空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

痛みを感じる心

2009年01月11日 08時50分32秒 | 思考試行
与党政治家の話を聞いていると、まさに、痛みを感じる心がない。実際に、この冬空に放り出されて、たくわえもない状態から、たちまちにうちに、生命の危機さえ脅かされている人びとが、大量にでてきているというのに、期限付きの対策しかとらないとか、展望を示しえないとか、とんでもない事態となっている。

こういうときこそ、具体的な手をうって、迅速な実行をするのが政治の役割であるのに、このテイタラクである。本当に、他人の痛みを感じない連中が政権をもっていることがはっきりした。

それは、今後の国民の選択に、資料を与えているのだから、意味はあるのかもしれないが、当面ひどい目にあっている人びとに対する具体策が充分でないことは、本当にイライラさせられる。

本来、その立場によって、利害関係が生ずることは仕方がないが、力の強い者が勝つ仕組みだけでいいわけはなく、当然ながら弱者に対するケアがされていないことは、現実的に社会の水準の低さを露呈している。

まさに、政治の貧困であり、民主主義がきいてあきれる。政治家は、痛む心をもってほしい。

中島みゆき

2009年01月10日 08時19分17秒 | 思考試行
中島みゆきの歌を始めてきいたとき、ビックリギョウテンした。なんという声をだすのだ。そして、ムード。新しいという印象。その後、タカジンと松山千春の対談がテレビであって、彼女のことが話題になったときがあった。

女性関係について、両者共にオサカンなようで、自慢をしあっていた。中島みゆきと松山千春とは同郷ということもあって、割と親しくしていたようだが、あるとき、彼女のグループとニアミスした。彼女の「接近」に対して、朝まで話だけで済ませて、「勝ったと思った。」「こちらにもカンというものがあるじゃない・・・」と、松山が言った。

そのとき、松山千春にしてそう言わせるかと感心した。なるほど、彼女の迫力は尋常ではない。愛らしいかと思えば、動物そのものの声、詩がストレートな場合と、そうでない場合、全体としては、マトモに来るという感じがある。逃げは効かないし、どこまで行くかわからない、という恐さもある。

きれいごとではない世界を、垣間見せつつ、それでいて、美しい。不思議な人である。カリスマ的な人気があるのは解るような気がする。


人間とはなんだろうか

2009年01月09日 08時25分10秒 | 思考試行
なかなか事態は変わらない。しかし、失望しているわけにはいかない。全体の設計は誰がやるのか。官僚か、政治家か、自治体の首長か、公務員か、評論家か、マスコミか、経済団体か、あるいはその総体か。

全体の設計が、必要な時代を迎えているのではないか。少なくとも、どのような世の中にするのかのコンセプトが必要である。自由に任せると、とんでもない大儲けの手段を見つけた者が、実経済と関係のないところで、暗躍して儲けだけをカッサラテいくわけだから、こんなものは、社会のなかで、なんの値打ちもない。

現に、動いている会社であっても、当面の儲けのために、会社を潰して、売り飛ばして、金にかえて持ちにげすることも可能なのだから、ビジネスとは言いがたい。それが、今の世界不況を招いたのである。エライ時代がきたものだ。

そこで、始めて、人間とは何か。生存とは何か。生きるとは、と正面きって、検討する時代に入ったと思う。単純に、それぞれが勝手に動くことはできない。それなりの規則が必要であり、その内容が検討されなくてはならない。それを検討するとなると、先に述べた哲学が必須のことになるのである。人間研究がされなければならない。

立場

2009年01月08日 12時19分26秒 | 思考試行
善良で、欲がなく、譲ることを気にしない人は、側にいてくれるとありがたいし、平和な気分となる。こういう人は、大抵貧しく、人からは利用されるばかりで、大富豪にはないタイプであろう。

