blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

2011年8月30日 台風12号の動きが心配だ。

2011-08-30 | 農作業

台風12号の動きが心配だ。あと2週間もすれば、稲刈りが始まる。
大豆も最後の仕上げの時期に入った。なんとか、無事に過ぎ去って欲しい。
予想進路では、東北地方縦断の予報。なんとな無事に過ぎ去って欲しい。
台風12号 (だだわらす子のひとり言)
|

台風12号が心配な動きをしている。
自然の動き、日常的に気を巡らせ「想定外の」事態に具体的に対応する。
農業は自然が相手、自然と対峙する覚悟と具体的な備えないものは勤まらない。
「想定外の」事態に具体的に対応する必要がある。

 農園の様子を見に見沼へ 

見沼の田んぼは実りを迎えつつある。

農園では、ぺんぎん村とわらじの会の農園班が作業をしていた。









8月7日(日)、「いわてとわらじと私の暮らし」

2011-08-30 | 風の備忘録 

8月7日(日)、「いわてとわらじと私の暮らし」と題して、
この数ケ月間、わらじの会の職員を中心とするメンバーたちが交替で、
被災地障害者センターいわて http://20110311iwate.blog27.fc2.com/ に出かけ、
岩手県沿岸部の被災地で調査・支援活動に関わってきた報告を兼ねて、
被災地と自分達の地域の暮らしを重ね合わせて考える市民福祉講座が開催されたので、

そこに参加した個人的レポートを。
特別ゲストとして、被災地障害者センターいわてに1ケ月半、
名古屋のAJUという障害者団体から派遣されて活動してきた山口まどかさんが講演されました。
下の写真中央は、コーディネーターのおなじみコッペこと猪瀬浩平さん。
その右、マイクをもって話しているのが山口さんです。

このAJUという団体は、障害当事者を主体とした事業活動を、
自立生活の面でも、共に働く事業体の面でも、多岐にわたって先駆的に行っています。
特にAJU自立の家のわだちコンピューターハウスは
福祉制度を利用しつつも(通所授産施設~就労移行、
就労継続A,B、生活介護の多機能事業所)、「所員」すなわち障害者が決定の中心となり、
健常者のアルバイト、パートを入れ、「所員・職員一丸となった努力の結果、
96年からは売上高は1億円を超え、所員の平均工賃は月10万円を超えるようになりました。」
AJUのホームページ http://www.aju-cil.com/ )という活動を行っています。

そのわだちコンピューターハウスの重要な事業として、「災害時要援護者プロジェクト」があり、

そのプロジェクトの内容として、
「避難支援セミナー」、「間仕切りセット」、「GIS避難支援システム」等の開発を行い、
自治体等に提案して活動してきた実績があります。
だからこそ
今回の大震災でも
翌日3月12日から被災した各地へつぎつぎと障害者介助のスタッフを送り込み、
現地の障害者センター立ち上げにも積極的にかかわり続けてきたのでしょう。
 山口まどかさんは、

ふだんは介護保険の福祉機器レンタルの事業で職員として働いています。
女性障害者の介助が必要という一報で、仲間と現地に入り
そのまま1ケ月半支援活動にかかわりました。

 私が関心を持ったのは、
「当初、障害者に特化して支援するようにと指示されて現地へ行ったのだが、

行ってみたら避難所はどこも大変な状況で、
誰が障害者で誰がそうでないとか言っていられない状況だった。」
という山口さんのことばでした。彼女が行ったある避難所では、

認知症で大小便を垂れ流している人がいて、
同室の人が「なんであんな人と一緒のところにいさせられるんだろう」と訊いてきたそうです。
これまで福祉サービスや家族の枠の中で分けられてきて、

出会わないですんできた人同士が、いやおうなしに出会わざるを得なくなった状況の中に、
彼女は向かいあったのでした。
その点では「障害者に特化」というのも、それまでの分けられた日常を前提とした表現だったのです。
ただ、直属の上司が「お前の思うようにやれ」と言ってくれたことばが、彼女を支えたそうです。

