blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

6.22福祉農園開園20周年事業 雨にも負けず無事に終わる

2019-06-24 | 龍神伝心

 2019.06.22福祉農園開園20周年事業

雨の予報もあった中、120名以上の福祉協議会関係者の方達が参加頂きました。
福祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げて20年続きました。

この間、数え切れない方達が福祉農園に関わってきたと思いますが、

20周年事業としては20年を振り返るのではなく、これからの20年を考えることだろう、と思い、

それは共に汗をかき、共に飯を食い、共に歌い

大雨により、やりたかったことや聞きたかった話が途中終了してしまったことは残念ですが、

ケガや大きな事故も無く終われて本当に良かったです。

準備期間ずっとサポートしてくれた実行委員の皆様、都合をつけて参加してくれた方々、

遠方から来て頂いた方々、

綱引きの綱や音響機器を貸して下さった朝鮮学校の方々、

飲み物ブースを提供してくれた浦和北ロータリクラブの方々、

参加できなかったけど福祉農園をこれまで支えてくれた方々、

全ての人に感謝いたします。
これをきっかけに協議会団体の距離が近くなれば幸いです。

                        実行員長 寺床純三

 

 

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福祉農園が1999年5月に 共生の農業を掲げ20年を迎えました。

2019-06-21 | 龍神伝心

祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げ20年を迎えました.。

この間

農園に関わっている方々も当時からライフステージが変わり ながらも、

耕し続け現在まで続いています。

皆さんにとって関わり始めた頃の農園や今の農園はどんなものでしょうか。

そしてこれからの農園はどんなものになるでしょか。

 
 
 
 
 
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年。
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年
 
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乱開発の語気が止まった1987年 Ⅱ

2019-06-19 | 龍神伝心
1987年
 
見沼田んぼの片柳に約一反の谷地田を借り、現在の福祉農園の代表が家族や友人と共に農園の実験を始めます
 野を焼き、篠竹の根を掘り起こし、枯葉を集め堆肥づくり、そこから農場作りは始まった。

 農家資格のない市民は農地法上、農地を買ったり、長期的に安定して借り受けることができない不法耕作者です。片柳の試みは圃場整備事業が入り、わずか4年で終わる。
ここでの体験が現在の見沼田んぼ福祉農園の農園作りに活かされています。
1991年。土地利用協議会が始まる。
1995年。

見沼3原則に代わる新たな「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が決定される。

見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」の方向として
①人間の営みと自然との調和
②緑豊かな空間 
③効率的、、安定的に農業が行える場 
④ライフステージに応じた自然とのふれあえる場 
⑤治水機能の保持に配慮しながら農地、公園、緑地などとして土地利用を図っていくことが掲げられた。

1998年。「基本方針」の柱に見沼田圃公有地化推進事業が位置づけられた。
見沼田圃公有地化推進事業とは
厳しい開発規制と引き換えに県が農地を買い取ったり、借り受けたりして活用する。
基本方針に沿って98年に始まり、約14ヘクタールが公有地化された。
公有地事業で福祉農園や市民農園、体験水田などが生まれた。
1999年春 
公有地化推進事業の一環として見沼田んぼ福祉農園が開園する。

 見沼田圃公有地化事業が始まり、見沼田んぼを愛する多くの市民が、自然な形で見沼田んぼの保全の活動に参加するチャンスが広がって来ていることを実感しています。
 実際に福祉農園づくりに携わってみて感じることは、公有地化推進事業は、農地の利点を活かし、農地を農地として活用しながら、見沼を農的な景観として保全しようとする試みなのだと言うことです。
農の論理=「いのちとくらし」の論理を基本として
 「理屈は脇に置いて、障害のある人もない人も、お年寄りも若者も、まず汗をかいてみる」。そこから農園づくりを始めた。
 福祉農園が近隣の農家の方々に受け入れられてのは、理屈ではなく、まず共に汗をかく事から始めたことにあると思う。
 農家の方は話に興が乗ると、子供の頃の澄んだ加田屋川や芝川。代用水での魚取りや川遊びの事や、重労働だった田の仕事の思い出を楽しげに話してくれる。
 農家の方々と話して感じることは、「先祖が残してくれた見沼を守りたい。」と言う強い気持ちと「守り抜いてきた。」と言う誇りです。
見沼を守ってきたのは、見沼の農家の営々とした農の営みによるものです。
 見沼の農家の「先祖がそして自分達が守ってきた見沼を守り抜いてきたい」と言う思いを共有すること無しに、見沼保全を語ることは許されないと思います。
 
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見沼田んぼ愛する会の戦い

2019-06-19 | 龍神伝心

 

 