年越し派遣村で過ごした人びとのタイプはこんな人が多いのではないだろうか。
よく我慢をされていると思う。

人間としては、ある意味完成の域に達している人だとも言える。みんなこういう人ばかりであれば、悲劇が起こる余地はない。

人より少しでも優位に立ちたいと競争したり、頑張ったりすると、揉め事が起こる。

少しぐらい能率が悪くてもいいではないか、という気分になる今日の事態を迎えて、価値観の転換があってもいいような気がする。

ここへ来て、経団連など大資本の社長連が、ワークシェアを言い出した。雇用を切り捨て、自らは内部留保をためこみ、高みの見物をしていた酷薄無情の連中が、さすがに自分の損をしない範囲でなら、のような雰囲気があるが、弱者に少し目を向けたというところか。

それにしても、新年を迎えた財界の集まりで、一斉にそんなことをクッチャベリ始めたわけだが、そのシレットした顔つき、血色のいい顔を見ていると、猛烈な怒りの感情がこみあげる。

年末年越し村の人達の様子をみて、どう思ったのだろうか。政治と結んで、自由に首切りをできる体制にして、見事にそのアナボコに突き落とした人びとの苦しみ、悲しみをどれだけ理解しているのか。

常に尊大な人

2009年01月07日 09時52分12秒 | 思考試行
インフルエンザの予防注射をうける。近所に医院があり、料金2000円なりを支払った。窓口の無愛想な対応が気になった。医者がそうなら、窓口もそうなるのか。

最近の医者は、どこもそんなに高圧的な人はいないのだが、近所ということで親しくするつもりか、上からの調子で話す。

年齢は明らかに、当方よりは下であり、そんなに親しくもないのだから、普通に話してもいいと思うのだが、相手の調子に合わせるとなると、こちらが、何だか尊大な気がして、自分の居心地が悪い。

ということは、相手はよほど尊大な気分でいるのだろうと、推測してしまう。以前に、小生の顧客で、高齢の方であったが、やはり近所に医者がいて、腕はいいのだが、尊大であまりお客も多くなかった人に、「キミはエラそうにしすぎだ。」と説教したと言う。

その医者は、すっかり態度を変えて、今では、お客も増えて、繁盛していると言う話であった。さもあらんと思う。

なにごとも、人様に尊大であって、喜ばれることはないだろう。しかるに、自分が優位な立場にあると思うと、そうしないとおれないような人がいる。シタテにでるとツケアガルと思っているのかもしれない。

それが、習い性になっていて、謙虚にならないといけない立場にあるにも関わらず、常に尊大という人もいる。助け助けあう喜びを知らない人である。

マークスの山を読んで

2009年01月06日 10時27分49秒 | 思考試行
マークスの山を読んだ。複雑な事件背景、心理風景、終盤に至って、花が開くように、謎解きが進む。そして、山の風景の描写。もはや、老骨ながら、北岳の頂上に立ってみたくなる。森のように「あ」と言ってみたい。

きれいごとではなく、それでいて、現実ではありえないと思われる人間群像、日常をそのまま描いたのではないはずだが、本当にありそうな、現実感。あまりのひたむきさ、考え行動の誠実さ、それが向かう対象の大小を問わない無私のサムライ達。

この作家には、時代の根幹、本質にせまる作品を期待したくなる。合田刑事と加納検事が、吾妻が、森が・・・多彩な人材を駆使して、人間の本質にせまる、地球人類の新たな展望を開く物語を作ってくれないだろうかと思う。

現在の状況下で、病根を抉り出し、快方へとむかう、総合的な、具体的な、展望を提示してくれないだろうか。それができる人ではないだろうか高村薫さんは。

力を出し惜しみしないで、取材力、洞察力を動員して、より大きなテーマに挑んでほしいと思った。

変化

2009年01月05日 08時11分41秒 | 思考試行
京都はやはり良かった。そして、新たな発見があった。小さな入り口から、その奥には、広い空間がある。マチヤを改造した昼定食の食堂、京都にしかない雰囲気、薄味の和風の家庭風料理である。伝統の実力がある。