 わらじの会から被災地へ行ってきたメンバーの何人かが語っていましたが、

埼玉に帰って来て、あらためて「自分たちにとっての地域って何だろう?」と自問自答しているようです。
それは、21世紀に入ってから、さまざまな在宅福祉施策が整備され、

職員・介助者と利用者という関係が固定化されてきたことへのふりかえりに関わっていると思われます。
会では「障害のある人もない人も地域で共に」と常に語っていながら、

日常的には周りの人間関係から分けられた関係の中にほとんどの活動が置かれているのではないかと。
被災後の現地がそれまで分けられてきた関係を崩され、

障害者も高齢者もその他の被災者も、ごちゃごちゃになった状況に似た関係が、
1970年代末わらじの会草創期の埼玉にもあったのでした。
それは単に福祉施策がまだなかったということにとどまらず、

首都圏の急膨張に伴う近郊農村の激しいニュータウン化による旧住民の生活の解体、
新住民の生活の混乱といった渦の中の出会いだったといえます。
いやおうなしに暮らしと暮らしがぶつかり、折り合いを求めて生きる道を探らざるを得なかったのです。
それが「地域で共に」の原像でした。

 この市民福祉講座に、2006年に若くして逝かれた小野裕子さん

(元くらしセンター・べしみ通所者・上の写真)のお父さんが見えておられました。
ファミレスのマネージャーとして、超多忙な年月を経て退職され、
今はフルタイムのパートタイマーとして働かれており、いろいろなことをふりかえる日々のご様子でした。
 特に、今回の震災を機に、

社会と人間のありようを根本的に問い直してゆきたいと思われたようです。
前のお仕事の関係からわらじの会の活動に参加されるのはもっぱらお母さんでしたが、
今回おそらく初めて参加されました。
 障害者とか家族とか支援者とか、そうした役割への特化をこえて、人と人は生きています。

関係を特化する壁が崩れたとき
―「いわてとわらじと私の暮らし」とは 共に学び・働く―
「障害」というしがらみを編み直す/ウェブリブログ


被災した故郷岩手を再発見し 埼玉の地域を想う

2011-08-30 | 風の備忘録 
被災した故郷岩手を再発見し 埼玉の地域を想う -ケアシステムわら細工・谷崎恵子さん  
作成日時 : 2011/08/20 18:29
前回のブログに「 この数ケ月間、わらじの会の職員を中心とするメンバーたちが交替で、
被災地障害者センターいわて http://20110311iwate.blog27.fc2.com/ に出かけ、

岩手県沿岸部の被災地で調査・支援活動に関わってきた 」と述べた。
 ここに紹介するのは、その一人で、被災した岩手県久慈市出身のメンバーのレポート。
その谷崎恵子さんは、1990年に生活ホーム・オエヴィスが発足した時、
チラシをもらって世話人の一人になった。
 世話人になった年の秋、
わらじの会の勉強会で就学時健診が子どもをふりわける役割をもつことを知り、
次男を受診拒否させ、教育委員会に文書をもってその旨を伝えた。
学校、教育委員会からの弁解や説得がいろいろあり、
そのやりとりを3回にわたって「就学時健診始末記」と題して、月刊わらじに報告している。
そして、翌年、次男が入学した後に、「就学時健診 その後」と題して、
担任の家庭訪問でのやりとりをまた4回にわたって書いている。 
 月刊わらじに7回も就学時健診について書いた人は、彼女の前にも後にもいない。
 二度にわたる就学時健診シリーズのちょうど中間にあたる1991年3月号の月刊わらじに、
彼女は「生きる―住民参加型サービス・ヘルパー研修会に参加して」という文章を載せている。
 「生きるゆうことは 悲しいことですなあ」…

 何もかも包み込むようなほほえみ…同い年くらいの老婦人のほうを見ると、
「死にたいやらなあ。あんたも死にたいやらな…死にたいなあ。」とつぶやいた。
  …おやが倒れた時、遠くて 思うように看てやれなかった。

そんな時気軽に頼める所が地域にあれば、という主婦がいた。
 …女って結婚すると自分の親のほうはなかなか思うように見てあげることができない。


介護という仕事は 手のあいた女性だけで担っていけるものではないし、
またそうすべきものでもないと思うが、
なんとなくそんな雰囲気になっている社会も 変えていけなければと思う。
 いま、老人や障害者にとって住みよい街をつくるということは、

