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1904年、魯迅は仙台の医学専門学校(後の東北大学医学部)へ入る。彼の『藤野先生』の冒頭で「東京も格別のことはなかった。…別の土地へ行ってみたら、どうだろう?」といったことで、東京の生活を見限ったのが仙台行きの動機だったように書いている。また、父親の生命を奪った漢方医学への反発が、西洋医学を学ぶ動機になったのかもしれない。いずれにしても、仙台で魯迅はニッポン留学中にやっと尊敬できる師に出会えたわけである。それは、服装に無頓着でネクタイをしめ忘れてくることもある風采のあがらない解剖学の先生であった。初対面のときの印象を「色の黒い痩せた先生で、八字鬚をはやし、眼鏡をかけ、大小の書物をかかえていた。書物を教壇におくと、ゆっくりしたぎくしゃくした抑揚で、学生にむかって自己紹介した。『私は藤野厳九郎というものでして……』後のほうで何人かの者がふき出した」と記している。藤野先生は魯迅の講義ノートをいちいち詳細に添削して返してあげた。魯迅はチャイナに帰ってから先生が添削してくれたノートを三冊の厚い本に造本してしまっていたが、1919年北京へ転居の際に紛失してしまった。写真は、魯迅が記す「先生は人骨やら切りはなされた多くの頭蓋骨やらのあいだに坐っていた」研究室の藤野先生であろう。中国の方に言わせれば、魯迅はニッポン滞在中ニッポン人が好きになれなかったが、藤野先生は例外中の例外だったという。魯迅は『藤野先生』の最後を、仕事に疲れ、書斎の壁にかかった藤野先生の写真をちらっと見やったとき「いまもぎくしゃくした抑揚で話しかけようとするように思え、ふと私の良心を目ざめさせ、かつ勇気づけてくれる。それで煙草を一本つけ、ふたたび『正人君子』の輩の深く嫌悪する文章を書きつづけるのである」と結んでいる。括弧(かっこ)のない正真正銘の正人君子とは、まさに魯迅にとっては藤野先生の面影であったのであろう。