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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

大石主税の墓と母りくのこと

2006年11月19日 17時57分09秒 | Journal
 主税は、親父よりも背が高く、当時としては大柄で172㎝前後はあったという。
 母の大石りくも当時としては大柄で、身長は6尺(180センチ)あったというかが、本当かな。良雄とは蚤の夫婦だったことになる。以下はWikipediaから。
 りくは、但馬国豊岡藩京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として誕生。母は佐々信濃守休西の娘。石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、1200石を食む京極家中一番の名門家であった。
 貞享4年(1687年)、播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老の大石内蔵助良雄と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住。時に内蔵助29歳、りく19歳。以降、二人はその夫婦生活の中で、元禄元年(1688年)に長男松之丞(のちの大石主税良金)、元禄3年(1690年)に長女くう、元禄4年(1691年)に次男吉千代、元禄12年(1699年)に次女るりを生んだ。また内蔵助にはりくとは別に妾がいたようで、元禄14年(1701年)2月17日に妾の産んだ女子が四歳で夭折したことが花岳寺の資料に見える。しかし大石夫妻の赤穂での平和な毎日も長くは続かなかった。
 同年3月14日、江戸城で勅使饗応役をつとめていた主君浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹の上、赤穂藩は取り潰しとなった。5月の赤穂城開城後、内蔵助が開城残務処理にあたっている間、四人の子らとともにりくは、一時但馬豊岡の実家へ帰ったが、その後、内蔵助が山科に住居を定めたので、7月初めにりくも山科に移り、再び一緒に暮らした。この夫婦生活でりくは、また一人子を身ごもった。しかし内蔵助の盟約に加わった同志たちの間で密談が進む中、盟約の「妻子にもしゃべらない」の原則を守るため、元禄15年(1702年)4月15日、内蔵助は、盟約に加わることを望んだ長男主税を除いて、りくと他の子らを再び豊岡に戻した。さらに内蔵助は、りくと絶縁。連座が及ばぬようにとの配慮であった。7月5日に石束家で三男にあたる大三郎良恭を出産した。
 12月15日、夫内蔵助と長男主税を中心にした赤穂浪士たちが仇の吉良義央の首をあげて本懐をとげたあと、2月4日に切腹となる。残されたりくは、内蔵助の遺児たちの養育にあたった。長女のくうと次男吉千代はそれぞれ若くして死去したが、次女るりと三男大三郎が無事成長した。また世間では亡き夫大石内蔵助の人気が過熱したことこともあって、安芸国広島藩の浅野本家が内蔵助の子を家臣に欲しがり、正徳3年(1713年)9月に大三郎は、父内蔵助と同じ1500石にて浅野本家に仕官した。また次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚している。りくは、落飾してから青林院と称し、広島藩から隠居料として100石を支給されていたが、元文元年(1736年)に死去。享年68。法名は香林院。広島の国泰寺に葬られる。
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