blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
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見沼田んぼ福祉農園 

宮城県知事ら女川原発に立ち入り 再開時期「分からない」

2011-04-26 | 農作業

 女川原発2号機の地下で、
東北電力の社員から被害状況の説明を受ける
宮城県の村井嘉浩知事(左)=26日午前、宮城県女川町

 宮城県の村井嘉浩知事と亀山紘石巻市長、
安住宣孝女川町長は
26日、
東日本大震災で施設の一部に被害が出た
女川原発(女川町、石巻市)の現状確認のため、
東北電力と自治体側との安全協定に基づく立ち入り調査を実施した。

県によると、知事ら首長が自ら調査に乗り出すのは異例。

村井知事は終了後、
停止中の女川原発の再開時期について「全く分からない。
国が基準をつくると思うが、それをクリアしているかしっかり見たい」とした。

 一方で原発の存続については、
「今の電力需要をみると、
原発をなくして全てまかなうのは無理だ」と述べた。

 調査は、福島第1原発事故で原発への信頼が揺らぐ中、
地元行政の立場で女川原発の
安全確保を重視する姿勢を示す狙いがあるとみられる。


 村井知事は冒頭「多くの人から、
女川は大丈夫かと心配する声が届いている」とあいさつ。
安倍宣昭東北電副社長は「福島の事故を重く受け止め、
津波の影響を受けない高台へ電源装置を配備するなど、
できる対策全てに取り組んでいく」と述べた。
さきがけon the web 
(2011/04/26 13:59 更新)


宮城角田発 先ずは、田んぼ、畑で立派な作物を作りましょう。

2011-04-26 | 風の備忘録 

大阪の農民:
記事にして頂いて有難うございました。
考え方は、同じ百姓、大同小異です。
農家の家長として、
8人の家族を養っていく苦悩は、
涙が出る思いで理解しております。
ひとまずは、
角田市が米の生産が可能と言うニュースを見て、
嬉しい気持ちで書き込みさせて頂きました。
投稿者: 大阪の農民 | 2011年04月24日


原発は 反対です。

大阪のお百姓さん
コメントありがとうごいます。
原発問題を真剣に考えている人は、
私の仲間にも多くいますし、

人の生き方を
極めて真面目に考え行動している人だと思います。
常にお世話になっておりますし、
その生き方にたし尊敬もしています。
 有機農業であれ、自然農法であれ
農業のやり方はいろんな手段がありますし、
それを否定する気持ちはありませんし、それを認めています。
 
同じ百姓として、議論することは多いに結構ですし、
少なくとも対立する関係ではありません。
もしそのようなことになった本当に悲しいことです

先ずは、田んぼ 畑で立派な作物を作りましょう。
だだわらす子のひとり言


風評被害を助長して何が楽しい

2011-04-26 | 風の備忘録 

« みぞれ降る寒い一日

風評害を助長して何が楽しい
最後の種まき作業をする。
寒い一日だった。
放射能の風評被害も 一息 ついてきたかにみえた今日この頃。
朝 先輩宅を訪ねると 困った奴らがいるものだという。
今朝の地元河北新報の記事を広げて 怒りをぶちまける。
その記事によると、県南の有機栽培農家や自然栽培農家、7人が東京電力を訪ねて
宮城県南地域も 放射能に汚染されているに違いないから 
放射能の測定をこまめにすべきだと要望書を提出したという。 
明日21日には、県及び東北農政局にも同じ
要望書を出すのだという。何たることか! 
放射能の測定は毎日河北新報や他のマスコミでも報道されているではないか。 
それで、十分ではないか。 
それ以上の測定地を求めて何を目的としているのだろうか。
行政が発表するのは、信用ならない。 というのであれば問題は別だ。 
抗議手段も別にあるはずだ。 
ましてや原発問題は別次元のもんだいだろう。  
行政が信用ならないならば、自分で測定器を購入し、
自らのお客様にその値を公表すればいいだけだ。 
そんなことは、関東の生産者は やっていることだ。
風評害の 怖さを知っているのか。 
一番の被害者は、現場で必死に生産している生産者そのものだ。
それも、物言わぬ真面目に田んぼや畑に通う 一番弱い百姓だ。 
政府は、簡単に風評害も補償すると言っているが、事はそう簡単ではない。 
結局は、一番末端で コツコツ働いている生産者が 泣き寝入りするだけだ。
本当に 理解に苦しむ。
それも、農業で生きていこうとしている 
農業者からこんな行為をする者が出るとは、本当に情けない。
行政が発表する 放射能測定値が
あきらかに人体に悪影響を及ぼすというのであれば
 即、生産は中止する。 
食と農に関して責任とモラルをもって生産しているのだ。  
それ以上 何をすればいいのか。 
何を信じて 田んぼにでればいいのか。
これ以上 世間を混乱させて なにが 楽しいのか。 残念だ。
夜 先輩は心配でなんとかならないのか とまた相談の電話をくれた。

大阪の農民:
私も農家であり、水稲も作っておりますが、畑作を主に耕作しています。
放射能汚染の問題は、マスコミ等も連日報道しており、
私も他人事ではありませんので、注意を払ってニュースをチェックしています。
同じ農家として、面川さんの思いは痛いほど分かりますが、
風評被害との言葉に違和感を持っています。
これは風評では無く、実害です。
放射能で汚染された食物を食べたく無いですし、
自分の子孫にも食べさせたくありません。
決して煽っているのでは無いと思いますよ。
福島の農産物にどれだけの放射能が含まれるのか、
作物を作ってみないと分からない面もあるかと思いますが、