結局は自分のためになること。
もっともっと自分の将来に関心を持って取り組まなければいけないなとひしひしと感じた5日間の研修だった。
 何があっても どうなっても、死ぬまでは生きなければならないんですよね。

 故郷・岩手の親兄弟、親戚から遠く離れ、埼玉で家庭をもった谷崎さんは、
恩間新田をやっと共に生きる場として耕した障害者たちに接する中で、
自分の足元の家庭・地域・学校を、
みんなが住みやすい場に変えてゆく必要とそのためになしうることを、見出しつつあった。
 そして、20年の時が流れ、いま谷崎さんは、
オエヴィスと一緒に発足したケアシステムわら細工の専従事務局員になっている。
その谷崎さんのレポートは、まさに就学時健診、オエヴィス、わら細工と故郷岩手の糸を探り探り、
たぐりたぐりして生きてきた彼女ならではの味が出ている。 

被災した故郷・岩手を訪ねて
谷崎 恵子(ケアシステムわら細工職員)
 
 (前略)私が最初に訪問したのは、だんなさんは車椅子ですが、

手仕事はできるので、街の中で釣具店を営んでいて、
津波に家も車椅子も流されてしまった方でした。
奥さんは低身長症なので、支援物資の中に合う衣類がなくて困っているという方でした。
仮設住宅に入居はできても、車椅子がなかったり、中の造りが合っていないために、
トイレも行けなくて、おむつを使わざるを得なくなってしまったと話していました。
 次に訪問したのは、弱視の小学生の女の子のお宅で、家も家族も無事でしたが、
お父さんの職場が流されてしまい、失業してしまったということでした。
支援物資を届けて、お話を聞いてきました。
夏休みに入ったら盛岡に引っ越して仕事を探すと言っていました。
 筋ジスの中3の男の子は、本人とは会えませんでしたが、お母さんのお話を聞いてきました。
自閉症の弟さんがいて、支援学校の寄宿舎に入っているそうです。
筋ジスのお兄さんの方は地元の普通小学校と中学校に通ったけれど、
高校は支援学校に行くと言っていました。
 夜、呼吸器を使う際に加湿器が断水のため使用できなくなり、
市販の精製水も手に入らなくなったので、
毎日新聞に協力の呼びかけを載せてもらったら、
全国から2リットルのペットボトル6本入りの箱が60箱くらい来て、
誰か必要な方がいたら差し上げますと話していました。
 小中と地域の学校で頑張った人がいたことはうれしく感じましたが、
なぜ高校は普通高校ではないのか、弟さんはなぜ寄宿舎なのか、疑問を持って帰りました。

 ほかには、やはり仮設住宅に住んでいる知的の人の買い物同行や、
高齢の女性の話を聞いたりしながら、仮設住宅にセンターのチラシをポスティングしたり、
スロープのあるお宅は訪問して様子を聞いたりしました。
 途中、私の親せきを訪ねました。住居を流され、宮古の仮設住宅に入居していました。前にわら細工職員だったK君のおじいさんは、
呼吸器を付けていてほんとに奇跡的に助かりましたが、避難先で亡くなったそうです。
 また、兄妹で目が見えず、お兄さんはマッサージの診療所を開業していたというお宅は、
1階の診療所は全部流されてしまったけれど、鉄筋だったために2階、3階の住居部分は残り、
早く片付けてまた診療所を再開したいと言っていました。
2階部分も1メートルほど海水につかったということで、そこの片づけを手伝いました。
一緒に行った人は通院に付き添ったので、一人で片づけましたが、一日やって見まわしたときに、
たったこれだけしかできなかったのかとがっかりし、一人でできることの小ささを痛感しました。
 センターでの活動の終了後、久慈の実家に一泊。
実家は海に面した崖の上にあるため、被害は比較的小さくて済みました。
翌日はレンタカーで沿岸沿いを南下し、被災の状況をあらためて目のあたりに見ました。
今日は穏やかに見えるこの海が…と、自然の前で何もできないもどかしさに落ち込むばかりでした。

