ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

とうとう、踏破 4

2013年11月15日 21時30分56秒 | ウォーキング

資料では、虎橋を過ぎると、
近くの池から流れ出てすぐに津田川に合流する浅宇川
(麻生川とも書きます)に架かる橋にさしかかります。
街道はそこから一本山手の道を行くことになっているので、
無理やり左折して田んぼ道を歩きました。

おっと、その前に、
この区間で最初にある「王子」である

浅宇川王子

に触れておきましょう。
この王子は明治の時代に
阿理莫神社に合祀され、
王子跡が民有地に払い下げになっているそうです。
その王子跡と思われるのが、
写真に写っている三和製作所だといわれています。



この区間はプロローグにも書いたように、
旧街道の多くが現生活に浸食されつつあります。
王子跡でさえ、すべてはっきりしておらず、
民有地、すなわち人々の生活の中に
埋もれてしまっているのが現状です。

熊野街道を歩いていて、
王子跡がよくわからないというのは、
駅伝の中継地点がよくわからないのと似て、
駅伝全体つまり街道全体の姿が
ぼやけてしまうような気がします。

このあたりは旧街道もよくわからないけど、
なんだか少し意地になって、
ここでは無理やり資料にある道を歩いてみたら、
耕作地の畑の畝の間や、
荒れたあぜ道を歩くことになってしまいました。



気をつけないとズボンが引っ付き虫だらけになってしまいます。

地道をヒョコヒョコ歩き続け、
前回書いた道ノ池と同じ音読みの
堂の池の手前でようやく舗装路に出てきました。

畑地を歩くのは耕作者の人に気を遣いますからやれやれです。

唐間池の北側に、
半田の公民館とだんじり小屋がありました。



そしてその一角に小さなお社が・・。



入り口の鎖をよいしょと乗り越え、
近くまで行って見ると

「菅原神社」

の扁額が掲げられていました。

歩きはじめのも上松にもあったように、
泉州地方には菅原神社がたくさんあります。

以前、「困った、困った、こま犬シリーズ」で書きましたが、
忠岡町では、かつてあったすべての神社が、
菅原神社に合祀されているほどです。

菅原神社と言えば「天神さん」です。
水に困った泉州地方の人々は、天神さん、
つまり天の神様を仰いで
雨乞いをすることが多かったことが伺えます。

そんな唐間池の西側に沿って歩いていると、
雨が降ってきました。
天神さんにお参りしたからでしょうか。

もうすぐ、今回の区間のハイライト

半田一里塚

があるはずなので、
すぐにやむだろうと我慢して歩いていると
いよいよ本降りとなってきたので、
空きガレージの中で雨宿りをさせてもらいました。

持参のポットに入ったホットコーヒーを飲みながら、
天気予報では降水確率20%のはずだったのになあ
とぼやいていたら、どうやら通り雨だったようで
ほどなくやんできました。

天神さんも気まぐれです。

時刻は正午過ぎ。
はやく一里塚を訪ねてから
昼ごはんにしようと、出発しようとすると、
なんと目の前が「半田一里塚」でした。

これ。



数ある一里塚の中でも、
原形をとどめているのはここだけだ
ということで大阪府の史跡に指定されています。

この区間で初めてこんな立派な
「小栗街道」の文字が刻まれている石標を見ました。



いまは「半田一里塚」と言われていますが、
正確には「麻生中一里塚」というそうです。



一里塚というからには距離の目安になったところです。
石標にもあの「大阪高麗橋元標」の文字が刻まれていました。



熊野街道には、他にも10の一里塚が確認されています。

天王寺、塩穴、長承寺、伯太、大町、
貝田橋、一里山、市場、垣原、境橋です。

このブログで登場した懐かしい名前も
たくさん含まれてますね。

距離の目安というからには、
これらの一里塚の間隔に
なにか法則があるように思われますが、
残念ながら正確に一里ごとに置かれたものではなく、
また熊野街道の「一里」がどれくらいの距離なのかも
定かではないんだそうです。
なので、言えるのはこの一里塚が、
旅の人々の馬タクシーの発着場であったり、
ちょっとした茶店のあった、
旅のエイドステーションであったことには間違いないそうです。

で、ここで時刻は12時15分。
こちらも現代のエイドステーションの食堂を求めて、
雨が止んでしっとりした空気の中を出発です。

次回に続きます。


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