協議会全体で合同作業&交流会を行うことになり、
その実行委員長を務めることになりました寺床純三です。
 
 福祉農園(協議会)が主催
各団体の垣根を越えて、一緒に作業し、飯を食い、交流し、
それぞれがこれからの農園 を考えるきっかけにするものにしたいと考えています。
 写真は開園10周年をt記念した集いのようす。
 参加費は飲む人2000円、飲まない人1000円、中学生未満は無料です
 残れる人は一緒に焚き火を囲みましょう。
 (テントで宿泊可) 
 
 
 
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幼馴染と共に農園作業

2019-06-03 | 農作業

  

 \\\\\\\小学校の同級生2人とその子供達と共に農園へ。

玉ねぎを収穫して、安納芋を植え、お昼を食べて桑の実採り。

 途中で大学生が30人くらい来て、子供達はハイテンションに(笑)

 初めましての出会いも、お久しぶりですの再会もあった。

いつも来ている場所でも作業する人が違うと雰囲気が変わるから面白い!

  隣の農家の清水さんと遭遇

 

  私が大切にしている場所に大事な仲間が来てくれた事、

そしてこの場を気に入ってくれた事が嬉しい(^^)

一緒に植えた安納芋の成長が楽しみだな♫ by eiei

 

 

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