ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

いつも優しく行基よく 4

2016年05月16日 20時25分05秒 | ウォーキング

この小学校の窓にはこんな張り紙が・・・



「進んでハゲる明るいおでこ」。

いやあ、なんとなく親しみの持てる
小学校ですねえ。
え?ちゃいますか。
失礼しました。

道に咲いている「ユウゲショウ」や



八田寺町のだんじり小屋なんかを



眺めながら歩いていきますと、
前方にお寺が見えてきました。

「華林(けいりん)寺」です。



行基十三歳の時に、
母親側の蜂田連が氏寺として
創建したので
「蜂田寺」と呼ばれていました。



それを行基三十九歳の時に
母親供養のために

「華林寺」

として再興したものです。

この神社には行基十三歳の時の
有髪絵画があるそうです。

毎年一遍開帳して
お勤めが行われるそうです。

へえ~、それなら肩まで毛の生えた
doironの登山時代の写真もありますので、
いつか開示してあげましょうかねえ。

この「華林寺」は行基の
母かたのゆかり寺ですので、
別名「家原寺の奥の院」
とも言われているそうです。

そこからしばらくは住宅街、
というか町の中を歩いていきます。



ちょっと高台になっていたんですね。
ここから先は道は大きく下っていきます。



そして下りきる途中に、
もう一人の人の遺構を訪ねておきましょう。

途中道の端にこんな石が立っていました。



「泉式部」と書かれてあります。

た、たぶんこれは
「和泉式部」のことでしょう。



この近くに彼女の住んでいた
「和泉式部宮」があるので
尋ねてみようと探ってみました。

しかし、案内書通りに
狭い道を歩いていきましたが、
どうも場所がよくわかりません。

あれ~と思って不審がられないように
きょろきょろしながら、
ようやくこんな建築工事の横の
せまい道の奥に



何かありそうだったので入ってみますと、
おお、まちがいなくここでした。



長年のうろうろ癖で
きづいた直感は
間違っておりませんでしたなあ。



いやあ、それにしてもこんな
不審な挙動を取らせるとは
さすがに恋多き人
「和泉式部」ですな。

変な目で見る人が見たら、
もう全く挙動不審な
おっさんに見えたかもしれませんね。

彼女のことは二年ほど前に
いくつか勉強をしました。

以前、熊野古道を歩いているときに
久米田のあたりで
「彼女の恋の淵」とかを
訪ねて歩いたもんね。

その時、彼女のことを
しっかり書きましたねえ。

あの久米田のあたりのことは、
どうも熊野比丘尼の語りが
「和泉式部伝説」を作っていったのでしょう
ということでしたね。

そしてあの紫式部が
「恋文や和歌は素晴らしいが、
素行には感心できない」
と言った彼女です。

和泉式部はそんな語り部にとって
「恋多き女」「はしため女」として、
絶好の素材だったのでしょう。

日本各地で彼女のことが
語られていますので、
いろんな場所で
彼女の伝説跡が残っていますし、
彼女が残した多くの歌から、
彼女の日記や歌集が
数多く残っているように、
彼女はある意味当時の
ヒロインだったのかもしれませんね。

でもねえ、当時の女性の恋は
こんな感じだったんじゃないでしょうか。

一夫多妻制度のような状況が続く中で、
女性の恋は生活とも
強く関連していたんでしょうね。

ただ彼女の場合、
その相手が皇室だったりしたので、
マスコミのない世の中でも
庶民に厚く語り継がれたんでしょう。

何が本当で、何が飾りなのか
よくわからない状態で
彼女の姿は偶像化していったのでしょう。

この堺のちょっと小高い
こんな土地も彼女の
「旧居跡」となっていますが、



その真実のほどは
よくわからないのじゃ
ないでしょうか。

行基が数多くの庶民救済の
事業を成し遂げ、
人々の暮らしを変えて行った
時代から見れば、
和泉式部の時代は
300年も先のことでした。

ふむふむと続きます。


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