素堀の頃の見沼代用水

http://minumafarm.la.coocan.jp/index.htm

子どもたに残そう見沼田んぼ

見沼田んぼ近隣の農家の暮らしは農的諸条件を活かし、自然との共存の中で営まれていました。
田んぼと周辺の里山(=斜面林)、代用水や沼、ため池、小川などからなる見沼田んぼの景観は、
見沼田んぼに生きる人々が歴史を重ねて生み出してきたものです。
それは、「田んぼ」と言う言葉に表されるように、
稲作農業の「自然と協調しながら利益を獲得する」というあり方が自然との共存を可能にしたのです。
戦後のいわゆる近代化の波は、見沼田んぼにも例外なく訪れ、農村社会の伝統的構造に変化をもたらしました。
見沼田んぼの田んぼと、その周りの里山に生息する生物との共存関係が失われ始めたのは、
周辺の急激な都市化と、それに伴う農村社会の崩壊が始まりです。
急増する都市住民の飲料水等を確保するために、
農業用水として掘られた見沼代用水を都市用水に転用するため、
見沼代用水はコンクリートの三面護岸化がなされ、
この代用水の三面護岸化が見沼田んぼの水辺と里山の自然を急激に衰退に導きました。
また、都市化により見沼田んぼ周辺の新興住宅地などから、生活排水が見沼田んぼを流れる河川に流入し、
加えて生活ゴミや産業廃棄物や建築廃材の不法投棄、
農薬の散布等が見沼田んぼの環境を変容させました。
1979年春。利根大堰で始まった見沼代用水の三面コンクリート舗装工事は、その後南下して、
見沼田圃の西縁・東縁へと迫っていた。
田園景観と食卓が絆で結ばれる日を夢見て見沼田んぼを愛する会結成
首都圏25キロ圏内で、埼玉県東部や千葉県南西部にも、
まとまった水田はありますが、里山=を伴ったものはありません。
見沼田んぼは里山=斜面林・代用水・田んぼが存在する珍しいところです。
1984年、
旧浦和市は最も見沼らしい所でもある現在のトラスト一号地に、市営墓地を計画しました。
これに反対した市民が結成したのが「見沼田んぼを愛する会」です。
 「見沼田んぼを愛する会」が見沼田んぼの保全運動の始まりです。
 見沼田んぼを愛する会は、墓地計画を中止に追い込みました。
市営墓地予定地だった里山=斜面林は県のトラスト1号地に指定され公有地となり、
今では見沼田んぼの中で、最も人が訪れる所となっています。
985年12月13日。
見沼田んぼを愛する会、40、408人の署名を添え埼玉県知事に要請を行う。

1.農地、斜面林、用水、河川等
見沼田んぼを特色づけている環境・景観の有機的一体性を損なわないこと
2.都市の中のみどりの空間としての自然度を現況より低めないこと
3.見沼代用水の未改修部分、
さぎ山付近、国昌寺付近、差間付近、氷川女体神社付近
を原形保存すること


1986年。開発の動き
乱開発案というべき企画(見沼田圃土地利用基本計画)が動きだしていた。 

見沼田んぼを愛する会は1986年11月に乱開発案を阻止すべく、
再度、埼玉県に緊急の申入れを行っている。
見沼田んぼを愛する会「申し入れ」―抜粋
見沼田圃の土地利用計画策定にあっては、優良農地と自然環境の保全及び地元農家の一方的負担の軽減を図ることを基本とし、
田園景観を生かしたビジョンに基づく計画とすべきこと。
見沼田圃全体の将来像、ビジョンと一体でない土地利用計画の策定は、
乱開発の引き金となるので、まず将来構想を確定すること。

見沼田圃への自然系ないしは農的活用以外の公共、公益施設の建設は、
公共機関自らが農地及び自然の破壊を招いていることを考慮し、現状凍結する必要があること

9月県議会において県より見沼田圃にゴルフ場建設の可能性がある旨の発言をしているが
ゴルフ場は見沼の土地利用としてふさわしくなく、
現実的可能性も少ないと考えるのでその点を明確にすべきこと。

農地の保全については、農業基盤整備事業を行った優良農地を中心に、
収益性を高めた農業への支援を行うとともに、
都市住民と農業との触れ合いの場づくりについて積極的にとりくむこと。

自然環境。湿地、用水、斜面林等の保全については、自然環境を重視した事業の導入し、
県市による土地の買い取り等により保全を推進すべきこと。

見沼代用水東縁1,1㎞の流域については、市民団体等の意見を充分聞いたうえで、自然的歴史的文化的価値を踏まえた保全策をこうじること


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『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』 

2019-06-13 | 龍神伝心

『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』  

http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi1.htm

市川瑞雄作品集 見沼風物詩
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
滅びゆき武蔵野の田園風景と人々の生活より

入江から湖沼地帯、そして広大な泥炭地に
見沼田んぼは、古くは東京湾の海水が入り込む、水鳥が遊び、魚が泳ぐ広大な入江だったようです。
今から6000年を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂の堆積で次第に高くなったため、今の東京湾と分離して見沼は湖沼地帯になっていた。湖沼地帯では、枯れて溜まった水草や枯れ葉が長い年月の間に堆積しだんだん浅くなっていきます。たまった植物の残骸が腐ることなく長い間に炭化して泥炭の層を形作ります、これが泥炭地です。見沼も、沼や湖に葦等の水草が生い茂り、そうした葦などの水草が堆積して湿潤で広大な泥炭湿地になっていった。
泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より

泥炭湿地のことを詳しく知りたい人は
日本泥炭湿地保全協会HPへ 
 
見沼田んぼは『田んぼ』と言い表すように『湿田』です。泥炭湿地に客土を行い田畑用の耕土にしてきたのです。見沼田んぼを『ウエットランド』との主張があります。
「湿田」と『ウエットランド』の違いは何なのでしょうか。

