ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

天下分け目の天王山 3

2015年05月08日 21時33分39秒 | ウォーキング

JR大山崎の駅近くで西国街道と離れる。
そこにあるのが「山崎駅跡」。



歩き始めた頃の「桜井駅」と
同じ意味の「駅」がここにもあったそうだ。

駅前にある立派な案内板で道を確認。



線路に沿って歩いていくと踏切に出る。





「宝寺」の踏切と書かれてある。



この「宝寺」というのが天王山登山路の途中にある
「宝積寺」のことである。

踏切を渡るとすぐに登って行く道があり、
その入り口に「天王山登り口」の石が建てられていた。



さあ、ようやく天王山登山開始である。

最初は胸突き八丁の急な登りが続く。



おお~、野鳥の案内看板だ。



さすがに自然が豊富なんやな
と思いつつ眺めてみると・・・
ほとんど家の近所の公園にいる種類でした。

もっとなんていうのかな、
名水の水辺でたわむれる「カワセミ」とか、
天王山だけに「てんかとり」とか、

いっそ思い切って「サントリー」
とか書いててほしかったかな。

宝積寺の境内には



「豊臣秀吉 一夜の塔」

と名付けられた三重塔が建っている。



え~まさかねえ、なんぼなんでも
一夜でこれは完成せんだろうて。

doiron家でさえ、
完成まで5カ月以上かかりましたぜ。

これは秀吉の「出世石」



出世ねえ、もう全然縁のない話やなあ
クリエイターで天下取れんしなあ

この宝積寺に接して登山道が続いている。



おや?このあたりには「イノシシ」がいるんや。



泉南の方でもあんなに山を荒らしまわっているんやから、
ここにいないはずはないよな。



でも、さすがに泉南に「サル」まではいなかったな。

では、サルに間違われないように
さらにウッキーと言いながら登って行こう。

最初に出会ったのが、
この陶板のモニュメント。



秀吉の「中国大返し」のことが、
絵と共に描かれてある。
さすがに「天王山」である。

昨年、大河ドラマ「黒田官兵衛」
(略したら、おお「クロカン」だあ)
を見ていたので、
この辺のことはよくわかる。

どひゃー、こ、こんなところにも
歩道の柱が・・・



本物でした。

山道を、よく整備された道しるべをたよりに



どんどん登って行ったら、
広場のところに鳥居が見えてくる。



そこが「山崎合戦の地」だ。



しかし、世に言う天王山の戦いは、
何も山の中で争ったわけではない。
せっかく天王山に来たのだから、
ちょっとおさらいしてみよう。

この山の麓は淀川と言う大きな河川と
天王山に挟まれた狭い地域である。

そこは先に書いたように「西国街道」が通り、
京都へと通じる地域でもある。

そこを攻め入ってくる秀吉の軍勢が
いかに大軍であっても
一度に通れる数はわずかだから
そこを順に叩いていこうという思惑が
光秀にあった。

だからその街道筋に
横から攻めていける天王山をおさえることが、
勝敗の分かれ目だと、
当然両軍が考えたわけである。

その天王山をおさえようと、
光秀も秀吉も山へ入って行った。

勝負の分かれ目は、
光秀軍は松明を掲げ、
秀吉軍は地元の武士を味方につけて
土地鑑を生かして暗闇の中を
静かに登って行ったことだったそうだ。

秀吉軍は、ただその松明に向かって
鉄砲を撃てばよかったのである。

かくして、天王山は秀吉軍が抑え、
この山の麓で繰り広げられた合戦も
前から横から兵を繰り出すことのできた
秀吉軍の勝利に終わった、
とまあ歴史の参考書には書いてある。

そこにあった展望台から眺めてみると、



確かに狭隘な麓の地域に、
現在は新幹線をはじめ
複数の鉄道と幹線道路が
所狭しと通っているのが見える。



あまりに狭すぎて、
この山の下には高速道路のトンネルまで
掘られてあるくらいだ。
ちょうど今立ってる足元の地下あたりに
天王山トンネルが通っているはずだ。

かつての交通の要衝ぶりは
今も変わらないことがよくわかる。

蛇行しながら流れる淀川は
doironの次のターゲットである。

琵琶湖から大阪湾まで
淀川沿いに歩く「淀川完歩」を現在計画中だ。

広々とした川沿いを歩きながら、
そのときにこの天王山を見上げるのが楽しみである。

さて、その天王山の登山道、
まだまだ色々見ながら歩いてみよう。

キョロキョロと続く。


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