blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

『分解者たち』の書評が今朝の朝日新聞に載っていると連絡あり。

2019-06-08 | 風の備忘録 

 

(書評)寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト

『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』 

猪瀬浩平〈著〉 森田友希〈写真〉

■多様な人々の共生に地域耕す力

 障がいのある兄を持つ1978年生まれの著者は、

埼玉の見沼田んぼの福祉農園に一家で関わる中で育った。

彼は自らの土地感覚を踏まえつつ、首都圏開発の周縁に位置し、下水処理施設やごみ焼却場、

朝鮮学校といったものが集められてきた見沼田んぼと周辺地域の歴史を掘り起こし、

その意ログイン前の続き味を咀嚼(そしゃく)していく。

タイトルにもある「分解者たち」というキーワードが表すように、居場所のない、

見向きもされないものたちが、ダンゴムシやミミズが土を豊かにするように、

少しずつ地域を生きやすい場所に変えてきたその軌跡は、静かに力強い。

 76年越谷市役所の職員から起こった、障がい者との共生を目指す運動は、

「わらじの会」となり現在まで継続しているが、

その初期の過程ではそれまで家の一室に閉じ込められてきた障がい者たちの「過去」が見いだされた。

「寒いとき綿くりやってたんだ」という当事者の語りは、農業が機械化していく70年代までは、

障がい者が農閑期の手間仕事の重要な労働力であったことを明らかにする。

 相模ダムと津久井やまゆり園の歴史に触れる章もある。

ダム建設の日本人・朝鮮人・中国人犠牲者の追悼会では2017年、

津久井やまゆり園事件の犠牲者も同時に追悼された。

共にその場に参加した際、障がいのある兄が叫んだことについて著者は不安と不満を読み取り、思い巡らす。

私達(たち)は自ら叫ぶことを忘れて言葉のみを空しく並べ、それ以外の表現を排除してはいないか。

かつてその土地に響いた叫び、本当は今も人知れず響いている叫びに耳を澄ますことを忘れてはいないか。

健常者と障がい者、日本人と朝鮮人、定住者と野宿者。

いくつもの差異を無化していく営みの可能性を、著者は多様な者がうごめく見沼田んぼに見いだす。

論文の硬さとエッセイの軟らかさをあわせ持つ本書は、

読み終えた本の重さがそのまま筆者の未来への祈りのように感じられた。

 評・寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト)


東井さんを偲ぶ会 東井怜という生き方

2018-08-18 | 風の備忘録 

 

 東井 怜 という生き方

~東井さんを偲ぶ会
8月19日(日) 開場 I時半 開始2時 終了4H半
会場 ココネリホール
(東京都練馬区/練馬駅前)

https://www.nerima-idc.or.jp./plaza/coconeri/

西武池袋・有楽町線(東京メトロ有楽町線・副都心線、

急東横線、みなとみらい線直通)および

都営大江戸線の練馬駅中央北日から徒歩1分
会費:1000円
※終了後に交流会企画中です。
〈プログラム〉
8つのテーマに分けて、映像・スライド映写とゆかりの多くの人たちからの言葉で、

東井さんの生き方を振り返ります。
《新座》《原発止めよう埼玉連絡会》《チェルノブイリと核の大地写真展事務局》
《東電と共に脱原発をめざす会》《福島》《柏崎刈羽プルサーマル》《浜岡原発》
〖3、11以降》会場では東井さんが関わった掲示・展示物(冊子、チラシなど)も用意する予定です。

お手持ちの記念になる品があれば、当日御持参下さい
::菫言Z會曹量菫彎ヨ菫量言量菫ヨ會Zξ多ヨ:多||=
3月21日の突然の訃報から二か月が経ちました。

いまだ、信じられない思いです。

しばらく、健康第一の生活を送られていましたから、

ほんとにたまにしか会えなくて、電話ではいつもと変わら
ない声で、元気だよ、と言っていたのにひょっこり、また現れそうな気がします。

レイだからね、という声も聞こえてきそうです。
『東井怜』という生き方タイトルは ア」れ! と一同一致。
彼女の生き方を学ぶために、いえ、生き方をもっともっと知るために、集いましょう。