 最終日7月4日、岩手に行く前から、
前にわら細工に関わっていた人を通して相談を受けていた青年に会いました。
陸前高田と大船渡の境にある広田崎という小さな半島の根元あたりに住むその青年は、
年齢には似合わず落ち着いた風情でした。
実家近くの小規模多機能の老人施設で働いているということでしたが、施設が震災に遭い、
浸水した建物を復旧させながらなんとか働いているが、
給料が下がり震災の影響で止まっていた車のローンがいっぺんに3ケ月分来てしまい困っている、
わらじで働かせてもらえないかという相談でした。
わらじでは今募集はしていないし、
わら細工もヘルパーを雇用している事業所ではないということを話し、
なんとか地元から出ないでほしいと話してきました。
 10人家族で家は無事だったものの、
兄二人や母も職場が流され、収入がなくなったのだそうです。
「震災当日は休みで、街で買い物をしていたところで地震に遭い
最初は津波だと分からず、ただ何か海の向こうに黒い線が見えて。
『なんだ?あれは』とみんな思っていました。
そのうち誰かの『逃げろ!』という声で気付いた時は、
もう真っ黒な壁でした。必死で逃げる途中、
波にのまれて流されていく人たちが、助けて!と叫んでいて、
その人たちと眼が合うんです、
焼き付いて離れません。
 急いで自宅に戻ってみると、広田湾と大野湾、両側の湾から津波の挟み撃ちでした。

家に近寄ることができず、職場の施設に戻るとそこも水浸しで、一階は流されていました。
自宅が流されてしまったり、波にのまれてしまったり、
道がなくなったので来ることができなかったりと、職員は減ってしまいました。

 建物は残ったので、残された職員数人で利用者の介護に48時間体制で当たりました。

それが2ケ月ほど続き、今でも24時間体制が続いています。
 道がなくなったので、山の木を切って並べて道を作ったり、

泥をかき出したり、残った人たちでお金を出し合って買い出しに行きました。
そこで目にしたのは、普通に生活している人たちの姿でした。
ショックでした。自分達は死に物狂いで生きてるのに、この人たちは笑って暮らしている。それがショックでした。

 陸前高田の消防団の法被を着ていたので、いろんな物はくれました。

それはありがたかったけれど…。今職場に通う道には瓦礫が山積みで、
これはあいつの家の瓦礫、これは遊びに行っていたゲームセンターのもの、
それを毎日見ているのはつらいです。思い出が全部流されてしまいました。」
と語ってくれました。

 こんなにがんばっている人にがんばれなんて言えないし、
地元を出た私が、地元にいてほしいなんて言えない。
でも、これから復興してまた町を作っていかなければいけない時に、
若者が町を出てしまったらどうなるの?そんなことくらいしか言うことができませんでした。
 「どうしてそんなに落ち着いているの?」と言うと、
「震災前は自分もちゃらちゃらと遊んでいました。」と21歳の顔を見せてくれました。

 親戚からは手紙が届きました。
 「あの日から普通のことが普通でなくなり、普通でないことが普通になり、
電気や水道が使えないことがどんなに大変なことか気付かされ、
今までの生活がどんなに幸せだったか思い知らされました。
 まさか自分の家に戻れなくなるなんて思いもせず。

最初の津波が50センチとラジオで流れ、
『なんだー、そんなもんか。』と思って田老に引き返し、坂を宮古方面から降りて見た光景は、
潮ふぶきに瓦礫の粉が混じって『赤い霧』の後を茶色に濁った大津波が家ごと流し、
松林もなぎ倒して向かってくるところでした。
まさか…50センチと言っていた津波が『なにこれ?
映画のようだ。』と信じられないような光景でした。