1971年,イランのラムサールで締結した、水鳥の生息地として重要な湿地を守るためのラムサール条約では、淡水、海水、汽水、水田、または人工的なところも含めて水のあるところは全て湿地として定義し、重要視しています。
日本生態学会は二次的自然(里山や水田)にこそ絶滅危惧種が多いという調査から保護・保全対象が大きく変わりました。また、1999年5月、コスタリカで開かれたラムサール会議では泥炭湿地の持つ・生物多様性・自然の浄化機能・炭素資源の「賢明な利用が注目され保全行動計画を締約国に提言しました。
泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より
それは、湿地がほとんどが水田耕作に利用されていることです。
「泥炭湿地の水田利用を湿地の保護・保全とどう整合性をとるのか」
という論議があります。
日本泥炭湿地保全協議会では、
泥炭湿地の水田利用もその耕作方法が大型機械に頼らない限り、
小規模な生態系の攪乱ととらえています。
「適度な農業という攪乱」によって育まれた水田雑草も絶滅危惧種が多いのです。
人と自然との農業を通しての深いかかわりこそが、
持続可能な社会に繋がると考えています。
私たちが考える賢明な利用とは--
農地を開発することと、
湿原を保全する事を対極的に考えるのではなく湿原の持つ地域環境への機能を利用することの可能性を考えるということです。 

見沼溜井の時代

見沼は、上流の配水池であると同時に下流の用水源であった。

徳川家康が江戸に幕府を開いて以降見沼は一変する。江戸へ食糧を供給するために見沼の辺りも農業が盛んになった。
そのため農業用水が不足し、水争いが頻発するようになった。
江戸幕府は関東郡代に見沼を灌漑用水池とするように命じ、

関東郡代伊奈忠治(いなただはる)は1629年見沼の両岸がもっとも狭くなっている浦和大間木と川口木曽呂の間に堤(=ダム)を築堤し見沼全体を大きな溜井(=ダム湖)として下流の農業用水の水源を確保し、生産の安定をはかり水争いを治めたという。

この堤(=ダム)は長さが八町あったことから八町堤と呼ばれている。

ぼと見沼代用水の誕生

 

八丁堤の築堤後100年経た享保期には耕地の開発は極限に達し、用水・排水をめぐる見沼溜井上・下流の利害対立の矛盾は貯留量の増加ではもはや抜本的に解決できなくなった。

1728(享保13)年8月。見沼を干拓し新田を拓き、用水路の建設により用水問題を一挙に解決する大構想が実施され、建設には将軍吉宗(よしむね)の命をうけた紀州流の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが)が当たった。
為永は、見沼溜井の縁辺に用水路、中央に排水路を設ける干拓方式をとった。干拓によって生まれたのが「見沼田んぼ」である。

また水源を利根川に求め、現在の行田市で利根川の水を引き入れ、用水路を一路南下させ、

上瓦葺掛樋(かみかわらぶきかけひ)を過ぎたところで二つに別れて見沼たんぼの東西縁を流れる総延長84kmに及ぶ長大な用水路を開削し、

不足する農業用水を供給し、農業用水の供給を安定させた。
また、同時に排水路を整備することにより、関東平野中部地域の既成の用排水系統を再編成し、

池・沼の干拓を行うという、大きなプロジェクトだった。

見沼代用水は干拓された溜井の代替(だいがえ)用水として「代用水」の名で呼ばれている。
このプロジェクトでは,利根川の元圦(もといり)、柴山の伏越(ふせごし)、綾瀬(あやせ)川の架樋(かひ)東西縁用水と芝川を結ぶ閘門(こうもん)式運河(通船堀(つうせんぼり))など独特の技術が発揮された。驚くべきことに着工後半年間でほぼ全形態を備えた。
 見沼代用水の完成により旧利根川と旧荒川の三角州地帯では関東流による葛西(かさい)用水系統に紀州流による見沼代用水系統が重なり、微高地に開削された見沼代用水の余排水が古利根川に流出し、葛西用水の水源としての機能を果たすという大規模かつ合理的な水利用の反復形態が確立された。
 現在、この2大用水は,周辺の用水とともに利根大堰(おおぜき)のもとに合口(ごうぐち)され、農業用水としてはもちろんのこと、東京都へ上水を送るなど新たな使命をも担いながら,流れ続けている。

見沼のような泥炭湿地は地下水が高く、表土が浅いので、農業をするには排水溝を掘り地下水位下げます。また客土を行って耕土を厚くします。泥炭層は土を載せると土の重さで薄くなり土地が沈下します。沈下したら更に客土をします。こうした積年の努力できあがったのが見沼田んぼの耕土です。
しかし、つい最近まで見沼田んぼでは腰までつかる湿田で、田下駄という忍者のような下駄を履いて田植えや稲刈りを行っていました。
そうした重労働から農家が解放されるようになったのは、農業の機械化と田んぼから畑への田畑転換のための農業構造改善事業によってでした。
後に「見沼田んぼは実りの稲穂、野田のさぎ山、通船堀を守り育てる里景色」と歌われ、武蔵野の原風景と言われる見沼田んぼは、当時の最先端の農業土木技術と勤勉な農民の積年の努力が生み出したのです。

今でも、見沼田んぼでは冬になると農家は客土を行って耕土を守っています。

利根導水路事業=合口一期事業
見沼田んぼの東縁と西縁を流れる見沼代用水。見沼代用水の流れは利根川の水であること。また、総延長が82キロもある事は余り知られていない。
江戸中期から始まるこの大きな流れ・見沼代用水に変化が始まったのは、