 〈友人一同より〉

主催:東井怜を偲ノ3ミ会
連絡先:090-3539-7611
mukai_y26@pi5.fiberbit.net


2004年8月 颱風17号による被害

2017-07-20 | 風の備忘録 

芝生広場の山桜とプレハブ小屋前の銀ドロの木が台風17号の吹き戻しの風で倒壊しました。

 銀ドロの木は開園のお祝いに前田さんか持ってきてくれた苗木が6年間で大きく育ったものです。
銀ドロの木は大きな枝のうち1本が折れ、後の2本は残ったので来年には再生するでしょう。


農園のシンボルとも言えた、芝生広場の山桜が台風がもたらした強風で倒壊してしまった。
それぞれの人が、多分思い入れを持っていた木で、しかも開園以来順調に成長してきた。
 山桜は開園時から芝生広場の真ん中に植えられていたものです。

れが、の強風で倒れてしまった。

開園から6年、最近では日照の日には日陰を私たちに提供するまでに成長し、
来年の春は咲いてくれるのではと期待をしていたのですが残念です。 
 山桜は胴切りにして根っこを他に植え替えるつもりです。また、枝を出してくれるといいのですが・・・。
寂しさとも悲しさともつかない、突然友人を失ったような、むやみやたらの喪失感だけが残った。
 アジアの風は、恵みも被害も二つながらにもたらす。
結局、両者は裏表なのかもしれない。或いは僕らは、喪失と共に日々生きている。
そのことに目を背けるのも、また喪失をただ感傷的に語るのも、余計なことであり、
この後どうするのか現実的に考えるのが、日々生きて、日々死に近づく、僕らの仕事なのだろう。


2002年10月 颱風21号による福祉農園の被害

2017-07-20 | 風の備忘録 

園の台風21号による被害状況
 第1農園芝生広場の日陰棚は古い方は押しつぶされたようになって倒れていた。
どんな力が加わるとこんな状態になるのか不思議な感じだ。
ヒバの木で囲んだ日陰棚は何故か無事。ヒバの木が何本か少し傾いていたけれど。
 井戸の日よけ雨よけのための小屋はびくともせずに建っていた。
太いしっかりとした竹の柱を1メートル近く埋め込んだのが功を奏したようです。
 第2農園のハウスはさすが強風にもビクともしていなかった。
しかし、キュウイ棚は全壊の状態。キュウイ棚だけでなく、
ハウスに平行して建てた棚は全て端から端まで倒壊していた。
 ハウス裏の竹小屋の東側にそびえていたプラタナスが根元からもげて、
池をおおうように倒れていた。拡張した池の前に立っていたプラタナスも根元から倒壊。
2本とも薪になる運命か。
 第1農園の日陰小屋の修復は人数がいればそれほど難しくないようですが、
第2農園の全壊した棚は修復は難しいように思います。
この際、立て直すつもりです。

 撤去する棚の材料で鉄製のものは再利用しますが、
竹は第3農園に運んでいって、燃して草木灰にします。
 竹の灰は草木灰の中でも最良の灰だそうで、かなりの値段で流通しているそうです。
 今回の結果を見ると孟宗竹の方が、強い力に対してしなりもあるので、
足場パイプより結果として強度もありそうです。
 建て直す棚は、第1農園の井戸の小屋のように、孟宗竹の根っこの太い、
しっかりしたものを選んで、1メートル近く深く地中に埋め込んで柱にしようと思っています。
 農園復旧作業は、人数がいないと作業できないので、多くの方々の参加をお願いいたします。
復旧から再建に
 10月3日の昼頃農園に着くと、
デイケアわくわくのメンバーが木の枝を一輪車で第3農園に運んでいる様子がまず目に入った。
 デイケアわくわくの畑班と農園ボランティアの方々が復旧作業をしていくれていたので
作業はかなり進んでいたが、作業はまだ残っていたのでキュウイ棚の解体作業を始めた。
3時過ぎ、わくわくの部隊が引き上げの準備を始めた頃、
他の農園ボランティアがが到着、情報交換の後、復旧作業を再開した。