わずかであれ放射能が検出されたものを、食べれますか?
私は無理です。
私の作った作物から放射能が検出されたなら、そんな毒菜は売りません。
耕作を放棄し、他の仕事に転職します。
未必の故意による大量殺人者になりたくはありません。

2011年04月21日 天気が続かない

昨日のブログの件についていは、
多分 いろんな意見が来るだろうという想いで書いた。
大阪の農民さんからのご意見ありがとうございます。(出来れば実名でお願い)
 あくまでも、健康に害する放射能のレベルであれば 
もちろん食糧として供することは犯罪といえます。
 その基準を 何処に求めるかです。
 私は、行政が定める 基準をもとに生産するだけです。
 行政が 発表する値が 正しいか正しくないかは また別問題です。
その件で、議論する考えはありません。
原発そのもの、行政の発表したのは 大いに嘘であり間違いですが。
その観点からいえば、今回の原発事故は、国家的犯罪といえます。
そういう現実の中で、
今の日本(生まれ育った角田)で生きてきたし、
これからも生きていかなければならないということだけは、
馬鹿な俺でも覚悟してます。
この件に関しては、それ以上の考えは ございません。 
天気が、続かない。 田んぼ仕事を 急がねば。

風評害を助長して何が楽しい (だだわらす子のひとり言)


東京電力への4.26抗議・賠償請求行動

2011-04-25 | 風の備忘録 
転載 
東京電力への4.26抗議・賠償請求行動
-田畑と自然を汚し生活の糧を奪った東電は全面的に償え

 ※「東電への4.26抗議・賠償請求行動」のお知らせです。

 田畑と自然を汚し生活の糧を奪った東電は全面的に償え
 東電への4.26抗議・賠償請求行動
 ――牛を連れ、出荷できない野菜をもって東電へ!
   東電に賠償請求を突きつけよう!


 東北3県を中心に、
一瞬にして多くの命が奪われ、瓦礫の山と化してから1カ月余。
福島原発からの放射能漏れが未だに止まらず、

人々をふるさとから追いやり、田畑や自然を汚し続けています。
 育った野菜は出荷できず伸び放題。
酪農家は、毎日、牛に餌を与えて牛乳を搾っては廃棄しています。

 “安全神話”に毒されて安全対策を怠り、コントロール不能に陥って、
故郷や田畑、山、川、海を汚し続け、
農家や住民から生活の糧を奪った東電と、
原発政策を推進してきた歴代の政府に、
私たちは全面的な償いを求めます。

 ▼東電への抗議・賠償請求行動
 日時 4月26日(火)12:30~13:30
 場所 東京電力本社前
    千代田区内幸町1-1-3 
※地図はこちら
  ★東電前に牛を連れてこよう! 

集荷できない野菜を積み上げて抗議しよう!
  ★各自の損害賠償請求書を持ち寄って提出しよう。
  ★横断幕、ノボリ、怒りをアピールするものを持ち寄ろう

 ▼農水省交渉
 日時 4月26日(火)14:30~15:30
 場所 参議院議員会館101会議室


 ▼損害賠償と補償要求決起集会
 日時 4月26日(火)15:45~16:30
 場所 参議院議員会館101会議室

 主催 農民運動全国連合会(農民連)
    国民の食糧と健康を守る運動全国連絡会(全国食健連)

http://earlybirds.ddo.jp/earlybirds/saigai/wp-content/uploads/2011/04/d00c02ea9c42b6bc54bb288e52155682.pdf


2011年4月24日 見沼晴天

2011-04-24 | 農作業

黄桜咲く

八重桜さく

【作業内容】
第1農園
除草、ナス科予定地に堆肥搬入、耕耘
周辺部の除草、芝刈、腐った野菜の撤去

第3農園

ジャガイモの芽かき、土寄せ

ネギの土寄せ、周辺部の除草


地震があってしばらく農園に来れず、久しぶりの農園でした。
だいぶ緑が濃くなってきていて、
しかも清々しい天気で気持ちのいい一日でした。
そして、草の勢いが増してきていて、除草の季節がやってきました。
風の畑の周辺部の雑草が気になったので
作業は除草を中心に
夏やさいの作付け準備や野菜の手入れなどをおこないました。
少し気になっているのは、全体的に作業が後手に回っている
ように感じていて、今後サトイモの植え付け、
ナス科やきゅうりなどのウリ科と夏やさいの作付けの
準備が追いついてないのではないかと思います。
サトイモの種芋ですが、今日確認したところ
芽出ししているのを全部見たわけではありませんが、
最適な大きさの種芋が十分確保できているとは思えず、
種芋の量が足りないのではないでしょうか。
あまり小さな種芋を植えても、育ちが悪いですし、
わくわくの種芋を分けてもらうなど
対応を考えたほうがいいのではないでしょうか。  
それと、今日乾燥小屋においてあった
ジャガイモやサトイモを見たところ
ほとんど腐っていて処分しました。
たしかに保存方法もありますが、食べずに置いとくのではなく
おみやげで持って帰るなど保存している野菜をもう少し
気にかける必要があるのではないかと感じました。
ただ野菜をつくるのではなく、せっかくつくった野菜を
きちんと食べる責任があるのではないでしょうか。
自分も含めですけど、つくった野菜を無駄にしないで
どう食べていくのか考えていかないといけないと感じました。by常


