空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

助け合いとアタック

2009年01月03日 06時29分57秒 | 思考試行
何かの技術を駆使して、金儲けをしたとして、その蓄財をどうするのかというと、世のため、人のためというより、自分の子孫が楽に暮らせるようにと、たとえばマンションオーナーにしてやるとか、そのように考えるのは、自然なように思える。

彼の息子達は、そのため、基本的な生活の心配や、努力のかなりの部分は、免除されるために、青春を謳歌できる。金のかかる趣味であっても可能だから、クレー射撃でオリンピック選手になったりする。

人から指図されるのを好まないから、自分が社長になる。お飾りで構わない。親分でいないと気がすまない。そのための努力はする。

権力、金儲け、結局はここに努力の源泉がある。

その戦いに敗れると、生きがいはどこへいくのか、そのあたりから、人生の味わいが始まるのではないか。

なにもかも捨てた境地は、人生にふくらみを与え、発見を与える。権力、金儲けから自由になるということは、人間として、どう生きるのかの問いが始まるということである。

とにかく、生きることが一大事となる。人間としての生き様が問われる。

「真善美を求めて、人格成長を目指す」という結論を、高校生の頃、人生の生き方として定めて、今日まできた。

大儲けすることもなく、目立つこともない、エゴイッシュな親の縛りも、自覚的に受け入れ、なるべく波風がたたないように生きてきたような人生であったとおもう。

いわゆるプチブル的な生き方であったとおもう。この生き方は、強烈な生きる喜びから遠い。やむにやまれぬ、という熱意に欠け、事なかれ主義であり、迫力がない。

こんなところには、本当の人生の醍醐味は存在しない。だが、冬の寒空に野宿を余儀なくされ、人の情けに触れた人びとは、つらいだろうが生きるというなかでの強烈な感慨を持ちえたのではないか。

助け合いの実感を得て、そして、次はアタックの番である。強烈な怒り、ここまで追い込んだ敵に対するときである。

地球規模でモノを考えなければ、いい方向を目指すことはできない。あのトヨタでさえ、馬脚を現した。なんだ、そこの浅いことよ。