 先のことは不安だらけで、どうなるのかわかりませんが、

いま、一日一日をしっかり生活して行くことだと思っています。
幸い三人の子どもたちも元気に小学校、中学校に通っています。
子どもたちはきっとまた津波を経験するはずなので、
家や家族を失わないように、高台のほうに建てようねと話しています。」
  岩手は昔から日本のチベットと呼ばれ、産業も文化も遅れてきました。
若者や男性は県外に出て働き、
地元に残るのはじいちゃん、ばあちゃん、母ちゃん、そして子どもです。
若者の90%が県外に出て行くと言われました。
 残された人々で営まれる農業は、三ちゃん農業と言われてきました。
 そして今回、町に障害者がいないと言われ、
それでも行ってみて、普通学校でがんばっている人がいたことや、
町の中でできることを活かして生きている人たちに会うことができてうれしく思いました。
 遅れているからこそまだ、障害があっても担える部分も残されているのかもしれません。

私の生まれ育った町にも、手作業を商売にして自立している障害者の兄弟がいました。
町の人はきちんとそれを認め、なんの違和感もなくつきあっていました。
 今ではテレビやインターネットでさまざまな情報が隅々にまで行き届くようになりましたが、
まだまだ遅れているからこそ残されている、良い部分を失わないでほしいと思いました。                                        
 以上が谷崎恵子さんの被災した故郷・岩手の訪問記。 
被災した故郷岩手を再発見し 埼玉の地域を想う-ケアシステムわら細工・谷崎恵子さん 共に学び・働く―

「障害」というしがらみを編み直す/ウェブリブログ


2011年8月28日 8月最後の週末作業

2011-08-28 | 農作業

■作業
 第3農園:ナス誘引、ネギ土寄せ、除草.。池のやぶ刈り他

作業:第1農園 ・アスパラガスの根分け・移植作業・鶏糞まいて耕運 ・苗作り


  お昼はいつもの農園食。えりちゃん(15)が火を起し、土田(30)が鍋を振り、
鈴木さん(60)がネギを豪快に刻む3世代クッキング。

作業を終えて農具の洗浄

夕方、eiei現われてアスパラだらけの社会人女子区画に悲鳴を上げてて面白かった。
第3農園に移植しようか、って話も出る。

ハーブ園の手入れ

8月最後の週末作業を終えて作業取り纏め

取りまとめが終わったらだいぶ涼しく、夏終りの夕暮れ。もうすぐ秋ですね。by土田


2011年8月27日 3週間ぶりの芝刈り

2011-08-28 | 農作業
■作業内容
第1農園:芝刈り、除草
第3農園:ハンマーナイフモアで除草

心配されていた天気ですが、雨は降らず、
3週間ぶりの芝刈りをすることができました。

先週に引き続き、みんなの料理熱が上がって、
バーニャカウダやダッチオーブンなど、
作ったことないけどやってみたかった!
という料理が飛び出し、食卓が豊かになりました。


料理に集中したり、のんびり昼食を楽しんだりできたのも、
雑草があまり伸びていなかったからで、
サバキャンの効果を実感できた一日でした。by純三

竹の葉によるマルチ 結構雑草除け効果がありそうだ

見沼田んぼ福祉農園通信


福島第1原発:放出セシウム…広島原爆の168個分

2011-08-27 | 風の備忘録 

福島第1原発:放出セシウム…広島原爆の168個分

 経済産業省原子力安全・保安院は26日、
東京電力福島第1原発1~3号機と広島原爆から、
それぞれ大気中に放出された放射性物質の核種ごとの試算値を公表した。
セシウム137(半減期約30年)の放出量を単純比較すると、
]福島第1原発は広島原爆の168.5個分に相当する。

 ◇保安院が試算]

 試算値は衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会に提出された。
原爆は「原子放射線の影響に関する国連科学委員会2000年報告」、
福島第1原発は、6月に国際原子力機関(IAEA)に提出された政府報告書の試算を基に作成された。

 セシウム137の放出量は、
福島第1原発1~3号機が1万5000テラベクレル(テラは1兆)に対し、広島原爆は89テラベクレルだった。

ストロンチウム90(半減期約29年)は、
福島第1原発が140テラベクレルに対し、広島原爆が58テラベクレルで約2・4個分。

ヨウ素131(半減期約8日)は、
福島第1原発が16万テラベクレル、広島原爆は6万3000テラベクレルで約2・5個分に相当した。
福島第1原発:放出セシウム…広島原爆の168個分 - 毎日jp(毎日新聞)