除草機による作業始まる

堆肥場に八重桜咲く


イチゴとニンニクの組み合わせ

ツツジ咲く

去年までは日陰で咲かなかったが木を移植したら花をつけてくれた 

 

 今年、初めての芝刈り

芝を刈ると言うより雀のカタビラの種を刈り取りと言う感じ


福島県飯館村が計画避難地区に指定された。
飯館村には3000 頭以上の牛がいる。
餌の牧草、稲わらや飼料用トウモロコシ等の大半を自給する。
有機農業を手掛ける篤農家も多い。

再生可能エネルギーを村のエネルギー政策の柱に
村内で調達できる木材を使い木質チップボイラーを導入した村だ。

1度だけ取材で行ったことがある。
曲家の写真を撮った。良い村だった。無念である。
【福島県飯舘村・現地レポート】 持続可能な村づくりを奪われた村 ―
―原子力災害の理不尽な実態|News&Analysis|ダイヤモンド・オンライン


1988年08月農文協の主張より 農村から世界を変える 農家の反原発運動

2011-04-22 | 風の備忘録 

198808月 農文協の主張より   学館憲法研、

農村から世界を変える 農家の反原発運動

目次
原発からの脱却をめざしはじめた世界の国ぐに
国境や時間を越えて子どもを侵す死の灰
日本では、農、漁村の人々が原発をはねのけ続けてきた


地域に生きることの責任は誰が負うのか

原発からの脱却をめざしはじめた世界の国ぐに

 いまから二年前の1986426日、

ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所でおきた原子炉の爆発事故は、

世界各国のエネルギー政策のながれを一変させた。

 この事故以後、昨年末までに建設が中止、

または棚上げされた原発は世界で24基にのぼる

(ソ連、イタリアが各4基、デンマーク2基、西ドイツ、スペイン、

ギリシャ各1基、エジプト6基、アルゼンチン三基、中国二基などである)。

 そして、つい最近では、原発先進国のアメリカで

、四年前に完成したニューヨークのショーラム原子力発電所が、

一度も操業されずに解体されることになった。住民の反対が強く、

自治体が認可を与えなかったためである。

この原発は53億ドル(6600億円)の巨費を投じて建設されたものの、

試運転を行なっただけで廃棄される。

 さらにまた、スウェーデンの議会は、

すべての原子力発電所を2010年までに段階的に廃棄することをめざした法案を、

賛成160、反対70の圧倒的多数で可決した。

現状では、エネルギー消費の約半分を原子力に依存している国での(日本は27%)、

まさに180度の転換ともいえる選択である。

 原子力は、石炭・石油などの化石燃料や、あるいは水力に、

やがては完全にとってかわる「未来のエネルギー」だといわれてきた。

原子力そのものは、

原爆を生みだしたアメリカのマンハッタン計画によってこの世のものとなったのではあるが、

その「平和利用」である原子力発電は、

人類に明るい未来をもたらすものだといわれてきた。

 しかし、チェルノブイリの原発事故は、原子力というものが、

軍事利用であれ「平和利用」であれ、

人類に明るい未来をもたらすどころか、悲惨で、

絶望的な未来しかもたらさないことを一瞬のうちにあきらかにした。

 

 