経済の高度成長が始まり「東京水飢饉」が頻発した東京五輪前頃である。
東京の水不足解消のため、当時のお金で総工費193億円をかけ合口一期事業が行われた。
この合口一期事業で利根大堰や秋ヶ瀬取水堰の建設、武蔵水路開削などが行われる。
合口一期事業の利根大堰の完成で、見沼代用水や葛西用水など八用水が合口(=一括取水)されるようになった。

市川瑞雄作品集 見沼風物詩
沼三原則の時代
1958年の狩野川台風は県南と東京の下町に大きな被害をもたらしました。狩野川台風の被災により、見沼田んぼの治水能力が省みられるようになり、見沼田んぼの農地の転用を厳しく規制する見沼三原則(注)が定められます。


(注)見沼三原則(見沼田圃農地転用方針)とは
1、八丁堤以北県道浦和岩槻線、締切までの間は将来の開発計画に備えた、現在のまま原則として緑地として維持するものとする。
2、県道浦和岩槻線以北は、適正な計画と認められるものについては、開発を認めるものとする。
3、以上の方針によるも、芝川改修計画に支障があると認める場合は農地の転用を認めないものとする
経済の高度成長と見沼田んぼ
 見沼田んぼの下流域や周辺は都市化が急速に進んだ。そして見沼田んぼはしだいに忘れられ取り残されていった
合口二期事業 
 1979年春。総工費507億3700万円かけ、素堀だった見沼代用水を全面的に三面コンクリート舗装に変える「合口二期事業」開始。
農業用水の都市用へ転用する事業がスタートする。
 合口二期事業は、水資源開発促進法に基づいて水資源開発公団が農業用水の都市用水への転用を踏み切った最初の事業だった。
収穫の秋が終われば用水は締められるが、用水全体を三面コンクリートで舗装し、冬でも用水西縁・県立西高下から連絡用パイプラインで荒川へ用水を送水し、大久保浄水場で取水し県南の都市用水として使うための事業だ。
この事業は、県南住民への水の供給のみに止まらず、さらに秋ヶ瀬取水堰を経て東京でも上水としても利用する事業だった。
日本経済の高度成長による人口の都市部への集中と、農業の外部化と衰退という流れの中で、農業用水の需要が減った分を都市用水として利用する、余った農業用水を都市用水に回す施策だった。
 当時は、用水の三面コンクリート舗装は水の浸透が全くないので漏水によるロスが無くなるため水資源の効率的な活用につながると考えられていた。見沼代用水(=農業用水)は、都市住民が使う水を確保するために三面コンクリートで隔離されていった。

「隔離される川」連載始まる。
 1981年に埼玉新聞は「隔離される川」の連載を開始。「見沼代用水の水路改修(三面舗装)工事は生態系を破壊するものだ」という連載記事の主張を契機に、見沼田んぼと見沼代用水に対する社会的な関心が広がっていった。
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
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7月21日(土)は北浦和の野良人類学会にて、『復興に抗する:地域開発の経験と東日本大震

2018-07-15 | 龍神伝心

いよいよ来週の7月21日(土)は北浦和の野良人類学会にて、『復興に抗する:地域開発の経験と東日本大震災後の日本』(有志舎)についてディスカッションです。

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7月15日日曜日いしょにいこう保育園・小中学校・そして高校へ

2018-07-11 | 龍神伝心

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すいごごCafe 東大「闘争」前と後ー医学生・医師たちの日常は

2018-05-16 | 龍神伝心

 5月16日、

仕事おこし懇談会inこしがやとタイアップしたLunch Cafe どっこいしょで

キッチンとまとのカレーを頂いた後のすいごごカフェ。

ゲストトークはわが連れ合いの水谷淳子さん。

「東大『闘争』の前と後」と題して。

闘争を「 」で括ったのは、主に医学生・医師サイドの個人の生活過程として

という意味合い。

 自作の年表を用意しての語り。その一部だけ紹介。

 全学に闘争が拡がる何年も前から医学部では「インターン制度完全廃止」を掲げ、

全国の医学部卒業予定者が団結し、国立病院等でのインターンを拒否し、

大学病院に立てこもり独自の研修プログラムを組んで大学側に認めさせるべく

卒業試験ボイコットを行うなどの運動が毎年続けられていた。

卒業生は医卒連や青医連を結成してその後も運動し、

教授が支配する医局講座制の解体

や薬害・公害・略・差別に加担してきた医学・医療のありかたの問いかけも行った。 水谷さんは1年半にわたり卒業試験ボイコットを続け、

毎日みんなで討論したり、デモに行ったり、アルバイトに行ったりした時を振り返り、

あれがなければいろんなことを考えることもなかっ...たと語る。田落城から卒業試験を受けるまでの8ヶ月間、

主にやっていたことは留置所、拘置所巡りだった。医師となってからも、

生活保護受給者たちがフロアに布団を敷いて暮らしている病院や出稼ぎの人が

沢山来る上野の診療所でアルバイトしたりした。

アフリカまで往復する船の船医もした。

それらの体験がなければ、いまここにいないだろう。
※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 以下は、参加者の感想&自己紹介より。
・歴史の授業やテレビで見る学生運動の話を個人の生活を元に聞けて、
身近なものに感じました。

激動の時代で大変だったろうなという思いと

今と違い自由に動ける雰囲気があったのかな?と少しうらやましい気持ちがあります。

(後略)

・(前略)名前を覚えていない人がいます。失礼します。

少しは働いたことあるのですけれど、だいぶごぶさたしているので

忘れてしまったかもしれません。(後略)