放射能被害を考えるセミナーが仙台で開かれる

2011-08-25 | 風の備忘録 
放射能被害を考えるセミナーが仙台で開かれる。
稲藁汚染による牛肉放射能汚染問題で、
宮城県内の稲作農家等の関心が一気に高まった。 
会場も満員の盛況だ。
昼食時間に、
県北の大規模畜産経営をしている法人経営者と同席した。
女性経営者だ。

 一ヵ月にエサ代等で1千万円の経費が必要だという。
この一ヶ月間 牛の出荷停止で収入はゼロ。
なんとかしのいできたが、もう限界にちかいという。 
しかも、稲藁の販売事業もしていたが 
汚染ワラが往復の運賃込みの請求書付きで返品が相次いでいるという。
いったいどのように処理したらいいか。
 これからの経営を考えると頭が痛いと嘆いていた。 
放射能問題は、
今後どのようなところまで発展するか予想のつかない。
もうすぐ稲刈りが始まる。
放射能被害セミナー (だだわらす子のひとり言)


福島第1原発、東電、直前に試算報告

2011-08-25 | 風の備忘録 

 東京電力は24日、
福島第1原発に10メートルを超える津波が押し寄せる可能性がある」との試算結果を
08年4~5月にまとめていたことを明らかにした。
しかし「評価の必要がある」として具体的な対策を取らず、
経済産業省原子力安全・保安院に報告したのも事故直前の今年3月7日だった。
れらの事実を東電も保安院も公表せず、
10メートルを超す3月11日の津波について
「想定外だった」との説明を繰り返していた。


 試算は06年の原発耐震設計審査指針改定に伴い、
保安院が指示した再評価作業の一環。
東電は、政府の地震調査研究推進本部の見解に基づき、
三陸沖から房総沖で
明治三陸地震(1896年)並みの地震(マグニチュード8.3)が起きたと想定した。
その結果、福島第1原発に到達する津波は
▽5、6号機が10.2メートル
▽1~4号機が8.4~9.3メートル
▽防波堤南側で15.7メートルなどと推定された。
 しかし東電は結果を保安院へ報告せず、
1~4号機で5.7メートルとしていた想定津波高の見直しもしなかった。
 東電の松本純一原子力・立地本部長代理は24日の会見で
(10メートル超は)あくまで試算で、
運用を変えるほど信用に足る数値か慎重に判断する必要があった
」と説明。
事故後、津波を「想定外」としたことについても
「うそをついたわけではない。
運用変更は学説や試算でなく固まった評価基準で行われるべきだ」と釈明した。

 保安院によると、3月7日の報告では耐震安全審査室長が
報告書面を受け取り「設備面で何らかの対応が必要」と指導したが、
4日後に巨大地震が発生。
想定を大幅に上回る津波が深刻な事故を招いた。
 
東電は08年12月にも、
869年の「貞観(じょうがん)地震」を想定した試算で
「8.7~9.2メートル」との結果をまとめ、
09年9月、保安院に報告した。しかし報告は口頭だったうえ、
保安院の担当者から上司に伝わったかどうかも不明という。
 保安院は、事故直前の東電からの報告も含め、
こうした事実を公表しなかった。
森山善範対策監は24日、
政府の事故調査・検証委員会には説明したことを明らかにし、
「規制機関として十分な対応を取れていなかった」と話した。
【野基文、岡田英】
福島第1原発:10メートル超津波 東電、直前に試算報告
- 毎日jp(毎日新聞)


脱原発のスイス当局が福島事故を厳しく指摘「想定外の事態ではない」

2011-08-23 | 風の備忘録 

脱原発のスイス当局が福島事故を厳しく指摘「想定外の事態ではない」
産経ニュース 2011.6.19 19:47 【ウィーン=木村正人】
2034年までに寿命を迎える原子力発電所の全廃を決めたスイスの原子力安全当局が
福島第1原発事故について「想定外の事態は何一つ起きていない」と
日本の安全対策の不備を指摘する報告書をまとめていたことが19日、分かった。
原発の安全強化策を協議する国際原子力機関(IAEA)閣僚級会合が20~24日開かれるが、
こうした加盟国の厳しい目が日本側の対応に改めて注がれそうだ。