農文協の主張:1988年08月 農村から世界を変える 農家の反原発運動


1988年08月 農文協の主張より 国境や時間を超えて子どもを侵す死の灰

2011-04-22 | 風の備忘録 

国境や時間を超えて子どもを侵す死の灰

 ひとたび原発で事故がおきれば、

人間の手によって引かれた国境など何の意味もない。

 チェルノブイリの爆発事故によって放出された放射能(死の灰)は、

少なくとも広島型原爆の500発分に相当するという。

その死の灰が、風に乗り、雲となって、全ヨーロッパはおろか、

アメリカ、そして8000km離れた日本にも降りそそいだ。

とくにヨーロッパの汚染は深刻で、異常出産を恐れる妊婦たちの中絶があいつぎ、

国際原子力機関(IAEA)の推計でも10万から20万人にのぼったという。

「死の灰」とは、そもそもどういうものだろうか。

「死の灰は、死んだ灰ではないのです。

ほら、まきがほのおを出してもえたあとで、

まっ赤なおきができるでしょう。

ウランがもえたときにできる死の灰は、あのおきのようなもので、

人間のからだのなかに入っても、

まだもえたりくすぶったりしつづけるのですよ。」

「たとえば、ヨウ素131という名のついた放射能は、

火の勢いというか毒の強さというか、

それがはじめの半分に弱まるのに8日かかり、

あと八日たつとそのまた半分になる。

これを半減期(はんげんき)が8日、というのです。

 セシウム137は半減期が30年、ストロンチウム9029年、

プルトニウム23924000年、ネプツニウム237201万年といったふうにね」

(高木仁三郎「初めて出会う原子力」、反原発新聞1988120日号)。

「ストロンチウムやセシウムが恐ろしいのは、成長中の子供たちの身体に、

どんどん取り入れられ蓄積され、濃縮されるからです。

 子供が成長するとき骨はカルシウムでつくっていくわけですど、

そのカルシウムと間違えてストロンチウムを使って骨をつくっていってしまう、

ということが起こる。

つまり、放射性物質のストロンチウムが骨に固定されて蓄積されるわけです。

一生涯、放射能をうけ続けるという恐ろしいことになるわけです」

「とくに子供たちのばあい、どんなに少なく見積もっても、

おそらく大人の10倍、幼なければ100倍の危険を持っているんですね」

(広瀬隆「チェルノブイリ原発事故から一年」、本誌866月号)。

 事故から2年たついまでも、死の灰の恐怖がやわらぐことはない。

つい最近も、赤ちゃんの粉ミルクの原料として

ヨーロッパから日本に輸入された粉乳から放射能が検出され、

生産調整下の緊急輸入ということとあいまって、大きな問題になりつつある。

 さらに世界の国ぐにが原発からの脱却をめざし始めた背景には、

原発で日常的に生み出される死の灰がどうにも処理できないところにきた、

ということもあげられる。

 チェルノブイリと同じ100kw級の原発は、

 1日に広島型原爆の3個分のウランを燃やし、

一年間にその1000発分の死の灰を製造する。

その死の灰は、

「いつの日にか、ガラスのような固体に変えて地下に埋める」といわれてきたが、

その技術が確立する見通しが立っていない。

 いまから11年前の『現代農業』で、

理化学研究所の槌田敦氏はつぎのように指摘している。

「結局、この死の灰は厳重に貯蔵するより仕方がない。

死の灰の毒性は100万年間つづくから、貯蔵期間は100万年ということになる。

貯蔵作業として考えられることは、放射能が洩れ出していないかを毎日調べる、

洩れ出しそうになっていたら容器を新しく取り替える、

漏れ出してしまったらそれを回収し、また被害が出たら補償するなどだ。

 その作業は誰がするのか。

原子力を利用した我々はとっくに死んでいるのだから、

 100万年間にわたって我々の子孫は、

この作業に強制労働させられることになる。

子孫はこの強制労働を拒否できない。

拒否すればたちまち放射能が洩れ出して、

子孫自身が罰を受けるからである」(19774月号)

