カラオケのために、練習を始めて、何と、メロディーが覚えられないことかと、慨嘆しているのだが、それでも、続けていると、声をださずに、頭の中では、いけるかな、というところまで来た。
ところが、口に出そうとすると、頭の中で、できていたのに、違うものがでてくる。まさに、畳の上の水練状態である。だが、いままで、頭の中に、浮かべることさえできなかったのだから、それは、わずかに、進歩してきたと思うべきだろう。
努力の成果とみると、これは、ステップの一段階であろう。いままで、多くの「歌」を覚えてきたのだが、まったく意識していなかったことで、こんなステップがあるとも思っていなかった。
おそらく、頭の中で、できた後で、歌えるようになっていたのかどうか、ほぼ同時位だったのかもしれない。頭の中で、できれば、それは、すぐに口にでるという具合ではなかったか。
意識することもなく、次々と新しい曲を覚えていたのが、今や、こんなに打ち込んでいるのに、この状態である。これが、年ということだろうか。
見方を変えると、それは、楽しみの期間が長いことを意味する。簡単に覚えられたら、つまらないなんて、負け惜しみだろう。ただ、いそがなければならない話ではない。
ともあれ、実態は、受け入れるほかない。いつの日か、持ち歌にできるように、努力を続けるのみである。
ところが、口に出そうとすると、頭の中で、できていたのに、違うものがでてくる。まさに、畳の上の水練状態である。だが、いままで、頭の中に、浮かべることさえできなかったのだから、それは、わずかに、進歩してきたと思うべきだろう。
努力の成果とみると、これは、ステップの一段階であろう。いままで、多くの「歌」を覚えてきたのだが、まったく意識していなかったことで、こんなステップがあるとも思っていなかった。
おそらく、頭の中で、できた後で、歌えるようになっていたのかどうか、ほぼ同時位だったのかもしれない。頭の中で、できれば、それは、すぐに口にでるという具合ではなかったか。
意識することもなく、次々と新しい曲を覚えていたのが、今や、こんなに打ち込んでいるのに、この状態である。これが、年ということだろうか。
見方を変えると、それは、楽しみの期間が長いことを意味する。簡単に覚えられたら、つまらないなんて、負け惜しみだろう。ただ、いそがなければならない話ではない。
ともあれ、実態は、受け入れるほかない。いつの日か、持ち歌にできるように、努力を続けるのみである。