「人ガマシク」の「人」は人間一般なのか、という問題は、深掘りしようとすればけっこう大変な問題になりそうですね。
中世前期の武家社会において、「人」とはいかなる概念だったのか。
宗教的な文脈では、あるいは「人」が「人間」一般を指すような事例もあるのかもしれませんが、普通は自分と同じ「身分」に限定されるのではないですかね。
三浦胤義の場合であれば、胤義にとって「人」とは「武士」一般よりも更に限定され、それなりの家柄で、自分と武士としての倫理観を共有できるような上層武士に限定されるのではないか。
とりあえず「人がまし」の用例から始めて、「人」に関する用例を網羅的に検証すれば何か結論が出てきそうですが、私の能力では手に負えそうにありません。
中世前期の武家社会に限定せず、近代以前の身分制社会において「人」とはいかなる概念だったのか、とまで問題を広げると更に難しい問題になりそうですが、あるいは何か先行研究があるのでしょうか。
ご存知の方は御教示いただけると有難いです。
ま、それはともかく、前回投稿で引用した部分で、うっかり見過ごしてしまった箇所がありました。
それは冒頭の「勢多で時房軍に敗れた胤義は後鳥羽上皇のもとに参り」です。
『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)にも「勢多の合戦で時房軍に敗れた官軍の三浦胤義以下は陣を捨てて再び帰洛した」とありますが(p104)、いったい典拠は何なのか。
慈光寺本にはそもそも宇治川合戦が存在しないので、胤義が勢多で時房と戦ったとの記事もありません。
『吾妻鏡』六月十二日条には、
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重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者観厳。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎。鵜飼瀬。長瀬判官代。河内判官。一千余騎。宇治。二位兵衛督。甲斐宰相中将。右衛門権佐。伊勢前司〔清定〕。山城守。佐々木判官。小松法印。二万余騎。真木嶋。足立源三左衛門尉。芋洗。一条宰相中将。二位法印。淀渡。坊門大納言等也。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
中世前期の武家社会において、「人」とはいかなる概念だったのか。
宗教的な文脈では、あるいは「人」が「人間」一般を指すような事例もあるのかもしれませんが、普通は自分と同じ「身分」に限定されるのではないですかね。
三浦胤義の場合であれば、胤義にとって「人」とは「武士」一般よりも更に限定され、それなりの家柄で、自分と武士としての倫理観を共有できるような上層武士に限定されるのではないか。
とりあえず「人がまし」の用例から始めて、「人」に関する用例を網羅的に検証すれば何か結論が出てきそうですが、私の能力では手に負えそうにありません。
中世前期の武家社会に限定せず、近代以前の身分制社会において「人」とはいかなる概念だったのか、とまで問題を広げると更に難しい問題になりそうですが、あるいは何か先行研究があるのでしょうか。
ご存知の方は御教示いただけると有難いです。
ま、それはともかく、前回投稿で引用した部分で、うっかり見過ごしてしまった箇所がありました。
それは冒頭の「勢多で時房軍に敗れた胤義は後鳥羽上皇のもとに参り」です。
『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)にも「勢多の合戦で時房軍に敗れた官軍の三浦胤義以下は陣を捨てて再び帰洛した」とありますが(p104)、いったい典拠は何なのか。
慈光寺本にはそもそも宇治川合戦が存在しないので、胤義が勢多で時房と戦ったとの記事もありません。
『吾妻鏡』六月十二日条には、
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重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者観厳。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎。鵜飼瀬。長瀬判官代。河内判官。一千余騎。宇治。二位兵衛督。甲斐宰相中将。右衛門権佐。伊勢前司〔清定〕。山城守。佐々木判官。小松法印。二万余騎。真木嶋。足立源三左衛門尉。芋洗。一条宰相中将。二位法印。淀渡。坊門大納言等也。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあって、「平判官」三浦胤義は勢多ではなく、「前民部少輔入道」(大江親広)・「能登守」(藤原秀康)・「下総前司」(小野盛綱)とともに「食渡」に配されています。
また、流布本には、