 つまり、原発が生み出す死の灰の処理や貯蔵は、

その安全性において、

また莫大な経費において、

一企業たる電力会社や、

あるいは一国家が、

いかに「責任もってやる」といっても負い切れるものではない。

負い切れるかのように言いつのるのは、処理技術が未確立のまま、

原発を見切り発車させた無責任さを覆いかくすための強弁である。

 このようなことをみるとき、多くの国ぐにの多くの人々が、

なぜいま、原発の廃止や計画の中止に踏み切っているのかがあきらかになってくる。

いまそうしなければ、たとえ幸運にして事故がおきなかったとしても、

日々生み出される死の灰が、

人類の大きな災厄として降りかかる日が近づいているのだ。

 農文協の主張:1988年08月 農村から世界を変える 農家の反原発運動


1988年08月 農文協の主張より 日本では農・漁村の人々が原発をはねのけ続けてきた

2011-04-22 | 農作業

以下は1988年08月 農文協の主張より抜粋 

日本では、

農・漁村の人々が原発をはねのけ続けてきた

 さて、アメリカ、ソ連、フランスにつぐ

原発「先進国」――日本の場合はどうだろうか。

 ことし二月、四国電力伊方原子力発電所の「出力調整試験」

(チェルノブイリ原発事故の引金となった試験と同種の試験)の際には

、その中止を求めて一万人が四国電力本社前に集まった。

 また427日には、青森県農協青年部協議会、

県農協婦人部協議会、農民政治連盟県本部などでつくる

「核燃料サイクル施設建設阻止農業者実行委員会」が、

施設建設の白紙撤回を求める145947人の署名を北村県知事に提出している。

 チェルノブイリの事故をきっかけに、これまでになく広範な人々が、

原発や関連施設の建設に反対して立ち上がり始めたのだ。

 ところが残念なことに、わが日本国の政府や電力会社は、

世界や国内のこうした声にまるで耳を傾けないどころか、

原発に反対する人々を警察力まで動員して「社会の異端者」扱いにしようとしている。

四月から五月にかけては、全国紙にたて続けに

「原発は必要であり安全だ」という一ページ大の広告が掲載された。

 いま日本で運転中の原発は36基あり、総出力2800kw、全電力の27%を生産している。

このことをもって政府や電力会社は、

「安全運転は原発立地の地元で信頼されているし、

もはや実績からみてあともどりできない」などというのだが、はたしてそうだろうか。

「原発が36基」などと聞くと、

たしかに「もうそれだけできてしまったのか」という気はする。

しかし、それを原発がある場所の数でみると、

全国で一五カ所である(つまり同じ場所に、2号基、3号基とたてられている)。

 そしてマスコミは、すでに原発ができてしまった場所だけをとり上げがちだが、

全国ではこの20年間に、その倍以上の30カ所近くで原発が拒否され続けてきたのだ。

 そのほとんどの場所が、都市から離れた農村であり漁村である。

 つい最近では、

 320日に四国電力の原発候補地となっていた高知県窪川町の町長選で、

原発反対をかかげた新しい町長が当選した。

窪川町は日本最後の清流といわれる四万十川が流れる農業のまちである。

この選挙で、1980年(昭和55五年)以来の、

町を二分した賛成・反対の論議に結着がつけられた。

 またその10日後の330日には、和歌山県日高町で、

関西電力が計画している原発をめぐり、

地元の漁協が建設の前提となる海上事前調査を受け入れる議案を廃案にし、

原発立地は白紙状態となった。

これは、原発の候補地となって以来、20年目のことである。

日高は、みかんで名高い有田のとなり町であり、

多くのみかん農家も原発ができることに反対してきた。

 20年前といえば、

むろんスリーマイルやチェルノブイリの事故がおきる前で、

「日本の片すみ」の原発反対運動に、いまほど注目する人はいなかった。

しかし、計画にあげられた地元では、

農漁民による静かな反対運動が続けられたのである。

そこには、外から反対を唱える以上に困難な面があった。

 この時代は、減反や200カイリ問題にみられるような、

農業・漁業の不振・危機の時代の始まりであり、

誰もが地域の未来に不安を抱き始めたころでもあった。

そして、原発の候補地となるのは、ほとんど例外なく大都市から離れ、

海に面し、三方を山に囲まれた交通の便の悪い「過疎地」である

(そのこと自体が原発の危険性を物語る)。

 そうした地域にいったん原発ができることになれば巨額のカネが流れ込んでくる。

たとえば100kw級の原発の場合、建設までに約5000億円を要する。

完成後、固定資産税は年間20億円近くにものぼる。

そのほか原発建設促進のために作られた電源三法交付金は五年間で約35億円。

「原発ができれば道路も関連工場もできて地元雇用も増え、人口も増える」と、

電力会社は宣伝する。

 農業や林業、そして漁業の先行きを暗くする政治がつづく中で、

このカネの魅力をはねのけることは容易なことではなかったはずである。

 30箇所の人々は、どのような考えで原発をはねのけ続けてきたのだろうか。

 

農文協の主張:1988年08月 農村から世界を変える 農家の反原発運動


地域に生きることの責任は誰が負うのか 農文協の主張1988年08月

2011-04-22 | 風の備忘録 

以下は

農文協の主張1988年08月

「地域に生きることの責任は誰が負うのか」

より抜粋です。

 

 窪川町の酪農家、島岡幹夫さんは、

原発に反対する理由をつぎのように述べている。

「窪川町は県下有数の農業の町である。

生命を生み育てる農業や畜産と原発は絶対的に共存できない。

微量放射能でも環境破壊がおきる。

 原発を設置することで社会環境の破壊が生じる。

労働者の就労の場が確保できても、地域産業従事者との間に較差やトラブルを生み、

とくに一次産業従事者が離職して町が衰退する。

風俗や社会秩序、教育が乱れる。

原発が設置された町の住人ということで将来子弟の結婚等に差別が生じる。

 原発より年間10~15億の収入が得られても、

100億の一次産業が衰退し農畜産物が売れなくなったら被害額が大きい

年間10億程度の収入は村おこし町おこしをすれば十分増やすことができる」

 電力会社は、地域にカネをもってくることはできても、

地域の秩序の乱れや結婚差別などの、

「暮らしの場所」としての地域の荒廃にまで責任はもてない。

 人が長い時間をかけてつくりあげてきた「暮らしの場所」としての地域は、

一企業の力で破壊することはできる。しかし、新たにつくり出すことはできない。

「暮らしの場所」として、地域の未来を見通すところから原発に反対する。

地域を、人が暮らし続けるにふさわしい場所にしていくには、

自然を生かし自然と折り合った村おこし、町おこししかないという考えである。

 農文協の主張:1988年08月 農村から世界を変える 農家の反原発運動


2011年4月19日 千葉・香取・佐原へ

2011-04-20 | 風の備忘録 

3年前千葉の香取で就農した農園スタッフに会いに行く。
千葉香取に向かう途中、
利根川の堤防のあちこちで地震による崩壊の改修工事が行われている

香取の人見君の作業場につくと
苗作りの準備作業。苗箱の水洗をしていた。


香取の谷津田



山水が入り給水は問題ないが
畦塗りが不完全の田が多く
そのため排水路に土が流れだし排水を妨げいるため

トラクターでの作業が危険な箇所が多く作業環境は芳しくない



 水のない田が広がる利根川の下流域千葉佐原。 


農業用水の幹線が地震で崩壊したため、ポンプで田圃の潅水していた


傾く電柱


佐原の東側に鹿島コンビナートの煙突が見えた
3月11日夜、
鹿島コンビナートで発生した火災は夜空を焦がして燃えさかったと
佐原への車中、人見君が話していた。
震源地から遠く離れた茨城鹿島、
そして千葉市原の石油コンビナートが炎上していたことを
岩手、宮城、福島の被害の大きさで忘れていた。

同じ利根川を水源にする農業用水が
今度の震災で崩壊したことを現地で見て
関東で震災が起きたときの見沼代用水の崩壊が予想出来る。

見沼代用水は農業用水だけではなく
私たちの飲料水を提供する生命線(=ライフライン)であることを
同じ利根川を水源にする見沼代用水のことに思いをはせた。

#334 放射性物質への雑感 - 千葉県で田舎暮らし・新規就農者のブログ-田舎日記の新規就農


2011年4月17日矢部史郎の「原子力都市」を読みながら

2011-04-17 | 農作業

ここを湿地と田圃による生態系ネットワーク形成ゾーンにすると
見沼代用水の水門を勝手に開け水を盗む輩がいる


農道の真ん中に車を止め野草摘みをする人あり。
農地でありそこで農作業をする人の迷惑など考えない。


余震でさらに傾いたパーゴラ


私は矢部史郎の「原子力都市」を読みながら作業をしていた

この本のことを松岡正剛氏は
「本書は上九一色村、呉、むつ、硫黄島、厚木、広島などを登場させている。
ほかに、タクシーが荒む京都、巨大ベッドタウンとなった川口、
臨海都市開発の先兵になりつつあるのに大相撲を失っていく両国、
ハイテクポリスの先頭を切るための圏央道の筑波ジャンクション、などもとりあげていた。
いずれも矢部が本来の都市を失っていると見なした日本だが、
気になるようならば読まれるといい。けっこうヤバイ本だった。」と評している。
2010年3月15日に以文社から出されたエッセイだが
2011年3月11日の福島浜通りで起きた東電の引き起こした事件の
「失敗の本質」を予見する記述がある

