ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

高野を目指して 堺中心部前編

2014年03月16日 22時17分57秒 | ウォーキング

その昔、環濠の中の街は常に平和で、
諸人は互いに仲睦まじく暮らし、
他人に害を加えるという者はない
といわれた堺の街。

環濠には橋が架かり門があって、
中と外を厳格に区別していたそうだ。

思えばこの栄橋も



名前からして多くの往来があった場所なんだろう。

さあ、ここから高野に向かうぞと、
踏み出した一歩には、
様々な思いと覚悟と勇気が込められていたんやろね。

doironも思いをこめて一歩を踏み出した。

碁盤の目になっている街の中を
堺らしい刃物屋さんなどを眺めながら



てくてく歩いていくと大道筋に出る。



チンチン電車の走る堺の南北の主要道路やね。

ここでいきなり街道をそれて
少し南に行くと、
最近は交通標語にも使われている

「君死にたまふことなかれ」

と題した反戦歌を作った
与謝野晶子の生家の跡がある。





堺市内にはこの晶子ゆかりの地がたくさんあり、
歌碑も市内に20か所以上あるとか。

これは大道筋にある彼女のうまれた街
「甲斐町」の石碑。



そこからさらに南下すると、
このブログでもたびたび登場する
「御旅所」を意味する「宿院」という場所に出る。



この交差点を少し西に行った
ビルとビルの間にひっそりとあったのが

「千利休屋敷跡」





建物は全くないが、
隅っこに井戸が残っており
「椿の井」といわれている。

利休が産湯に使った井戸だそうである。

doironが行った時も何人かが訪れていた。
時の権力と絡み合い
我が道を行った利休には
今もファンが多いという。

写真を撮って宿院の交差点に戻ると、
フェニックス通りとの角の植え込み部分に
大きな燈籠が2基置かれているのが見えた。



ま、今で言う広告看板やね。

それを眺めながら元来た道を戻っていった。

堺のこの中心部には、
2本の西高野街道がある。

ひとつはこの日歩き始めた栄橋から続く道と、
それともうひとつは一本北側にあって
大小路交差点を起点とするルートだ。



赤丸が大小路交差点で
青丸が栄橋

で、ここがその大小路交差点。



南東の角には紀州街道の石標が建てられている。
これ。



そして北東の角には、こんな石碑も。



その昔安倍晴明がこの辻で占いをし、
たいそう当たると評判だったらしい。
そんな占いを埋めたのが
このあたりということで
「晴明辻(せいめいつじ)」とも
「占辻(うらのつじ)」とも呼ばれている。

当時、占いというのは宗教的な色合いが濃く、
人智を超えた占いをしたためた占書を埋めるという行為は、
経典を埋葬する経塚とよく似た意味合いがあったのだろう。

そういえば阿倍野にある晴明神社の近くには
経塚がいくつかあったということが思い出される。

その辻から西高野街道を東に少し行くと、
山之口商店街の入り口近くに



道標が建っている。



刻まれているのは「右 大鳥 父鬼 伯太 牛瀧」。

今の鳳大社を経て、
堺市鳳南から始まる昔鬼が住んでいたという
父鬼へ向かう父鬼街道と
熊野街道から和泉市の信太の森近くの伯太を経て
岸和田市小松里から
牛瀧へ向かう牛滝街道へと
続く道であることを示している。

また正面といわれる側には



「左 福田 長野 富田林 高野」と刻まれ、
高野へ向かう道であることを示している道標だ。

「福田」の地名は和泉にもあるが
ジダンのガラケー検索によると
堺市中区にも福田の地名のあることが判明。
多分そちらでしょう。

そしてこの石碑が
明治35年に建てられていることが
他の面からわかる。



明治35年。その頃はすでに南海高野線が
大小路から狭山まで開通していた(4年前)が、
依然として街道を歩いて
高野を目指す人の多かったことが伺える。

その道標を右折して、
山之口商店街に入っていき、





もう一本の西高野街道に出たところにあるのが

「開口(あぐち)神社」



地域の氏子の人達からは
「大寺さん」といわれて
親しまれているそうだ。

西高野街道に面した明神鳥居から
境内に入っていくと、
ここに合祀されている多くの小社が目についた。

境内には22もの神社が合祀されている。



熊野街道を歩いている時に数多く見てきた
熊野神社が合祀されているのは
下の写真の向って右側の社。



この神社の境内には他にも多くの石碑も
立てられているとのことなので、
境内をうろうろと15分ほど探索をした。
後編に続く


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