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流布本も読んでみる。(その35)─「向んとすれば先も不見。帰んとすれば敵に後ろを見せん事口惜かるべし」

2023-05-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

(足利義氏が)甲斐国住人室伏六郎を使者として「武蔵守」北条泰時に以下のように報告した。
「三浦泰村の配下が早まって攻撃を仕掛け、負傷者が少々出ました。私の若手の郎等も多数負傷しています。日暮となったので、平等院に陣を取りました。京方は対岸に舟を少し浮かべています。定めて京方は今夜、橋を渡って夜討ちをかけてくると思われます。こちらは小勢なので、援軍をお願いします」
泰時が「何ということだ。明日の朝に攻撃すると定めていたので、味方の人々は油断しているだろう。夜討ちされては大変だ。急ぎ応援に向え」とおっしゃったので、平盛綱がこの旨を承って味方に触れ回ったが、「泰時殿が出発されるときに自分も出発しよう」と考える者ばかりで、誰も出発しなかった。
しかし、佐々木信綱だけが出発すると申した。
六月中旬のことなので、極熱の最中であり、大雨の降ることは車軸のようであった。
鎧・甲には雨が滝のように流れ、馬も立ち続けることが出来ず、誰も上を見上げることができないほどの状態だったので、「我等のような賎しい民が、かたじけなくも十善帝王に叛逆し、弓を引き、矢を射ようとしたからこそ、冥加も尽きたようだ」などと思って、進む者もなかった。
ところが泰時殿だけは少しも臆せず、「では出発だ、もの共」と言って、直ちに甲の緒を締めて出発なさった。
大将軍がこのように進まれたので、残り留まる人はなかった。

ということで、「我等賎き民として、忝も十善帝王に向進らせ」以下は流布本に多い泰時讃美エピソードの一つですね。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p107以下)

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 又、夜中に宇治橋近押寄て見れば、駿河次郎、昨日の軍に薄手〔うすで〕負たる若党共、矢合始めて戦けり。武蔵前司手者共、同押寄雖戦〔たたかふといへども〕、暫し支〔ささへ〕て引退。二番に相馬五郎兵衛・土肥次郎左衛門尉・苗田兵衛・平兵衛・内田四郎・吉河小次郎、押寄て散々に戦ふ、少々手負て引退。三番に新開兵衛・町野次郎・長沼小四郎、各〔おのおの〕、「其国住人、某々」と名乗て、橋桁を渡り掻楯〔かいだて〕の際迄〔きはまで〕責寄たりけるを、敵数多〔あまた〕寄合て、三人三所にてぞ被討ける。四番に梶小次郎・岩崎七郎、押寄て散々に戦て引退。五番に波多野五郎信政、引たる橋の際迄押寄たり。是は、去六日、杭瀬川の合戦に、尻もなき矢にて額を被射たり。左有〔さあ〕ればとて、只有べきに非ざれば、進出名乗る。「相模国住人、波多野五郎信政」とて、橋桁を渡し、向より敵の射矢、雨の如なるに、向の岸を見んと振仰のきたる右の眼を、健〔した〕たかに被射て、河へ已に落とす。橋桁に取付て、心地を静めて、向んとすれば先も不見。帰んとすれば敵に後ろを見せん事口惜かるべしと思ければ、後ろ様にぞしざりける。橋の上へしざり上り、取て返ける所に、郎等則久、つとより、肩に引懸返りける。河端の芝の上に伏て、二人左右より寄て、膝を以押て矢を抜てけり。(眼より)血の出事、鎧に紅を流て、誠に侈敷〔おびたたしく〕ぞ見へける。
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泰時に率いられた援軍が宇治橋近くに行くと、「駿河次郎」三浦泰村の若党が、前日の戦闘で軽傷を負っていたにもかかわらず矢合せを始めて戦っており、「武蔵前司」足利義氏の郎等も押し寄せて戦いますが、暫くすると退きます。
この三浦泰村・足利義氏勢を一番として、

二番:相馬五郎兵衛・土肥次郎左衛門尉・苗田兵衛・平兵衛・内田四郎・吉河小次郎
三番:新開兵衛・町野次郎・長沼小四郎
四番:梶小次郎・岩崎七郎
五番:波多野五郎信政

が敵陣に攻め寄せますが、突破は困難です。
特に五番の波多野五郎信政は、既に六日の山田重忠との杭瀬川合戦で、

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【前略】波多野五郎、尻もなき矢にて、其も真向の余を射させて引退く。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b058f79b72d6688c7f2f801e6a5b9e9

と負傷したことが記されていましたが(p91)、ここで再び「去六日、杭瀬川の合戦に、尻もなき矢にて額を被射たり」と記した上で、今度は右の眼を射られてしまう様子が描かれます。
即ち、波多野五郎は橋桁を渡って、雨のように降って来る敵の矢の中、対岸を見ようと顔を上げたところ、右の眼を射られて河に落ちそうになりますが、何とか橋桁につかまります。
敵に向おうとしても前が見えず、帰ろうとすれば敵に後ろを見せるのが口惜しいので、後ろ向きに後ずさり、橋板のあるところまで戻った時に郎等の「則久」がさっと寄り、波多野五郎を肩に引っかけて退却します。
そして波多野五郎を河端の芝の上に置いて、膝で体を押さえて矢を抜きます。
眼から出た血は鎧を紅に染めて、本当に夥しい量であった。

とのことですが、波多野五郎が右眼を射られた話は『吾妻鏡』六月六日条にも登場します。
ただ、『吾妻鏡』では、

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【前略】武蔵太郎到于筵田。官軍卅許輩相搆合戦。負楯。精兵射東士及数返。武蔵太郎令善右衛門太郎中山次郎等射返之。波多野五郎義重進先登之処。矢石中右目。心神雖違乱。則射答矢云云。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「武蔵太郎」北条時氏が「摩免戸」(大豆渡)を渡河して筵田に至ったとき、「官軍」三十騎ほどと合戦になり、先陣を進んでいた「波多野五郎義重」が右眼を射られ、意識がもうろうとなったものの、応戦の矢を射た、という話になっており、日付も場所も流布本とは異なります。
果たして杭瀬川と宇治橋で二度負傷し、宇治橋で右眼を射られたとする流布本と、筵田(現、本巣市糸貫町)で右眼を射られたとする『吾妻鏡』のどちらが正しいのか。
「波多野五郎」の名前は流布本の「信政」ではなく『吾妻鏡』の「義重」が正しく、また、恩賞に関係する記事なので、ここはやはり『吾妻鏡』が正しそうな感じがします。

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