「原子力都市とはなにか。
それはまず第一に、技術と投機的な巨大計画による専制である。
専制的な計画と経済を前にして労働と労働者はかつての地位を失う。
(中略)
かつて生産を駆動させていた労働は、
不安定で信用のおけない災いの種になったのだ。
原子力産業は(そしてサイバネティクスによる管理は)、
ミスの許されない切迫した緊張を人工的に作り出すことで、
労働者を人材へと書き換える。
かつて生産を支えていた信頼と協同は、不信と監視に書き換えられたのである。」

 

畑は春。

コンパニオンプランツ に守られて咲くイチゴの花


堆肥場に埋めていた里芋の種芋を掘り起こす


里芋種芋の選別作業


タマネギ、ニンニクの生育順調


里芋の芽だしのための植え付け終わる

 

農園スタッフ竜也が今夜3回目の被災地にボランティア行く


必要な水をポリタックに詰め、
発電機と電工ロール、ガソリン携行缶を託す

 

とおくまで見渡せるように | 白いきりん


大震災  そのとき・・・そしていま、私は

2011-04-17 | 風の備忘録 

大震災―そのとき…そしていま 私は 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/ウェブリブログ

 作成日時 : 2011/04/15 18:46  


日々があわただしくやってきて、人々を置き去りにして飛び去って行く。
震災からいまにいたるまで大きな余震が、何度となくおこり、
津波の被害の大きさがつぎつぎとあらわにされ、
原発事故の影響は悪無限的に深まりと広がりを増している。
人々は日々に置き去りにされた空白を、非日常のかけらでうずめて生きている。
 あまりにも大きな変動だからこそ、TVや新聞の中の世界にとじこめてしまいそうになる、
現在という時間を、ひとりひとりのくらしのことばで、足元の世界に刻みつけておきたい。

……画像

身近な被災体験のつづき
■入所施設で出会った大災害
僕は青森の施設に来てこんなすごい災害にあうとは夢にも思わなかった。

平成22年3月11日のお昼過ぎの事、ガがガがガたんぐらぐらと揺れた、
車椅子はじっとしてられなかったのです。
ブレーキをかけて踏ん張っていても前後ろと動く、動く。
介護士が一人僕の所に飛んできて抱きついた。Kさん大丈夫だから、
大丈夫だからと言ってぼくを、抱きしめていた。
施設の利用者と従業員は何かあった時の為一か所に集まり出口確保した。

余震が来るたびに、手と手を取り合い励ましあっていた。
いつもはそんなに仲も良くないのに不思議だなあ~とぼくはおもった。
此処は高台だからまだ良いんです、平地に行くともう津波の影響がすごいです。

デパートや飲食店デパートは水浸しです。

俺と電気水がない経験を2日間しました。
自分がどんだけ電気に頼って生きているのかが良く解りました。
それと水のありがたさがよくわかった体験でした。
テレビはだめコンポのラジオもだめ、携帯 らじをだけが重宝したのです。
携帯はバッテリーが無くなってだめ、情報源は携帯らじをだけでした。

施設の中は外と変わりないくらい寒くジャンバーを何枚も着こんで廊下に集まっていました。
水が出ないのでトイレもだめ。なんとか調理場の排水を使用して用は足せましたが。
(青森県八戸市・O・肢体不自由者施設入所者)
■まだ残る隣組意識
大きな地震、86才になる義母は「こんなに揺れた経験は生まれて初めて」と言っていました。

東京下町で育ちその後はずっと越谷で暮らしている人ですから。
我が家は特になにも被害はありませんでした。

お向かいの家の大谷石の塀が見事に崩れました。
近くの土建やのトラックがすぐに来て道路に崩れた石を、
気がついた近所の人もあたりまえのように手伝って、
すぐに片付いてしまったのには驚きでした。
もう何軒もありませんが、
ここで長く暮らして来ている人達にはまだ「隣組」という意識が
普通にあるのでしょうと感じました。
 …電話が繋がらない経験を初めてしました。

まだ余震で揺れているし、電車は止まっているしで、
かおるの移動支援のキャンセルの電話がなかなか繋がらず・・・
ところがかおるは地震のことなど何ともなく、
帰宅するなりどこかへいこうとごねて「よいしょ!


あさひせんせい!やましたさん!うちのさん!

ちゅおうしみんかいかん!