 以下は、復旧作業に参加した農園ボランティアのレポートです。
「私はわくわく号に同乗させてもらって、10時前に農園に着いたのですが、
その時すでに農園ボランティア大井さんとあっきーが倒れた棚の片付けをしていました。
その動きの早さ、手際の良さに脱帽としか言いようがありませんでした。
代表や、先輩農園ボランティアの方々にとっては、
今まで作り上げてきたものが一夜にして崩されたわけだから、
それどころじゃなくいろんな思いがあることでしょう。
第2農園についてはほとんど新たに作り直すことになるのでしょうが、
私にはまだ全然イメージがついていません。」


2000年7月 颱風3号

2017-07-20 | 風の備忘録 
 颱風3号が去った、2000年7月8日土曜日。

農園に向かう車の中でラジオが
「前夜、関東地方に接近した颱風3号の影響で
見沼田んぼを流れる芝川が氾濫した」と報じていた。 
農園の西北には芝川の支流の加田屋川が流れている。
芝川が氾濫した以上、加田屋川の氾濫は避けられない。

果たして農園までたどり着くことができるのか不安がよぎった。 
幸い浦和の中心街から見沼田んぼを越えて浦和の東部に抜ける市道三室野田線は
水没を免れ農園までの道は確保されていた。
三室野田線の下を流れる芝川はラジオが伝えたように冠水していた。 

市道から農園に農道を下りていくと農道の先の方が水没して
第1農園の加田屋川に沿う一体は川のようになっていた。

農園の農機具倉庫のあたりは3㌢位まで水没していて
農作業は何もできない状態になっていた。

農園内は冠水や強風により果樹と樹木に被害が出ていた。
 
農園スタッフが「畑を掘り返したが、
水位が上がってしまっているので水が引くのを待ってからしか仕事にはならない」と。
 農園ボランティアの浜田さんは
水をかぶっていない第2農園入り口脇の畑にハーブの苗を植え始める。
 浜田さんが個人的に借りている芝川の近くの畑が
「完全に水に被われて、
置いてあった耕耘機のハンドルの部分が水の上から見える状況だ」と話してくれた。
その後合流したスタッフと強風で倒された果樹や木々の手当をして夕方まで時間を過ごした。

埼玉障害者市民ネットワーク総合県交渉

2016-09-01 | 風の備忘録 

毎日新聞 8月31日埼玉県版朝刊 
県庁に4日間、教育長に直接主張

 台風10号の接近で朝から 雨が降りしきった30日、さいたま市浦和区の県庁に、
車いすに乗った人たちが続々と集まってきた。
障害者やその家族、支援者が行政への要望を伝えるため、
28年前から続けている「総合県交渉」に出席するためだ。
会場となった県庁内の講堂には100人近くが詰めかけ、約20台の車いすが並んだ。  
冒頭、今回の要望書をとりまとめた

埼玉障害者市民ネットワーク代表の
野島久美子さん(58)=春日部市=がマイクを握ってあいさつし、
続けて山下浩志さん(73)=同=がスクリーンにスライド画面を映し出した。

示したのは、棒グラフ。1979年の養護学校義務化の時点から、
養護学校や特別支援学校などで「分ける教育」を受けて福祉施設に入所した人が、
倍以上に膨れあがった状況を表していた。「(障害者を受け入れる)福祉施設がこれだけ増えると、お金がかかる。
そうすると『(障害者は)金食い虫だ』という発想になり、
津久井やまゆり園のような状況が、社会の中に生まれる」。
山下さんは、社会に大きな衝撃を与えた「やまゆり園事件」を引き合いに訴えた。

  ◇   ◇ 

 知的障害のある少年の高校入学を求め、
初めての「県交渉」が行われたのは1988年2月。
この時、山下さんはすでに未来を予見し、県教育委員会の担当者に次のような手紙を送っていた。