 スイスの原子力安全当局が事故を分析して5月5日に同国政府に報告した。
産経新聞が入手した報告書によると、
(1)緊急システムに津波防護策が施されていなかった
(2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった
(3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実な冷却機能もなかった
(4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった-と指摘されている。
 その上で「携帯用ディーゼル発電機やポンプの備えがあれば、
もっと短時間で原子炉への注水を再開できた」として
少なくとも2号機と3号機の炉心損傷は避けられたと分析。

最初の3日間に3号機と4号機の使用済み核燃料の加熱と放射性物質の放出を防ぐために
貯蔵プールに注水できなかった事実はもっと不可解だ
」と厳しく批判した。
報告書は
「過去500年に福島第1原発の安全基準を超える津波が19回も起きているのに
十分な対策を怠ってきたことは日本の安全基準への不信感を醸成している」とも指摘している。

 スイスの国民議会(下院)は今月8日、
既存の原子炉5基を順次停止する脱原発議案を可決している。
 一方、日本を現地調査したIAEAの調査団は閣僚級会合で調査報告書を発表するが、
IAEA派遣団の一員として2007年の新潟・中越沖地震で自動停止した柏崎刈羽原発の損傷を調査した
英ブリストル大のウィリー・アスピナル教授は
IAEAが独自に調査して改善を求めるというより
現場を視察して日本側から調査結果の報告を受けただけ。それが日本政府の要請だった

とIAEAの調査能力の限界を指摘する。
【放射能漏れ】脱原発のスイス当局が福島事故を厳しく指摘「想定外の事態ではない」+(1/2ページ)
- MSN産経ニュース


トモダチ作戦は「汚い爆弾」に備える貴重な経験 米軍飛行隊長が評価

2011-08-23 | 農作業

【放射能漏れ】
トモダチ作戦は「汚い爆弾」に備える貴重な経験 米軍飛行隊長が評価

2011.6.21 13:09
米軍が東日本大震災の被災者支援で実施した「トモダチ作戦」で、
福島第1原発事故の汚染の中で活動したことが、
放射性物質をまき散らす「汚い爆弾」が使われる事態に備える上で貴重な経験になったと報じた。
 先週、在沖縄米軍基地を訪れた海兵隊のエイモス司令官に対し、
ヘリコプター飛行隊の隊長は、
米軍が将来「原発事故や汚い爆弾、テロに対応する可能性」があるとし、
トモダチ作戦で得られた経験は「戦略的価値がある」と説明した。
 米海兵隊は、
沖縄からC130J輸送機やCH46中型輸送ヘリで支援物資を被災地に搬送。
海兵隊が放射線量を計測した航空機73機のうち25機で除染が必要だった。
航空機の除染作業には1カ月かかったという。(共同)
【放射能漏れ】トモダチ作戦は「汚い爆弾」に備える貴重な経験 米軍飛行隊長が評価
- MSN産経ニュース

2011年8月21日 豚糞および鶏糞堆肥搬入

2011-08-21 | 農園作り

【作業内容】
豚糞および鶏糞堆肥搬入  一部のナスに追肥(鶏糞
 
雨だったことと予定より参加人数が少なかったため、
作業としては堆肥の搬入しかできませんでした。

第2農園の馬糞堆肥の上に豚糞堆肥を、
第1農園の馬糞堆肥の横に鶏糞堆肥を置きました。

豚糞は馬糞と同様に使用していいそうですが、
鶏糞は肥料として強いので追肥などに使うようにしてください。
 坂本君が3tトラックいっぱいに堆肥を持ってきてくれたのですが、
5人でスムーズにおろすことができました。



涼しかったので、堆肥があまり強く臭わなかったのが救いでした。
機的な臭いで私は結構好きでしたが。
その後、トラックやシート、スコップなどを洗うのに
高圧洗浄機がとても役に立ちました。




