世界には、多様な価値観、文化、それぞれの思いがある。歴史がある。日本からすれば、先の戦争は、止むにやまれぬ戦争だったという議論がある。それ以外に道がなかった、という見解もある。では、だれが、そこへ追い込んでいったのか。
欧米列強は、アジアで何をしていたか。中国、朝鮮、東南アジア諸国は、どういう目にあっていたのか。中南米諸国がどのような目にあっていたのか。かつて、弱肉強食があたりまえの世界であった。
強い者が、弱い者を従えて、これを利用する。アフリカ大陸からは、労働力として人々を強制的に拉致し、商品として、奴隷として売買し、労働力として、こき使い、巨万の富を得、財力をつけてきた。
これに対抗して、日本は、明治以来、国を守るために、必死の努力をし、背伸びをし続けてきた。資源のない国として、外へ出て行かざるを得なかった、という。そして、ついに、欧米と衝突し、とことん痛めつけられて、あげくのはてに、無条件降伏をしたのである。
戦争には、大いなる犠牲を伴う。それは、常に、被支配層の人民である。人民が真に主人公となった経験のない国である日本の場合、いまだに、まことに中途半端な民主主義国家ではある。
だが、今、アメリカに押し付けられようが、自主憲法でなかろうが、通常では有り得ない、戦争放棄、武力放棄、文言だけみれば、外国が一度その気になれば、いつでも占領可能な憲法9条をもっているのである。
これは、世界のリーダーの条件を叶えている国である。国民が高い意識を持ち、人類社会を根本的に転換し、人類社会を格段の進歩をさせるための条件を有しているのである。
ただ、本気でそれを実行しようとする気が、現政権にはない。民主党政権もそうではなかった。では、共産党政権になればどうか。アメリカが認めなければ、選挙で共産党が多数をしめたとしても、CIAかなんか知らないが、そんな政権は直ちに転覆させる可能性がある。
それでは、徒労である。世界をかえる準備と、イメージと戦略が必須である。そのためには、ひとり政府だけでは、不可能である。国民一人ひとりの質的向上がなければできない。はたして、可能だろうか。難しい道である。