(山浦)・(前略)水谷さんのお話を聞いて、少しでもさんこうに考えて行きます。

(前略)水谷さんのお話を聞きに来ました。世一緒に来るのは初めてです。

ありがとうございました。

・「ヘルメットをかぶったお兄さんたちが隊を組んで大声で歩いてる」絵を思い描く

時代のこと、何が起こっていたのかは今もよく知りませんでした。

大理Ⅲから始まった騒動、くらいにしか。

中でその事件(?)を身体と心と頭で通り抜けて来られた方の話をライブで伺えて

「そうだったのか」と理解できたり、ここは曇らせて語られてわからなかったり、

でしたが、興味を持って聴けました。(後略)

・きょうのすいごごカフェの人たちは、はじめてあう人たちです。

お話がたのしみです。

(癸生川)・時代のうねりの中で生きてこられた様子、

その中で誠実にふるまわれていた様子がうかがえるお話の中身でした。

「キチンとケンカすると認めてくれるんだ」という言葉が印象的でした。by山下浩志

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声明 埼玉朝鮮学校への補助金支給を求める有志の会

2018-04-18 | 龍神伝心
 
 

私たちは、埼玉県内の朝鮮学校への補助金打ち切りに反対し、支給の再開を求めます。

―誰もが共に生きる埼玉県を目指し、埼玉朝鮮学校への補助金支給を求める有志の会声明―

 

埼玉県在住のみなさん、埼玉県を愛するみなさんへ

 私たちは、埼玉県が様々な違いのある人々の共生を支える地域であることを願い、集まった有志の会です。私たちには生まれや育ち、身体や心の有り様など様々な違いがあります。例えば、経済状態、宗教、思想・信条、性、性的指向、年齢、民族、国籍などの違いです。それらの違いによって不当な扱いを受けてはならないし、いかなる差別も許されてはならないと考えます。

21世紀は「人権の世紀」と言われるように、全ての人々の人権が尊重され、相互に共存し得る平和で
豊かな社会を実現することは人類共通の願いです。「埼玉県人権教育実施方針(挨拶) 」

 ここに示されているように、それぞれが大切にするものは何なのか、尊重されるべきものは何なのか、いかなる歴史に生きているのか学び合い、相互の理解を目指していくことが今ほど求められている時はありません。自分と異なる他者の存在に敬意を払い、交流し対話していくこと...それによって埼玉県に暮らす人々の多様性は力に変わります。"違いこそが豊かさ"であることをみんなが共有することによって埼玉県が活性化された魅力的な地域に生まれ変わっていくことを信じています。

 県内には、在日朝鮮人の子どもたちが学ぶ埼玉朝鮮学校があります。朝鮮学校では、子どもたちは、母国語(継承語)である朝鮮語や朝鮮の歴史や文化を学んでいます。こうした民族教育は、在日朝鮮人の人々にとって自らのルーツを確かめるためにもとても重要です。だからこそ、在日朝鮮人の人々は、朝鮮学校を大切に守り育ててきました。

 また、朝鮮学校では、この社会で生きる子どもたちのために日本の歴史や社会制度を学ぶカリキュラムが豊富に組まれ、日本の学校同様に子どもたちの成長と発達に資する生き生きとした教育活動が行われています。同校は、地域住民との交流を積極的に推進し、教育内容を公開する「交流ワークショップ事業」などを行い、朝鮮学校に関する理解を深める努力を続けています。

 朝鮮学校は法律上、各種学校としての認可となっています。そのため国公立や私立の一般の学校のような公的支援が極めて乏しく、財政上の困難を抱えてきました。そうした事情に鑑み、埼玉県は1982 年から私立学校運営補助金を支給し、朝鮮学校に通う子どもたちの学ぶ権利を保障するべくとりくんできました。しかし、県は2010 年に補助金の支給を打ち切ります。その理由は、当初は朝鮮学校の財政健全化に関する問題などでしたが、それらが解決しても支給中止が続いています。また県議会では2012 年に「拉致問題が解決するまで補助金の支給を行わない」という附帯決議もなされました(この間の詳細な経緯については別紙「朝鮮学校への補助金停止問題Q&A」をご参照ください)。これらは朝鮮学校に通う子どもたちとは何ら関係のない外交政治上の理由を持ち出すことによる不当な差別に他なりません。県下には、各種学校認可を受けている外国人学校として児玉郡上里町にあるTS校(Instituto Educacional TS Recreação)というブラジル人学校がありますが、同校には補助金が支給されています。なぜ朝鮮学校だけ、このような差別的で不公正な扱いを受けなければならないのでしょうか。放置されている不公正はまさに私たちの住む社会のあり方を問うものです。

 もちろん、拉致問題は極めて重大な人権侵害であり、速やかに解決をめざすべきものです。また、過剰なほどに報道されている朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発については、むしろ、被爆国である日本が先頭に立ち、全世界から核兵器を廃絶する運動の流れの中で解決すべきではないでしょうか。これらの問題を日本で生まれ、日本で暮らす子どもたちの民族教育を受ける権利の保障のあり方に、安易に結びつけるべきではありません。

 1996 年、埼玉県議会は全国に先駆けて「子どもの権利条約の普及啓発を推進する決議」を全会一致で採択しました。子どもの権利条約は、「教育についての子どもの権利を認める」ものとし(28 条)、「いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する」(2 条)、また民族的マイノリティらが「自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」(30 条)と謳っています。私たちはこの条約の理念に共感するとともに、この決議を導いた県民、県議会を誇りに思います。そして以下に示されているように、教育行政が先頭に立ち、県内に住む全ての人々の人権尊重に向けて尽力していることに限りない敬意を払っています。