まっくしぇーく!さいぜりあ!」と叫んでいました。

「でんしゃ、ばす」がなかったのは夕方だからあり得ないと思ってかな、です。

世の中何かいつもとは違うぞと感じて来たみたいで、今日は早く眠りました。


(越谷市・山崎泰子・障害者の職場参加をすすめる会運営委員)

■支援のありかたを現地で問う
電気が通っていないとき、足で歩きまわって津波の現場を見てきました。


写真を添付します。

タンクローリーが津波でごろごろ・・・港はがれきの山・・・。


そして道路は大変滑ります。津波が泥を置いていき、それが大変滑るのです。
そして、濃い潮のにおいが充満。


そのにおいが夜家に戻ったあとも脳裏によみがえってきて参りました。
聞こえないので、常に目の端で津波情報を確認して動きました。具体的に言うと、


津波の後片付けをしている人がたくさんいますので、

それらの人の様子を肌で感じながら(危険があると様子が変化するでしょうし、

逃げますから)撮影していました。
たぶん、聴覚を過信している聞こえる人よりも敏感だと思います。


欠けた機能があれば、残された機能をより活用して、痛いくらいに働かせて感知しますから。
そして、電気が回復した後は、すぐにパソコンを使用して必要な人に支援を開始しました。


(支援というと偉そうな言葉に聞こえて本当は遣いたくない)物や力の支援はできませんが、

情報の支援は私にもできます。
しかし、行方不明の人を探すための捜査は考えるより消耗します。


胸が潰れそうな思いです。

さらにだめだった人の情報をどう伝えればいいのか。

その一言に私の今までの生き方や考えや価値観、そういったものが出るでしょう。
 それとともに、遠方の方との考えのギャップが感じられました。


モノの支援も確かに必要です。でも、食べなくたって、

家族や親族や知り合いの安否をまず知りたいはず。支援ってモノだけじゃない。

ずっとたって、モノの支援が細々となったころだって、モノでない支援は必要でしょう。

お金では買えないものの支援が本当は必要かも。
そしてモノの支援はある意味、支援したいという人の自己満足に終わる可能性もある。


「私は○○を支援したんだ」という。
あげて終わりじゃいけない・・・。
一段落したら、支援される側をだめにしない支援が必要でしょう。


依頼心を作るより、希望や立ち上がれる力(強い気持)が必要だと感じます。

そのためのモノだったらしなければならない。

・・・そう私は思います。(八戸市・松井朋子・会社員)

■肌で感じた地域
その時は千尋のお迎えも済ませ在宅でした。

き叫ぶ四女と千尋を抱えて、ダイニングテーブルにもぐりました。
まだ下校前で小学校にいる上の娘たちのことが心配ですが、
下の2人を連れて出ることができません。
ようやく揺れも落ち着き、しばらくして長女と次女が帰宅し、ほっとしました。

それから間もなくして、
幼稚園のお母さん友達が「大丈夫だった!?」と尋ねてきてくれて、
ほんとうにうれしかったです。

地域で生きていること、つながっていることを肌で感じました。
大地震と原発の二重の被災にあわれている福島県。
県内の富岡町は、杉戸町と友好都市になっているとのことで、

町内の公共施設を避難場所として富岡町の方々を受け入れることになり、
明日から二日間、小学校などで、救援物資を集めることになりました。
この辺りの被害は小さいと感じますが、ガソリンスタンドは完売、


スーパーなどでは大変な品薄状態で、なんだか考えさせられている所でした。
私の仕事はホームヘルパーですが、ご利用者の買い物に出ても、
何軒回っても希望の品を買うことができません。
(しかもガソリンがないので自転車です)ヘルパーが訪問した時しか、
買い物を済ませられないのに・・・
必要な救援物資として挙げられている物を、

の中からかき集めて明日娘たちに持たせるつもりです。
わずかでもお役に立ちたいです。
そして、おなじ空の下、ともに生きていることをかみしめながら、
私は私でできる精一杯の中を生きようと思っています。
 

追伸
ご報告が遅くなりましたが、1月に入学通知が来ました。
これからもありのままでみんなの中へ・・・でもあり、
学校という社会へのはじめの一歩でもあると感じています。

(杉戸町・渡邊弘美・すぎと共に育ち学ぶ会)

■十六階のオフィスで
私は当日新宿にあるオフィスにいて,
8年前に建てられたという比較的新しい二十三階建てのビルの十六階にいました。

14:50頃に揺れが始まり,いつものように一時的なものだろうと思っていたら,
どんどん揺れが大きくなり立っているのが難しくなりました。
…揺れるビルから下を覗くと,
くの人々が周囲のビルから出て来て,避難をしているのが見えました。

車は問題なく走っています。
ただ,周囲には隙間なくビルが立ち並んでいますから,
ビルの倒壊や上からのガラスの散乱を考えると,

果たして下に避難するのがベストなのか,誰にも判断が付かない状況でした。
ビルの管理者からの館内放送が始まりましたが,地震が発生しているという,

「分かっとるわ!」と思わず突っ込みたくなることを言うだけで,

ビル内に待機すべきなのか,屋外に避難すべきなのかは言いません。
本当の緊急時には全く役に立たないことが良く分かりました。
本部長が回って来て,貴重品を持って逃げるように言われたために,

8割程度の人が階段で避難をしましたが,まだ2割ほどの人は残って仕事をしていました。
判断が付かないことと,仕事に追われているという二つの理由だったと思います。
私は避難した組で,下にいた同僚達と会い,ようやくほんの少しの安堵を感じました。

ただ,今からどうすべきかはやはり誰も判断が付きません。
ただ,携帯電話のテレビで津波によって数百台の車が流されているのを見て,
ようやく事の重大さが分かって来たのは確かです。(東京都・田島玄太郎・わらじの会)