目星をつけておいた細見美術館を目指して、ゆっくり歩いて行く。町は、歴史の積み重ねの重厚さと、現代の軽さ、合理性がみえる。

日常の生活の中に、こういうアクセントを入れることは、有効だと思う。あまりに日常生活に埋没すると、気分転換を図れず、煮詰まってしまう。面白みは、変化のなかにある。

個人的には、ちょっとしたこんな余裕があることは嬉しいが、たいへんな苦労を強いられる人びとが生まれている。この問題を通り過ぎるわけにはいかない。

年末の派遣切りを巡って、厚労省はついに自らの施設、講堂を提供することとなった。すぐ側の日比谷公園でテント村が作られ、それを無視することはできない情況に国が追い込まれたといえる。

新しい政策を出さなければならないこの時期に、動きがない。具体的になにをするのかを出してこない。じっさいの行動がみえない。

日本には憲法25条で、生存権を規定している。これを実行するときは今である。農業分野、介護の分野、いずれも人が少なくて困っている。それは、待遇があまりに悪くて生活が成立しないからと言われている。

しかし、いずれも必要な分野である。生活できるように制度を変える大胆な政策を打ち出すべきである。

今日は京都へ行く

2009年01月04日 09時41分03秒 | 思考試行
今日は、京都へでかけるつもりだ。妻が今、化粧をしている。

10時には出かけられるだろうか。多分10時30分ぐらいにはなるだろう。

チェックがあるし、庭のネコにもえさをやらなければならない。

こうしてはおれない。

明日からは、もう仕事である。長いと言われた正月休みもすんでみれば、まことに短い。

年末に、京都へ行った際に、相当な発見があった。昔に、随分京都へ行ったから、行きつくしたような気分になっていたが、実は、例によって、何にも見ていない感じであって、行きつくすことなんてできないのである。

先回も、行き先を決めて、ネライをはっきりさせて出かけたのが良かったので、今回もテーマを決めた。美術鑑賞。

行き先は、岡崎の細見美術館である。琳派のコレクションがあるようだ。

最近は、なにをみても、明らかな発見の喜びがあって、ようやく、事物を鑑賞できるようになってきた実感がある。これは、うれしいことである。

テレビをみていて、ドラマも面白いし、趣味のなんとかも面白い。けっこう楽しみということが実感できている。


助け合いとアタック

2009年01月03日 06時29分57秒 | 思考試行
何かの技術を駆使して、金儲けをしたとして、その蓄財をどうするのかというと、世のため、人のためというより、自分の子孫が楽に暮らせるようにと、たとえばマンションオーナーにしてやるとか、そのように考えるのは、自然なように思える。

彼の息子達は、そのため、基本的な生活の心配や、努力のかなりの部分は、免除されるために、青春を謳歌できる。金のかかる趣味であっても可能だから、クレー射撃でオリンピック選手になったりする。

人から指図されるのを好まないから、自分が社長になる。お飾りで構わない。親分でいないと気がすまない。そのための努力はする。

権力、金儲け、結局はここに努力の源泉がある。

その戦いに敗れると、生きがいはどこへいくのか、そのあたりから、人生の味わいが始まるのではないか。

なにもかも捨てた境地は、人生にふくらみを与え、発見を与える。権力、金儲けから自由になるということは、人間として、どう生きるのかの問いが始まるということである。

とにかく、生きることが一大事となる。人間としての生き様が問われる。

「真善美を求めて、人格成長を目指す」という結論を、高校生の頃、人生の生き方として定めて、今日まできた。

大儲けすることもなく、目立つこともない、エゴイッシュな親の縛りも、自覚的に受け入れ、なるべく波風がたたないように生きてきたような人生であったとおもう。

いわゆるプチブル的な生き方であったとおもう。この生き方は、強烈な生きる喜びから遠い。やむにやまれぬ、という熱意に欠け、事なかれ主義であり、迫力がない。

こんなところには、本当の人生の醍醐味は存在しない。だが、冬の寒空に野宿を余儀なくされ、人の情けに触れた人びとは、つらいだろうが生きるというなかでの強烈な感慨を持ちえたのではないか。