「埼玉県人権教育実施方針」は、平成24 年3 月に改定された埼玉県の「埼玉県人権施策推進指針」の人権教育の基本的な方針に基づき、平成15 年3 月に策定した「埼玉県人権教育推進プラン」を改定したものです。特に今回の改定では、人権教育を推進する上での施策の方向性として、「あらゆる場を通じた人権教育の推進」「人権感覚の育成」「人権意識の向上」などを示す内容となっています。学校を始めとする教育機関等においては、本実施方針を活用し、児童生徒に人権尊重の精神を培う人権教育を推進してください。また、市町村においては地域の実情に応じ、本実施方針を参考にして、系統的・継続的に人権教育の推進に取り組んでください。(埼玉県教育委員会HP)

 互いの違いを認め合い、誰もが差別や不合理な扱いを受けることなく共に生きることが出来る社会そんな魅力的な埼玉県にするために私たちも努力していきたいと思っています。子どもたちの成長と発達は、県内に住む全ての子どもたちに例外なく保障されるべきものです。

 私たちは、埼玉朝鮮学校への私立学校運営補助金の打ち切りに反対し、支給再開を強く求めます。

2018年2月1日

誰もが共に生きる埼玉県を目指し、埼玉朝鮮学校への補助金支給を求める有志の会

 
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朝鮮学校の補助金支給再開を求める

2018-04-18 | 龍神伝心

4月16日、学識者・市民団体らで構成の有志の会が、「朝鮮学校の補助金支給再開を求める声明」文を埼玉県、県議会各会派に届け、記者会見に臨んだ。2010年から不支給は8年にも及び、子どもたちの平等に学ぶ権利が侵害され、共に生きられない社会は看過できない。2012年の議会附帯決議にある拉致問題解決は、朝鮮学校の子どもたちの学ぶ権利と全く関係ない、などと訴えた。保護者のオモニも、日本の学校に比べ、授業料など経済的負担が重い、その中で愛情もって先生方は教え、子どもたちは先生を信頼して真剣に学んでいるウリハッキョを守りたい。子どもたちの希望、未来を奪わないで欲しい、と切実な思いを述べた。写真は有志の会の共同代表、猪瀬浩平(明治学院大教授)、渡辺雅之(大東文化大学準教授)、磯田三津子(埼玉大学準教授)、小田原琳(東京外語大学準教授)、内田淳(さいたま市民活動センター利用者の会共同代表)、司会を務めた中川律(埼玉大学準教授)。呼びかけ人を代表して福岡安則斎間大学名誉教授、野島久美子・埼玉障害者市民ネットワーク代表、山下茂埼玉弁護士会会長(2017)なども発言した。

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韓国のこころ

2018-03-02 | 龍神伝心

【全文訳】  3.1節 記念辞 
 尊敬する国民の皆さん、
海外同胞の皆さん、 3.1運動の99周年です。
3.1運動は、今この瞬間も私たちの生活に生々しく生きています。
西大門刑務所のレンガ一つ一つには苦難と死に立ち向かった崇高な話が刻まれています。
大韓独立万歳の叫び声が聞こえてくるようです。
今日、
私たちは剥製化された記念式ではなく独立運動の現場で歴史と共に息づく記念式を開こうと
この場に集まりました。
日帝による強制占領期のあいだ、毎年2600余名が西大門刑務所に投獄されました。
1945年8月15日の解放のその日まで10万余名近くがここに収監されました。
10人のうち9人が思想犯と呼ばれた独立運動家でした。
10代の青少年からお年寄りまで、南の済州島(チェジュド)から北の咸鏡道(ハムギョン)まで、
年齢と地域に関わらず祖国の独立のために実践した方たちでした。
母と息子、父と娘、兄弟姉妹が共に投獄されもしました。
多くの母と妻がこの刑務所前の路地で針仕事や肉体労働をしながら、
息子と夫の収監生活を支えました。収監者だけでなくその家族たちも皆、独立運動家でした。

