さて、人生、出会いあり別れありと
いろいろあります。
人生無常です。
doironも無常です。
相変わらず歩き続けます。
平野に続いて、伊丹を歩いてきた。
平野は周囲を濠と土塁で囲んだ自治都市で、
平野郷と呼ばれていたが、
伊丹の中心部は、
戦国時代に惣構えの有岡城と
その城下町を同じく濠と土塁で囲んだ
伊丹郷を形成していたという関連があったので、
見に行くことにしたのだ。
伊丹といえば、大阪国際空港がまず思い浮かぶ。
かつての大空港のあった街で、
航空法による制限のために
高いビルはないけど、
人がいっぱい住んでいる住宅地
というイメージだった。
だけど、行ってみると驚くほど緑が多く、
歩行に適した静かな道が
延々と続いている町だったので
イメージが大きく変わった歩行となった。
そんな「伊丹に行ってみ」のお話の
ハジマリハジマリです。
阪神高速をビューンと車で走って、
JR福知山線の伊丹の駅前の
市営駐車場に車を入れたのは午前10時30分。
ナビをセットしてそっさく歩き始めた。
これが伊丹駅で、
そのすぐ駅前にあるのが「有岡城跡」。
平成5年に史跡公園として整備され
現在に至っている。
ではその城跡を早速見にこう。
駅前とあって、バリアフリーに配慮がなされた
こんな屋外エレベーターを登っていくと、
駅のメイン玄関の前に
ちょっとした広場が設けられている。
ここに有岡城の説明があった。
フムフムフム。
もともとここには伊丹城があったんやね。
そこへ荒木宗重がやってきたと・・・
んで「有岡城」に改名した、
といったことが書かれてあった。
「惣構え」についても簡単に書かれてあり、
荒木が敗走し、城はなくなっても
町屋が残ったそうだ。
この濠で囲まれた“伊丹郷”は
江戸後期には酒造業の繁栄と共に
発展していったことが書かれてあった。
その広場の片隅に、
「藤」が植えられてある。
そう、あの官兵衛がこの有岡城に幽閉されている時に、
獄窓からみた藤の花の見事さから
後に自分の家紋を「藤」にしたという話がある。
諸説あって、何が本当なのかよくわからないけど、
官兵衛と藤は切り離せないということで、
大河ドラマ開始直前に
伊丹市がここに官兵衛ゆかりの
姫路城の藤の子孫樹を植えたものだそうだ。
その藤を眺めてから、
北側にあるもう一つの史跡跡に向かった。
ここには、城の建物の礎石や
井戸の跡なんかも残されていた。
このあたり酒造りが盛んだったことからも、
猪名川の水だけでなく
湧水も豊富だったんやろな。
その史跡の周りには土塁の跡、
石垣も残されており、
その石垣には蓮の花などが刻まれた
仏像の台座のようなものも使われていた。
この石のことについて書かれた案内が
どこにもなかったのが不思議でござるな。
この有岡城の主である村重は、
戦国の優秀な軍師官兵衛を幽閉しただけでなく、
信長方に追い詰められて
家族を残してひとり逃走した
という汚名を着せられることが多い。
これを見かねた市民が、
村重をかばいだてすべく少し前から立ち上がり、
様々な資料を探し出しては
「実はそうじゃないんだよ」
と村重擁護の活動をしているようだ。
この日も有岡城跡の現場には
一人の女性が詰めておられて、
「これを是非読んでほしい」と言って、
数枚のコピーを配っていた。
それには村重を擁護する考えが
したためられるとともに、
それを証明する資料が見つかったことを告げる
新聞記事の写しまで添えられてあるではないか。
郷土愛というのかな、
それは大切なことだけど、
ちょっと見ていてひいてしまったな。
そんな伊丹郷の核心地をあとにして、
それではここから、
郷の侍町、町屋を抜けて
濠や土塁の跡の残る北の砦方向へと
向かって行こう。
わっせわっせと続く。
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