昼食作り
カレー、オニオングラタンスープ、空芯菜とベーコンとズッキーニの炒め物、
キュウリとシソと梅の和え物

来週は晴れてくれることを祈ります。
今日作業に参加された皆様、お疲れ様でした。 by佐智
のらぺんのページにようこそ! - Yahoo!ジオシティーズ


2011年8月20日 農園食から考える

2011-08-20 | 農作業

 
作業:第1農園  除草、あずきの誘引等 芝刈り、野菜の収穫 ルッコラ、白菜の植え付け。 
第2農園、第3農園 刈払機による除草作業 
○昼食づくり カルボナーラ、豚ロース塊のグリル、 かぼちゃのポタージュ、
ジャガイモの付け合わせ、ジュノベーゼソース作り
 ○昼食会儀  
1部 こらからの風の学校について~5年後、10年後を考えて
 
2部 農園食から考える
要点
1 今後農園でどういうことをしていきたいか。
自分の仕事との折り合いもあるが、子育て、子ども関係の活動等

2 今後この農園を維持していくためにも、
スタッフ一人一人がより面白いことを追求していくことが必要なのでは。
3 拠点となる場所を作り、事業化しないとなかなか持続的に維持できないのでは。
 という話がありましたが、話の流れとしてもう少し具体的に詰めていかないと、
ただ夢の話をしただけになってしまうので、メンバーが意識していくといいと思います。by潤 
高洗浄機による芝刈り機、農機具小屋の清掃
  ○夕方会議
植え付け計画について話し合われました。 
 

福島の線量横ばい 福島大が市内計測 2年後も現在の6割

2011-08-19 | 風の備忘録 
福島の線量横ばい 福島大が市内計測 2年後も現在の6割

 福島県内で福島第1原発事故による放射性物質の汚染レベルが、なかなか低下しない。
放射線量は事故後1カ月程度でかなり減少したが、その後は微減が続く。
現在の放射性物質の中心は半減期が年単位の2種類の放射性セシウムで、
半減期がより長いセシウム137の割合がほぼ半分を占める。
そのため専門家は大規模な除染などを行わない限り、
線量は2年後でも現在の6割程度にしか落ちないと推測する。
 福島市(原発から北西約65キロ)と南相馬市(北約25キロ)、
飯舘村(北西約40キロ)の放射線量の推移=グラフ=を見ると、
事故直後の3月中旬に最大になってから、
半減期が8日と短いヨウ素131が減って急速に低下。
4月下旬以降は減少ペースがかなり落ちた。
 福島市では3月15日に毎時24.0マイクロシーベルトを記録。
5月上旬には1.5マイクロシーベルト前後に下がった。
その後の減少幅は小さく、
5カ月過ぎた8月に入っても1.1マイクロシーベルト前後にとどまる。
 福島大の放射線計測チームが4月、
福島市内の土壌を分析して放射性セシウムの種類や量を調べた結果、
セシウム134と137の放射線量は同程度だったという。
いずれもセシウムの放射性同位体で、


半減期は134が2年、137は30年と15倍もの開きがある。

 計測チームがそれぞれの量と半減期のデータなどから計算した結果では、
雨の影響などを考慮しなければ、
福島市の線量は2年後でも現在の6割程度になるだけ。
セシウム134は半分になるが、137の方はほとんど減らないからだ。
 計測チームによると、セシウム134と137の比率は福島市以外でも同程度とみられ、
今後の減少ペースは南相馬市や飯舘村などでも同じ傾向になりそうという。
 福島市内で毎時1マイクロシーベルトが1年間続いた場合、
屋外で毎日8時間過ごすなどと仮定して年間積算量は5ミリシーベルト程度。
国際放射線防護委員会(ICRP)が
「非常事態」収束後の一般人の年間被ばく限度量とした20ミリシーベルトは下回るが、
通常時の一般人の年間限度1ミリシーベルトは超える。
 福島大放射線計測チームの山口克彦共生システム理工学類教授(物理学)は
「線量低減のためには除染を徹底するしかないが、
住宅の屋根や放射性物質が固着したアスファルトなど簡単に除去できない場所も多く、
大変な作業になるだろう」と指摘している。
2011年08月19日金曜日

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