事態がはっきりしてきて、当事者の言い分が食い違う場合、どんな現象がおこるのか。権力側は、権力の座を守ろうとし、事業を行おうとしたものは、自らの言い分を訴える。
これは、まさに、国民をどうやって締め上げようかと、否、「国民のために」天皇を中心とした社会、価値観を広めたいとする人同士の、いわば、同志どうしの争いである。
官僚も事がうまくいくように「忖度」していた。それもやっていないと強弁する。彼らもまた、権力側として、同じ価値観を持つ。
そして、天皇中心といいながら、実際の本音は決してそうではない。天皇をいわば道具として考えているだけで、天皇の意思を具現化しようなどとは考えてはいない。
考える主体は、権力であって、天皇ではないし、国民でもない。彼らがかれらの価値観にために考えるのである。この考え方から、共謀罪に発想がでてくる。人々を分断し、異質分子をあぶり出し、締め上げるための道具がほしいのである。
こういう馬鹿げた状態から抜け出すためには、どんな作業が必要なのだろうか。国民は簡単には目覚めないし、権力が心配するような状況は、取り立ててない。だが、今回の事件では、珍しく、その骨組みが明らかになっている。それでも見えないとすれば、結構たいへんなことである。