■原発事故と医療放射線
原発事故で放射線の被ばくが大問題になっている。

スリーマイル島や、チェリノブイリを知らないわけではないが、それでも違和感がある。
日本は、世界でも人口当たりのCTの所有台数が多いと自慢している。

何かと言えば、とても気軽にCT検査をする。
早期発見ということで定期的な肺のCT検査が推奨されていたり、

めまいがあるとまずはCT検査をしてアタマは大丈夫と安心したりと、
無原則的に放射線をあびている。
ちなみに胸部CT検査だと6900㍃・シーベルトの放射線をあびる。
もちろん、原発事故では、あびる時間や年齢もあるし、
意思に関係なく否応なくあびてしまうという問題がある。
影響は人間だけにはとどまらないし、一世代にとどまらないこともある。

大本営発表を聞きながら、福島から離れた埼玉でも放射線だ、
放射線だという騒がれ方に、どうして人は医療であびる放射線に寛容なのだろうと考える。
誤解しないでほしいが、私は医療で放射線が果たす役割を否定しているのではない。

四年前、お腹の手術をした際にもCT検査を二回うけたし、
術後も腸が働くまで毎日のようにレントゲン写真を撮った。
医者になった頃よりははるかに検査や治療にその果たす役割は大きいものがある。
それでも、
早期発見や安心のために気軽に放射線をあびることと原発事故の騒がれ方が結びつかない。
電気がないと仕事もできないし

暗いというだけでなく暖房や風呂もかなりの機能がマヒしてしまう生活というのはなんとヤワなんだろうと思う

春日部市・水谷淳子・医師)
さらにつづく

画像
■呼吸が止まったきみ子さんと地震に
きみこさんの呼吸が不安定になったのは8日火曜日のことでした。
午前の介助の坂井さんが「なんだか呼吸が止まっちゃうときがあって脇を離れられない」と。
同時間には訪問看護さんが来る日で、
ここのところ、きみこさんの日常に必要となってきていた痰吸引器の講習会も予定していました。
講習会はおこない10人程度の人が集まりましたが、
吸引器の扱い方よりも、「きみこさーん、起きてー、呼吸してー」という声掛けをしながら、
こんなときどうしたら、という話のほうが中心になった時間でした。
翌9日には血圧が高く、脈も早い状態が続き、
介助体制を急きょ2人体制に組んで対応することにしました。
そのまた翌日の10日には呼吸も荒く、胸のゼロゼロとした音も強くなり、
きみこさんのご実家に具合が悪いことを伝えたりと緊張した時間がありました。
そんな状況の中迎えた11日、
きみこさんは段々に口からの飲み食いが難しい感じでそれに伴い排泄量も減り、
これでは体力がもたなくなっていく、
鼻からチューブを通して水分栄養を摂取していくようにしようと考えていたところでした。
そんなことで、大西医院に状況報告を電話していたその最中に地震がきました。
電話の向こうの看護師さんと「地震ですね」
「あら、そうですね」とそれでも話し続けていましたが、
段々に揺れが強くなってきたのであわてて電話を切り、きみこさんのベッドの脇にいきました。
もんてんにいたのはきみこさんと会沢まちこさんとわたし。
まちこさんがきみこさんの部屋のタンスや物が倒れてこないかを注意し支えてくれ、
わたしは何をしていいものかわからずにきみこさんに覆いかぶさりました。
ギシギシと音を立てながら揺れるきみこさんの部屋で、「これは夢じゃない?
ねえ、きみこさん、夢かな。もうどうせだったら、
火曜(きみこさんが体調不良になった)から全部夢ってことにしない?!」なんて言ってみたりしながら、
その現実を把握できないままとても長い時間揺れていたように思います。
でも、その揺れのなか、きみこさんはとろとろと眠ったままで、その変わらなさにほっとしたり。
その日は介助者の手配ができていず、
午後はきみこさんとわたしだけがもんてんにいる状況だったので、
「ひらちゅうだけじゃ」と気にしてもんてんにいてくれたまちこさん。
まちこさんがいてくれなかったら、わたしはもっとパニックになっていたと思います。
揺れがおさまり、べしみから中山さんや内藤くんが上がってきてくれて、さらにほっとしました。
地震前には鼻チューブをしなくてはと言われていたきみこさん、
でももう電話も通じないし、先生も訪看さんも来られないだろう。

もう仕方ないよね、緊急事態だから!
きみこさん、それでも飲まなきゃ干からびるから口から飲もう!い
つどうなるかわからないから、薬ものんじゃお、
ととりあえずひと落着きした16時に中山さんと水分補給をしたのを覚えています。
その後、地震の影響で介助者が来られなくなることも心配されましたが、
そんなこともなく、むしろ地震当日金曜、翌土曜は一人暮らしの障害者メンバーや職員がべしみ、
もんてんに泊まり、わたしは安心して自宅に帰れました。
状態が心配されたきみこさんは、皆の手厚い介助・看病が功を奏したのか、
きみこさんの免疫力の強さもあってか、徐々に状態が安定してきた今日です。
地震前に介助者二人体制を組めていて良かったとつくづく思います。
これが一人介助体制、
ましてやきみこさんを一人にしておくようなときにあんなことがあったら、と思うと、
どんなことになっていたかと…(越谷市・辻彩子・生活ホーム職員)

 

大震災―そのとき…そしていま 私は 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/ウェブリブログ