 <障害が重ければ重いほど、
大人になってからその人のケアをやろうとすれば莫大(ばくだい)な費用がかかります。
そういうムダをするよりは、義務教育で、
そして高校で、さらには自治体行政の中で、共に学んだり、
働いたりする関係を広げていく努力のほうがずっとたやすいはずです>
 この時、結局、少年らの入学はかなわず、3カ月後には少年らやその家族、
支援者が知事や教育長との面会を求めて知事応接室に居座り、
4日間にわたって「占拠」する事態に発展した。この中に野島さんと山下さんがいた。
3日目の夜、ようやく姿を現した教育長を前に、脳性まひの野島さんが、
車いすを使用しながらアパートで一人で暮らしてきた経験を説明し、
障害者が「普通に」暮らす意義を主張した。
「こんな小さなことの話を、あんた方が、大きく大きくしちゃってるんですよ」 この「占拠事件」から28年。
野島さんは「(障害者のための)制度が整って、
サービスも充実したけれど『分ける』システムはなくならず、
障害者は今も見えないベールに包まれている」とため息をついた。 
 ◇   ◇ 
 先月26日、相模原市で障害者19人が刺殺される事件が起き、差別や偏見の問題、
「障害者が生きづらさを感じない社会の在り方」が改めて問われている。
県内には重い障害を持ちながら、施設入所や特別支援教育といった「分ける」システムを拒み、
健常者と同様に街の中で暮らす人たちがいる。彼らが目指すものは何か。
約四半世紀前に起きた「知事応接室占拠事件」を出発点に考える。
【奥山はるな】=つづく
 農業機械化で仕事も奪われ 1988年5月11日、毎日新聞
車いすを先頭にした一団が、知事や教育長との面会を求め、県庁本庁舎2階の知事応接室にこもった。
集まったのは中学校を卒業し、県立高校への進学を希望した知的障害のある少年3人と、
その夢を後押しする家族や支援者。
「知事も教育長も出てこないから待つことにした。

占拠するつもりはなかった」。
行動を主導した1人、山下浩志さん(73)=春日部市=は、ひょうひょうと振り返る。
 山下さんは60年代中ごろから、医学連(全日本医学生連合)委員長として学生運動に関わった後、
東京都内から春日部市に移住し、77年ごろから隣の越谷市に養護学校をつくる運動に加わった。
しかし養護学校が整備されたことで普通学級に通う障害者への圧力は強まり、
79年に養護学校が義務化された。
 こうした流れの中で山下さんは疑問を持ち始め、
78年に「障害のある人もない人も共に街に出て生きよう」を合言葉に、
障害者や支援者でつくる「わらじの会」を設立した。
 養護学校が義務制になっても通常の小中学校に通い続けた障害のある子どもたちが、
高校に入学するはずの年を迎えたのが88年。前年の秋から入学に向けた交渉を続けていたが、
入学できないままに新年度が始まってしまった。
「占拠」は最後の手段だった。
当時の知事は革新県政を掲げた社会党出身の畑和(やわら)氏。
「簡単には排除されないだろう」との目算もあった。
4日間の占拠の意義について、山下さんは「障害者が生身の人間として、
その場に存在したこと」だと考えている。知事応接室のソファは障害者やその家族、支援者で埋め尽くされ、子どもたちが跳びはねて遊んだ。
 一同は「総点検行動」と称して各課を回った。駅へのエレベーター設置や、
車いすでは入れないほど狭い県庁内のトイレの改善を求めた。
県庁正面玄関の真上にあるバルコニーで車いすの人たちがひなたぼっこをしていると、
職員が「警告書」を手に入ってきたが、結局は退散した。
 知事が現れないまま迎えた3日目の夜、教育長がようやく知事応接室に来て、
「(小中と同様に通常の高校への)自主通学を続けられる方策を検討したい」と回答した。
 こうした運動を下支えし「占拠」にも参加したのが、
障害ゆえに義務教育を受けられず、
30代まで越谷市の農家の離れにこもっていた新坂光子さん・幸子さん姉妹だ。
「占拠」から2年後(90年3月)の「県交渉」。
ストレッチャーに横たわる姉・光子さんの語りを支援者が書き取り、県庁の壁に張り出した。
 <おれらは ねんきんきり(年金しか) はいらねえ だから おやたちに みてもらってきた> 
 姉妹はかつて、豆の殻むきや裁縫を任せられていた。
しかし農業の機械化が進むと仕事を奪われ「ごくつぶし」の存在とされた。
わらじの会は、そんな姉妹が街に出て、自活できるよう寄り添った。 
<いま みんなで まちにでたり はたけ やったりして がんばってる>
<おれらも まちで みんなとくらしたい ちじさん かんがえてくんろ>
 半年後の90年9月に光子さんは急逝。その語りは遺言のように、支援者の間で語り継がれている。=つづく

