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流布本も読んでみる。(その34)─「相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」

2023-05-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p105)

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 留まる家子には佐野与一、郎等には乳母子〔めのとご〕の小河太郎・同五郎・阿曽太郎・同次郎・山崎三郎・那波藤八、是等也。其中に十四騎進で申けるは、「未〔いまだ〕案内も知らせ不給。我等も存知せず候。されば先様に罷〔まかり〕向候て、事の体〔てい〕をも窺ひ見、河の有様をも存仕候はん。又大雨にて候へば、御宿をも取儲〔まうけ〕候はん」とて進行。是は、海道尾張河より始て所々の戦に、我等も若党も、甲斐々々敷〔かひがひしき〕軍〔いくさ〕せぬ事を口惜思て、「今日相構て合戦をせよ」とて、内々心を合せ、指遣〔さしつかは〕しけり。
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「駿河次郎」泰村とともに「栗籠山」に留まった家子・郎等のうち、十四騎が進み出て偵察を申し出ますが、これは尾張河合戦以降、活躍する機会のないことを不満に思って、「(未だに戦闘開始の指示はないけれども)今日こそ合戦しよう」と泰村と示し合わせていた連中です。

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 其後、駿河次郎、雨に余り濡れたりければ、馬より下り、物具脱かへ、腹帯しめ直しなど仕〔し〕ける所に、徒歩人〔かちびと〕少々走帰て、「御前に進まれ候つる殿原、はや橋の際へ馳より、御手者名乗て矢合し、軍始て候。某々手負て候」と申ければ、小河太郎、「足利殿に此由を申ばや」と申。駿河次郎、「暫し申な」とて、物具の緒を縮、馬にひたと乗、轡取て行時、「はや申せ」と云捨て、急ぎ駿河次郎、宇治橋近押寄て見ければ、げに軍は真盛りなり。馬より下、橋爪に立て、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」と名乗て、甲〔かぶと〕をば脱で投のけ、差攻引攻〔さしつめひきつめ〕射けり。乳母子の小河太郎、甲を取〔とつて〕衣〔きせ〕ければ、脱では捨て/\、二度迄ぞ仕たりける。是は矢強射ん為也。小河太郎、主と同矢束なりけるが、始は「大将強〔あなが〕ち手下し、軍する様不候」と諫〔いさめ〕けるが、泰村に被射て、敵さはぎをのゝくを見て、「左〔さ〕候はゞ経景は射候はで、矢種〔やだね〕つくさで射させ進〔まゐ〕らせん」とて、双〔ならん〕でぞ立たりける。向ひの岸へは普通の矢長〔やたけ〕とゞくべし共見ヘぬ所に、宗徒の人歟〔か〕と覚しきを、能引〔よつぴい〕てぞ射たりける。駿河次郎支〔ささ〕へて射矢、二つ三つ射被懸、幕の中騒あヘり。急幕を取て、向の堂の前へぞ除〔のき〕にける、後に聞へしは、甲斐宰相中将也。向の岸に奈良法師・熊野法師、数千騎向たる、其中に不動・金伽羅〔こんがら〕・勢多伽〔せいたか〕の二童子を笠符〔じるし〕に著〔つけ〕たる旗共、打立て有けるが、河風に被吹て靡けるは、実〔まこと〕に恐敷〔おそろしく〕ぞ見へたりける。武蔵前司義氏、馳来り相加てぞ戦ける。駿河次郎手者共、散散〔さんざん〕に戦ひ、少々は手負てぞ引き退く。日も暮行ば、武蔵前司、平等院に陣をとる。駿河次郎も同陣をぞ取たりける。
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「駿河次郎」泰村が、あまりに雨に濡れたので馬から降りて鎧を脱ぎ、腹帯を締め直していたりするところに、徒歩の従者が走って戻って来て、「先に進んだ殿原が、既に橋の際で名乗りを上げて矢合せを行い、戦闘が始まっています。誰々が負傷しています」と報告します。
泰村の乳母子の小河太郎(経景)が、「足利殿に連絡しましょう」と言うと、泰村は「暫く待て」と言い、支度をして馬に乗って出発する間際、「早く連絡しろ」と言い捨てます。
泰村が宇治橋に急いで向かうと、既に戦闘が真っ盛りとなっています。
泰村は馬から降りて、橋詰に立ち、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」と名乗った後、強く射るために邪魔な兜を投げ捨て、矢を射まくります。
小河太郎(経景)は泰村の脱いだ兜を拾って泰村に付させることを二度繰り返し、「大将が自ら戦闘の前面に出るのは望ましくありません」と諫めますが、泰村に射られて敵が動揺しているのを見て、「これならば自分は射ずに矢を温存し、大将に好きなだけ射させよう」と思って泰村と並んで立っていると、向こう岸では、普通の矢ではとても届くまいと思われる場所に、重要人物がいそうな幕があり、泰村が弓をしっかり引いて射ると、二つ三つが当たって幕の中は大騒ぎとなり、急いで幕を撤収して近くの堂の前に移動します。
後から聞くと、それは「甲斐宰相中将」藤原範茂だったのだそうです。
向こう岸には奈良法師・熊野法師が数千騎いて、その中に不動明王と金伽羅・勢多伽の二童子を笠符とした旗が川風に靡く様は本当に恐ろしく見えます。
そうこうしているうちに「武蔵前司」足利義氏勢も到着し、一緒に戦い、負傷して退く者も若干出ます。
日が暮れたので、足利義氏は平等院に陣を取り、三浦泰村も同じく平等院に陣を取ります。
ということで、三浦義村が「若党共、余はやりて過〔あや〕まちすな」と警告した通りの事態となります。
さて、続きです。(p106以下)

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 甲斐国住人室伏六郎を使者として、武蔵守へ被申けるは、「駿河次郎が手者共、早〔はや〕軍を始て、少々手負候。義氏が若党共、数多〔あまた〕手負候。日暮候間、平等院に陣を取候。京方、向の岸に少々舟を浮て候。橋を渡て一定今夜夜討ちにせられぬと覚候。小勢に候へば、御勢を被添候へ」と被申ける。武蔵守、「こは如何に、明日の朝と方々軍の相図を定けるに、定て人々油断すべき、若〔もし〕夜討にせられては口惜かるべし。急ぎ者共向へ」と宣〔のたまひ〕ければ、平三郎兵衛尉盛綱奉〔うけたまはつ〕て馳参り、相触けれ共、「武蔵守殿打立せ給時こそ」とて、進者こそ無〔なかり〕けれ。去共〔されども〕、佐佐木三郎左衛門尉信綱計〔ばかり〕ぞ、可罷向由申たりける。六月中旬の事なれば、極熱の最中也。大雨の降事、只車軸の如し。鎧・甲に滝を落し、馬も立こらヘず、万人目を被見挙ねば、「我等賎き民として、忝〔かたじけなく〕も十善帝王に向進らせ、弓を引、矢を放んとすればこそ、兼て冥加も尽ぬれ」とて、進者こそ無けれ。去共、武蔵守計ぞ少も臆せず、「さらば打立、者共」とて、軈〔やが〕て甲の緒しめ打立給けり。大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし。
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検討は次の投稿で行います。

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