ラムの大通り

愛猫フォーンを相手に映画のお話。
主に劇場公開前の新作映画についておしゃべりしています。

『グーグーだって猫である』

2008-05-20 23:58:01 | 新作映画
----今日はスゴく迷っていたみたいだね。
えいは、確か大島弓子のファンじゃなかった?
「うん。だからこそ、困っちゃう。
大島弓子だけで、一つのブログが作れるくらいにファンだからなあ。
リアルタイムで最初に読んだのが
1970年の『詩子とよんでもういちど』。
以後『誕生!』『あしたのともだち』『さよならヘルムート』
『雨の音がきこえる』『ミモザ館でつかまえて』『ジョカヘ…』
『キララ星人応答せよ』『10月はふたつある』----
もう、タイトルをあげ出したらきりがない。
なにせ学生の頃映画を作ったときには
『星にいく汽車』の男の子の名前を
自分のペンネームにしてしまったほど」

----そういえば、『綿の国星』のチビ猫の
がま口にサインもしてもらってなかった?
「うん。
その頃の想い出を話し始めるときりがない。
自主映画で大島弓子漫画の一本を映画化しようとて
途中で体調崩して中断。
そのまま未現像のフィルムが
まだ屋根裏に眠っているしなあ」

----そういえばこの前、屋根裏に入ったときは
朝日ソノラマの大島弓子単行本や
「ぱふ」とか「だっくす」の
大島弓子特集も見かけたよ。
「綿の国星」「さようなら女達」が載っている雑誌も…。
「ほら、こうなっちゃう。
なかなか映画の方に話が行かないんだ。
しかも、この映画の舞台は吉祥寺。
これまた、その昔、斉藤哲夫の歌『吉祥寺』で憧れて以来、
通いつめた町。
『ぐゎらん堂』の最後にも立ち会ったしね。」

----あらあら、それじゃあ、
この映画に対して言いたいこともいっぱいあるんじゃニャい?
「うん。監督がすでに『赤すいか黄すいか』『金髪の草原』を映画化している
犬童一心だけあって
映画は、一種の大島弓子論、大島弓子の世界論になっている。
ここには、作者の死生観がかなりくっきりと描かれるし、
また、日常の中のささやかな楽しみ、
その素晴らしさも描かれていて、なかなかの好編になっている」

---あれれっ。でもこれって『グーグーだって猫である』だよね。
確か、サバを失った作者が
新しい猫グーグーと暮らし始める。
でも彼女の心はサバでいっぱい。
で、グーグーは寂しい。「グーグーだって猫だ!」と…。
「よく覚えているね」
---それは、フォーンだってそうだったもの。
最初の頃、えいは、みゃん茶で頭がいっぱい。
ぼくのこと、まったく振り向いてくれなかった。
確か、この原作を手にしてからだよ。
こうやって、ぼくに映画のお話までしてくれるようになったのは…。
「(……)
だからこそ、どうしても個人的な思い入れが深くなってしまう。
この映画、よくできてはいるんだけど、
その中で描かれているのは
大島弓子(映画では小島麻子)を取り巻く人々や
彼女が出会う年下の男の子との話。
そして映画を通して流れているのはサバを失った哀しみ、喪失感。
グーグーのことが置いてきぼりになっている。
猫さんの演技の付け方とか表情なんかは最高なんだけど、
そこがどうしても気になって…」

----でも、サバとの絡みのシーンでは
涙ボロボロだったというんでしょ。
フォーンも複雑だニャあ。

           (byえいwithフォーン)

フォーンの一言「ぼくも映画に出たいニャあ…」ぼくも観たい
※う~ん。複雑だ度

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