■ことば  養護学校の義務化
かつて義務教育の対象とされていなかった重度・重複障害のある子どもに対応するため、
国は1973年の政令で、79年4月から養護学校への就学を保護者に義務づけた。
これにより全国に養護学校が整備されたが、
慣れ親しんだ地域の小中学校への通学を望む子どもや保護者からは反発が起こった。
学校教育法の改正で2007年4月、養護学校は盲学校やろう学校と合わせて「特別支援学校」に移行。
県によると、義務化された79年度の県内の養護・盲・ろう学校の生徒数は2727人。
昨年度の特別支援学校の生徒数は7179人に達し、大きく増加している。

 


5月9日九石君逝く

2016-05-10 | 風の備忘録 

大宮で列車に乗り熊谷へ
九石君の葬儀へ


 小学校、中学校、高校と地域の普通学級に通い、
高校を出てからは県庁の「あんてなショップかっぽ」の店番をやりながら、
熊谷の町で生きていた九石さんが亡くなった、若い35歳だった。

街に生きる良太氏の戦友がこの世に別れを告げた、
3年前の西さんに次ぐ喪失を感じる。


備忘録2016.03.31

2016-03-31 | 風の備忘録 


安保法制違憲訴訟埼玉の会の呼びかけ人に名を連ねた。
 私が繰り返し反芻してきたのは、
「平和とは異なる手段をもってする戦争の継続である」とするクラウゼビッツ「戦争論」の言葉。
医学部を除籍になった70年頃から、
731細菌戦部隊の医師たちの全容とその後について、国会図書館に日参して資料収集をした。


その過程で、遠縁にあたる者が細...菌戦に従事した幹部で戦争犯罪人として処刑されたことも知った。

 だが多くの医師たちは帰国し、広島、長崎の原爆の被害者の(治療ではなく、
その威力の)調査研究に従事したり、朝鮮戦争等での細菌戦研究に協力したりした。

 大学に戻り教授になった者も多く、私が山岳部時代になるほどと思った凍傷の適切な治療法も、
実は「マルタ」と呼ばれた捕虜たちを酷寒の屋外に放置する「実験」を重ねて得たものだと知った。
 1947年に設立された国立予防衛生研究所(現・感染症研究所)は、
細菌戦部隊から帰った医師たちの大きな受け皿で、
アメリカがつくった原爆傷害調査委員会(ABCC)は彼らの参加により支えられた。

 2014年に開催された立命館国際平和交流セミナーでの西里扶甬子さんの
「731部隊,原爆,ABCC,そして福島~科学者の倫理 を問う」と題するレポートをyoutubeで見たが、
この流れに福島の原発事故による放射能被害はないと言い続ける山下俊一にもつながっていることを、
わかりやすく解説している。

 2012年12月にわらじの会から出版した「地域とからだーまなざしを問う」では、
小児科医・山田真さんが「今は長崎大の山下俊一というのが、ひどいことを言い歩いている。
『ストレスが多いと放射線の影響を受ける。
よく笑っている人は放射線の影響受けない。』と言ってるらしいんだけど、
だから、本当は広島や長崎はだめなんですよ。
そういう意味ではABCCの手先みたいになっているから。
でもなんとなくあそこらへんの人なら専門だろうということで、
そういう人に乗せられてしまうことがある。」と述べている。