国民の皆さん  
 95年前の今日、村と市場に檄文が貼られました。
独立宣言書が手から手に伝達されました。
ソウルとピョンヤン・鎮南浦(チンナムポ、現南浦)・安州(アンジュ)、
義州(ウィジュ)・定州(チョンジュ)・信川(シンチョン)、元山(ウォンサン)など全国各地で
同時に独立宣言書が朗読され、万歳運動が始まりました。
万歳運動は瞬く間に地方都市と村々にまで拡大していきました。
遠く中国の間島とロシアの沿海州、米国フィラデルフィアと
ハワイのホノルルの空にも独立万歳のかけ声が鳴り響きました。
その年の3月1日から5月末まで国内だけで1542回もの万歳運動が起き、
当時の人口の10分の1を超える202万余名がこれに参加しました。
3.1運動の経験と記憶は、日帝の強制占領期の間じゅう
熾烈だった抗日独立運動の精神的な土台となりました。
3.1運動以降、数百、数千名の独立軍が毎日のように鴨緑江と豆満江を越えました。
大韓民国会、北路軍政署、大韓独立軍、軍務都督府、西路軍政署、大韓独立団、
光復軍総営を構成し、日帝の軍警と血みどろの戦闘を行いました。
一人が倒れたら十人が立ち上がりました。
安重根(アン・ジュングン)義士の後を受け継ぎ姜宇奎(カン・ウギュ)、朴載赫(パク・ジェヒョク)、
崔寿鳳(チェ・スボン)、金益相(キム・イクサン)、金相玉(キム・サンオク)、羅錫疇(ナ・ソクチュ)、
李奉昌(イ・ボンチャン)すべて挙げきれないほどの義士たちが義烈闘争を続けていきまし。
1932年4月29日の尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海義挙がその頂点でした。
1937年一年のあいだ国内では、3600件もの大小の武装独立闘争が行われました。
1940年には大韓民国臨時政府が大韓民国はじめての正規軍である光復軍を創設しました。
すべて大韓民国建国の父たちです。
天安の市場で万歳運動を主導した18歳の柳寛順(ユ・グァンスン)烈士は
地下の独房で拷問と栄養失調により殉国しました。
17歳という花ざかりの年歳の董豊信(トン・プンシン)烈士は
咸鏡北道明川(ミョンチョン)での万歳運動に参加しここ西大門刑務所で殉国しました。
夜を徹して太極旗を描いた釜山の日新(イルシン)女学校の学生たち
初の女性義兵長の尹熙順(ユン・ヒスン)義士、
百凡・金九先生の剛直な母、郭楽園(クァク・ナグォン)女史、
3.1運動直後の3月9日に46歳で
鴨緑江を越え西路軍政署に加入した独立軍の母、南慈賢(ナム・ジャヒョン)女史、
槿友(クヌ)会事件を主導した後、中国に亡命し義烈団の活動を行った朴次貞(パク・チャジョン)烈士、
大韓民国臨時政府の独立資金を作るために国境を6度も越えた鄭靖和(チョン・ジョンファ)義士、
私たちには3.1運動の精神で大韓民国を打ち立てた建国の母たちもいました。
私たちの先祖たちの独立闘争は、世界のどの国よりも熾烈でした。
光復は決して外からもたらされたものではありません。
先祖たちのが「最後の瞬間」まで死を賭けて共に戦い成し遂げた結果です。
国民の皆さん、
3.1運動の最も大きな成果は独立宣言書に従った大韓民国臨時政府の樹立でした。
3.1運動により樹立した大韓民国臨時政府の憲法は大韓民国が
民主共和制であり国の主権が国民にあると明確に刻んでおきました。
それが今の大韓民国の憲法第1条になりました。
  王政と植民地を越え 
私たちの先祖たちが民主共和国として進むことができた力がまさに3.1運動でした。
3.1運動の力が弱まる時、主権者である国民が再び立ち上がりました。
独立運動は愛国志士たちだけのものではありませんでした。
商人たちは撤市(チョルシ)運動を行いました。
木こり、妓生、盲人、鉱夫たち、名も無く生きた私たちの父と母、姉たちまで先に立ちました。
国民主権と自由と平等、平和に向けた熱望が一人ひとりの生活の中に入ってきました。
階層、地域、性別、宗教の壁を越え、一人ひとりが堂々とした国民になりました。
このように大韓民国を国民が主人である民主共和国にしたのがまさに3.1運動です。
 大韓民国臨時政府は私たちに憲法第1条だけでなく大韓民国という国号と
太極旗と愛国歌という国家の象徴を残してくれました。
大韓民国が臨時政府の法統を継承したと私たちの憲法が明かしている理由です。
去る冬、私たちは100年の時間を飛び越えました。
3.1運動で始まった国民主権の歴史を生き返らせました。
1700万個のろうそくがもっとも平和で美しい方式でこの歴史を広げて見せました。

暗闇を灯した一つ一つの光は、一人一人が大韓民国の主権者であることをもう一度宣言しました。
新しい国民主権の歴史が大韓民国建国100周年に向け再び書かれ始めました。
私とわが政府は、ろうそくが再び灯してくれた国民主権の国を確固として守っていきます。
3.1運動の精神と独立運動家たちの人生を大韓民国の歴史の主流として打ち立てます。
2020年に開館する大韓民国臨時政府記念館には大韓民国を立てた
数多くの先祖たちの話が込められるでしょう。
3.1運動に参加した木こりも、鉱夫も、妓生たちも誇らしい独立運動家の名前として刻まれることでしょう。
国内外でまだ探せていない独立運動の遺跡たちと独立運動家の痕跡も続けて発掘していきます。
重慶の光復軍総司令部も臨時政府樹立100周年に合わせ復元されるでしょう。国民の皆さん、
私たちには3.1運動という巨大な根があります。
解放と国民主権をもたらした民族の根です。
私たちには独立運動と共に民主共和国を打ち立てた偉大な先祖がおり、
絶対貧困を抜け出し経済発展と民主化を成し遂げた建国2世代と3世代がいます。
またこの時代に共に歩いていく道を灯してくれたろうそくがいます。
私たちはこれ以上、私たちを低く見る必要はありません。
私たちの力で光復をもたらした、自尊心あふれる歴史があります。
私たちは私たちの力で平和を作り出す力があります。
私はこlこううした国民たちの力と自信をもって3.1運動と大韓民国建国100周年を
恒久的な平和態勢の構築と平和に基づく繁栄の
新しい出発線として作り上げていきます。