助け合いの実感を得て、そして、次はアタックの番である。強烈な怒り、ここまで追い込んだ敵に対するときである。

地球規模でモノを考えなければ、いい方向を目指すことはできない。あのトヨタでさえ、馬脚を現した。なんだ、そこの浅いことよ。

「どら平太」をみて

2009年01月02日 09時18分50秒 | 思考試行
「どら平太」をみた。市川菎監督作品。

堀外の非道な社会。そこを支配する3人のヤクザ。

貧しい藩の財政を、そこからあがる賂でまかなう。自分の手を汚さずに、今で言う警察官僚の家臣を通じて、取り締まりを加減しながら、賄賂を受け取る。

そこへ、江戸勤務から、殿様の命により、どら平太が派遣されてくる。堀外の取り締まりの町奉行として赴任してくる。

遊び人だが、気骨のあるどら平太、堀外の世界に入り込んでいく。

そして、見事に、3人のヤクザを所払いとし、老臣達を退陣に追い込む。

面白いドラマである。勿論、作者達は現代の現状を、批判する目があって、このようなドラマを作ったのだろうが、昨今の派遣切りの状況は、あまりにピッタリはまっていて、現代のどら平太現れよ、という気分になる。

弱い者を作り、イジメて、その成果を溜め込み、政治家に献金してその仕組みを維持する。まさに、今の図式が現れる。

法律で、儲け主義を合法化した。昔は、派遣業というのは、当然ながら違法でありピンハネそのものであり、ヤクザがしていた商売である。

人の働きから、ピンハネして、低賃金を強いる。こんなことを合法化する神経、恐るべき神経、そういう時代を作ってしまう強欲資本主義、これをやめさせるのは、まさに、今では、投票行動しかない。

国民は、次の選挙で、この状態を見抜いて、結果を出すだろうか。だまし、すかし、隠蔽、さまざまな工作のなかで、チャント選択するだろうか。

お互いが、お互いを助けあう、当たり前の状況を作るために、国民はしっかりしなければならない。

朝まで生テレビをみた・・・途中まで

2009年01月01日 12時33分05秒 | 思考試行
二年続きで、年賀状を出さないことになり、賀状が少なく、なんだか寂しい感じがする新年を迎えた。

大晦日から引き続きで、朝まで生テレビを4時頃までみた。

田原ソウイチロウ氏の司会は、クドクテ、勉強不足で、品がない。とりわけ、共産党に対する姿勢は、まことに醜い態度である。田原氏のような人こそ、一度、野宿してみろといいたい。

対策について、直ちにやるべきなのに、グダグダと焦点をぼかした司会振りに最後までみるつもりであったが、もうイヤになってしまって寝てしまった。

それにしても、自民党の大村氏の、あまり、意味のない数字を羅列しながら、自分たちを合理化するものいいに、怒りを感じた。

これも、野宿を体験してみろといいたい。

労働組合の連合が、これも、御用組合の本質丸出しななかで、とても、真面目に問題にとりくんでいるとは見えない中で、それに比して、派遣切りに対処しているボランテイアの人達は、光っていた。

人間性ということが、やはり表面に出てきた。

所得の再配分は必須であり、渡辺社長が結構いい線をいっていたのだが、頑張った人が高収入をとって当たり前と洩らしたのは、これが限界かと、失望させられた。

それこそ、弱者側が権力を握り、かれらの不労所得から、税金で召し上げなければ自発的には出さない。彼らは今の立場を守ろうとするのである。

弱者が声をあげ、行動しないと、事態は変わらない。どこへでも押しかけようではないか。自殺なんかしてはだめだ。年間3万人も自殺者を出して、なにが民主主義か。

憲法を遵守させるには、黙っていてはダメだ。