 1950年に731部隊隊員たちより設立された日本ブラッドバンク(後にミドリ十字)は、
細菌戦の技術を乾燥血漿に活かした。

そして60年代半ばから血液製剤を作り、薬害エイズを引き起こす。
 やはり「地域とからだ」の中に
元国立公衆衛生院の母里啓子さんの「インフルエンザのほんとうの話」が載っている。
日本の感染症対策の大きな問題として、「隔離して追い出す」、
「撲滅する」という発想が強いことを指摘している。

「インフルエンザは風邪じゃない」と称して毎年有効性が乏しいワクチンを強制するのもその表れ。
母里さんが1970年代後半の体験として、
横浜の鶴見川で国内にはいないはずのコレラ菌が発見されたというので、
2週間にわたって膨大な塩素剤を川に撒く作業を手伝わされたと述べている。
川の水を1トン以上飲まなければ菌があっても胃酸でやられて発症しないにもかかわらず、
存在そのものを抹消しなければ気が済まない。
その陣頭指揮を執ったのが、731部隊関係者の国立予防衛生研究所所長だった。
 このように戦後もずっと、
「平和」な日常の中に、隔離、排除、差別、分離などの形をとって「戦争」は続けられてきた。

安保・戦争法制はそうした裏面の「戦争」を一挙に表舞台に押し出し、
疑問や批判を許さない体制にしようとするもの。
 そんな思いを抱きつつ、呼びかけ人メッセージを書いて送った。
「障害、病気、性、所得、民族……いろんな人が共に学び、働き、
暮らす地域を分けて壊す戦争国家への道を止めよう!」by山下浩志


気に入った詩を忘れないために

2015-10-19 | 風の備忘録 

世界中で既存政府に対する不満が高まっています。
デモというと、このフランスの歌を思い出すんですが、
歌詞が素晴らしくて本当に共感します。
国の、細かな事情は違っても、この歌が訴える思いは、
今の日本の私たちの思いと重なるところがいっぱいあります。

***

オレが住んでるスラムから
アンタが住んでる田舎の村まで
オレたちの現実は同じなんだ
そこらじゅうで反乱が起こりそうだ
この世界でオレたちのいる場所は無い
オレたちの顔じゃイイ仕事は見つけられない
オレたちは豪邸の生まれじゃない
親父でさえクレジットカードなんて持っていない
ホームレス、失業者、労働者、
農民、移民、不法滞在者、
奴らはオレたちを分断した
奴らはうまくやっていた
オレたちが連帯しないから
奴らは甘い汁を吸えたんだ
でも、オレたちは目覚める時がくる
そして、また奴らの首を落とすんだ

だからあきらめない!
あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!
あきらめないぞ!

奴らは平等だと言っていた
オレたちはバカみたいに信じていた
『民主主義』?冗談じゃない!
ホントかウソか見ればわかるよ
投票用紙に価値はなく
株式市場の方が大事なのさ
ハッキリ言ってしまおう!
オレたち、ハメられちまったんだよ!
人権なんて価値はなく
エアバスのセールスの方が大事なのさ
一言で言ってしまえば
もっと稼ぐためには魂まで売れってことさ
この国は堕ちた売春国家
世界の独裁者を客に取る
奴らのきれいごとは、もう信じない
政治家たちはウソつきだ

だからあきらめない!
あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!
あきらめないぞ!

まったくバカげているぜ
平和の話?友愛の話?
ホームレスがのたれ死にし
移民たちが追われている時にする話か?
奴らは労働者にパン屑を放り投げた
労働者をなだめるために
この社会で大切な “財界のお偉方” に
労働者がたてつかないようにさ
どれだけ奴らは守られているんだ
金持ちや権力者……
優遇されるのさ
社長が大統領と繋がりがあればね
同志のみんな、有権者のみなさん、
忠実な消費者のみなさま、
さぁ、その時がやってきた!!
出直すときが来た!!
闘いあるかぎり希望がある
命あるかぎり蜂起する
闘っているかぎり倒れることはない
起き上がるかぎり引くことはない
勝利への執念がボクたちの血に流れている
いま、なぜ闘うのかわかるだろう?
理想はただの夢じゃない
さぁ、もう一つの世界をつくるんだ!