そのために私たちは間違った歴史を私たちの力で再び立て直さなければなりません。
独島は日本の韓半島侵奪の過程で最も先に強制占領された私たちの土地です。
私たち固有の領土です。
今、日本がその事実を否定することは帝国主義の侵略に対する反省を拒否するのと同じことです。
慰安婦問題の解決においても加害者である日本政府が「終わった」と言ってはいけません。
戦争の時期にあった半人倫的な人権犯罪行為は,わったという言葉で蓋をされるものではありません。
不幸な歴史であるほどその歴史を記憶し、その歴史から学ぶことだけが真の解決です。
日本は人類普遍の良心で歴史の真実と正義を直視しなければなりません。
私は日本が苦痛を加えた隣国たちと真に和解し平和共存と繁栄の道を共に歩いていくことを願います。
私は日本に特別な待遇を要求しません。
ただ最も近い隣国らく真実の反省と和解の上で、共に未来に進むことを願うだの皆さん、
海外同胞の皆さん、
私たちは今日、
3.1運動を生々しい記憶として蘇らせることにより朝鮮半島の平和が
国民の力で成し遂げられるということを確認しています。
私たちは今後、
光復100年に向かうあいだ朝鮮半島の平和共同体、経済共同体を完成させなければなりません。
分断がこれ以上私たちの平和と繁栄に障害とならないようにしなければなりません。
私は今日、
国民の皆さんにこの目標を共に実現させていくことを提案します。
貧富、性別、学閥、地域の格差と差別から完全に解放された国を作りましょう。
金九先生が夢見た、世界平和を主導する文化強国に向けて進んでいきましょう。
3.1運動というこの巨大な根は決して枯れることはありません。
公正で正義がかなう国はすでに国民の心の隅々で99年前から育っていたのです。
この巨大な根が朝鮮半島で平和と繁栄の木を丈夫に育てていくはずです。
大韓民国は世界で最も偉大で美しい国となるでしょう。ありがとうございます。
                                                    
                                         3月1日文在寅

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あれから30年

2018-02-16 | 龍神伝心

あれから30年

飯能高校定時制で学んできた松本早弥花さんが卒業を迎えます
 
ぶことが大好きな早弥花さん。
先生方もより学びやすいように模索を重ね、
毎日の通学はたいへんだったでしょうが、
クラスに溶け込み笑顔の高校生活を送りました

 埼玉で高校入学運動が始まって30年になります。
皆さんでふり返りながら、また今の生活を報告しあいながら
今後の「共に学ぶ、共に暮らす」につなげていきましょう。
 

 

 

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これが、当たり前になればと願う

2018-01-05 | 龍神伝心

<人工呼吸器の児童>通常学級で学ぶ 宇都宮、学校側が配慮

毎日新聞 1/5(金) 9:00配信

バギーに乗り、高さのある机に向かって友達と一緒に学ぶ府川理央さん
手前から2人目)=宇都宮市立宮の原小で2017年12月8日午前10時15分、高橋隆輔撮影

 筋力が低下して呼吸や歩行が困難になる難病「先天性ミオパチー」の影響で人工呼吸器を手放せない宇都宮市内の小学生が、周囲の支えで通常学級に通っている。
同市立宮の原小2年、府川理央さん(8)。
人工呼吸器を使う児童が通常学級に通うことは現状、ほぼ認められていないが、
「うちに通いたい子を断る理由はない」という学校側の配慮で、
たくさんの友達と一緒に学び、成長している。 ◇支え合い、クラスの一員 
 昨年12月8日、同小2年1組であったコミュニケーションを学ぶ会話の授業。
最近できるようになったことを聞かれた理央さんは「サッカー」と答えた。
「ボールを蹴る距離が伸びた」と身ぶりを交えて説明。
授業の終わりには手を挙げ、
「言葉と巡り合える大切さが分かりました」と感想を発表した。
 理央さんは病気の影響で筋力が弱く、4歳で気管を切開した。
1年時は、日中は人工呼吸器はいらなかったが、
昨年、長期入院し、人工呼吸器が24時間必要になった。
 このまま通い続けるのは難しいと考えた両親は、
入院中の理央さんに特別支援学校への通学を勧めた。
だが、母亜希さん(44)が病院から帰った後、理央さんは「宮の原小に帰りたい」と看護師に泣いて訴えたという。

クラスメートは給食の配膳を手伝ったり、重いものを持ったりしてくれる。
理央さんは「宮の原小学校は来るだけで楽しいところ。優しい友達がたくさんいるから」と目を輝かせた。
【毎日新聞1/5(金) 9:00配信 :高橋隆輔】

【ことば】先天性ミオパチー
 筋組織の形態の異常で筋力が低下する国指定難病。
国内の患者数は1000~3000人(推定)。

呼吸不全やたんを出しにくいなどの症状が表れ、
人工呼吸器が必要になることもある。
症状の進行は遅いとされるが
根本的な治療法は見つかっていない。
文部科学省が2016年に全国の公立小中学校と
特別支援学校(幼稚部~高等部)を対象に行った調査では、

人工呼吸器を使用する児童・生徒は計1388人。
うち小中学校の通常学級に通う子はわずか17人で全体の約1.2%だ。

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新年明けましておめでとうござます。

2018-01-02 | 龍神伝心

明けましておめでとうございます。
今年も氷川女体神社で昨年のお札を納め、

新し御札を農園の水屋に納めました。

今年もよろしくお願いします。

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BurnQue

2017-12-05 | 龍神伝心

BurnQue演奏と、こまどり社のパホーマンス
フルサワハウス1周年記念の寄り合いにて

説明
youtube.com
 
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