だからあきらめない!
あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!
あきらめないぞ!

だからあきらめない!
あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!あきらめない!
あきらめないぞ!

***

連帯する時が来たんだと思います。
目覚めて、闘う時が来たんだと思います。
それはとても突然だったけれど、その時が目の前に現れるのは、たいていの場合突然です。
もう充分驚いたでしょう?
もう充分気がついたでしょう?
だから目覚めましょうよ!
闘いましょうよ!
初めてのことだから、恐いしやり方もわからない。
けれども、始めないと始まらないし、なにも変わらない。

失敗するかもしれない。
思うようにうまくいかないかもしれない。
けれども、やめたらそこで終わりだからね。
だからあきらめない!
あきらめないったらあきらめない!
みんなで叫ぼう!
あきらめないぞ!


見沼田んぼのほとりから

2015-02-01 | 風の備忘録 


宇沢弘文
人間のための経済 
定価 本体1600円+税
ISBN978-4-7917-1295-3
line2.gif
『現代思想 2015年3月増刊号』 
【発言】
「新国立競技場」建設に反対して / 宇沢弘文/森まゆみ(解説)
【テクスト】
ケインズ=ベヴァリッジの時代を振り返って / 宇沢弘文
【エッセイ】
宇沢弘文と柳田国男 / 柄谷行人
「怯まず・屈せず・逃げず」宇沢弘文さんとの思い出 / 田中康夫
宇沢弘文と慎み深い経済学 / 平川克美
【討議?】
宇沢弘文の思想と仕事 / 内橋克人+神野直彦
【経済学者として】
宇沢理論の二一世紀 / 小島寛之
宇沢弘文先生とケインズ経済学 / 大瀧雅之
【社会的共通資本・理論編】
社会的共通資本の思想 / 間宮陽介
社会的共通資本(SOC)とコモンズ 宇沢経済学の現代的意義 / 西川 潤
【証言】
宇沢さんと意見書 / 斎藤 驍
難題解決の実践にとり組んだ宇沢弘文さん / 山口幸夫
【討議?】
「公害」の時代を生きて / 宮本憲一+西谷 修
【社会的共通資本・実践編】
経済と教育 / 佐々木 賢
社会的共通資本と漁場利用制度 / 濱田武士
都市の空間を取り戻すために 宇沢弘文の「都市思想」レキシコン / 加藤政洋
【ミナマタ】
現場と理論の往還道 水俣学の試み / 井上ゆかり
メチル水銀中毒問題と宇沢弘文氏の考え方 / 斎藤 恒
【投資/貿易】
「グラス・スティーガル法」の根拠=「一九一七年対敵取引法」と米国の鉄梃外交 / 本山美彦
社会的共通資本がある世界と国際経済 宇沢弘文のTPP批判を中心に / 山川俊和
【原発をめぐって】
原子力発電について沈黙した宇沢さん / 吉岡 斉
宇沢理論における経済の形式と実在 / 室田 武
【農から考える】
ネオリベの時代に「新農本主義」を求めて / 安藤丈将
見沼田んぼのほとりから 〈東京の果て〉を生きる/猪瀬浩平

これまで農園で活動する中で考えてたことを
明日刊行予定の
雑誌『現代思想』の増刊号(特集 宇沢弘文)にまとめました。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791712953 


健さんに続き菅原文太さん逝く

2014-12-02 | 風の備忘録 

七年前に膀胱がんを発症して以来、
以前の人生とは違う学びの時間を持ち
「朝に道を聞かば、
夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。
一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。
もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、
荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。
すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、
これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、
ここにお詫び申し上げます。菅原文子