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月卿・雲客、「去にても打手を可被向」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣。山田二郎重忠・山法師播磨竪者・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬へ向ふ。佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊、武士には山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)、熊野法師には、田部法印・十万法橋・万劫禅師、奈良法師には土護覚心・円音、是等を始として一万余騎、宇治橋へ相向ふ。長瀬判官代・足立源左衛門尉、五百余騎にて牧嶋へ向ふ。一条宰相中将信能・二位法印尊長、一千余騎にて芋洗へ向ふ。坊門大納言忠信、一千余騎にて淀へ向ふ。河野四郎入道通信・子息太郎、五百余騎にて広瀬へとてぞ向ひける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
とあって、「平九郎判官胤義」は「能登守秀安」・「少輔入道近広」等とともに「供御瀬」に配されています。
『吾妻鏡』と流布本に描かれた京方の軍勢配置については、リンク先の投稿で整理しておきましたが、おそらく高橋氏は胤義と山田重忠を混同されているのだろうと思います。
流布本も読んでみる。(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
ところで両者を比較すると、『吾妻鏡』では藤原秀康・三浦胤義らの主力が配された「食渡」の軍勢が僅かに「二千余騎」なのに対し、流布本では藤原秀康・三浦胤義らの主力が配された「供御瀬」の軍勢は「一万余騎」で、五倍の差があります。
また、『吾妻鏡』では宇治が「二万余騎」なので「食渡」の実に十番ですが、流布本では宇治は「一万余騎」で「供御瀬」と同数です。
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その24)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20d970386c2d86bde126d7db14509668
『吾妻鏡』の「食渡」と流布本の「供御瀬」が同じ場所であることは間違いなく、普通は大津市田上黒津町のあたりとされていますが、何故に同じ場所に配置された京方主力の人数にこれほどの差があるのか。
この点、解明の手掛かりとなるのは長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)の「第四章 承久鎌倉方武士と『吾妻鏡』─『吾妻鏡』承久三年六月十八日条所引交名の研究─」という論文で、長村氏は『吾妻鏡』と流布本で佐々木高重の配置が異なることに着目されます。
そして、『吾妻鏡』六月十八日条の「六月十四日宇治合戦討敵人々」に佐々木高重の配下が宇治で討たれている旨が記されていることから、
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京方の佐々木高重の出陣先につき、『吾妻鏡』六月十二日条は宇治とし、流布本『承久記』下─九九頁は供御瀬とする。上横手雅敬氏は供御瀬を正しいとするが、特に根拠は示していない。《交名》A②に「長布施四郎<三人……一人、佐々木(高重)判官親者……>」、「藤田兵衛尉<一人手討。佐々木判官手者云々>」、A③に「二藤太三郎<一人。佐々木判官親者>」と見えることから、高重自身も宇治に出陣したと考えるのが妥当であろう。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20d970386c2d86bde126d7db14509668
と判断されます。
しかし、長村氏の手法に倣って六月十八日条を細かく見ると、小野盛綱の縁者や配下、三浦胤義の配下も「六月十四日宇治合戦討敵人々」に登場するので、長村氏の論理に従えば、小野盛綱・三浦胤義も当初から宇治に配されていたことになってしまいます。
この点、私は流布本で「供御瀬」に配された京方主力は「遊軍」で、戦況の変化に応じて移動することが当初から予定されており、鎌倉方が主戦場を宇治に選んだので、「供御瀬」から宇治に移動したのではないかと考えてみました。
広範囲に渡る戦線において、どこを主戦場にするのかは基本的には攻撃側が決めることで、防禦側はそれに対応するしかありません。
承久の乱においても、瀬田橋・供御瀬・宇治橋・真木島・芋洗・淀渡等からどこを主戦場とするかは鎌倉方が決めた訳で、結果的には鎌倉方は宇治橋を選択した訳ですが、それを予め京方が知ることはできません。
京方としては、瀬田橋が主戦場になっても、宇治橋その他が主戦場になっても、その時々の事態に臨機応変に対応するしかありません。
そこで、藤原秀康・三浦胤義は、自らが率いる軍勢を「遊軍」と規定し、鎌倉方の対応を見た上で、主戦場となった場所に機動的に駆けつける防御態勢を取ったのではないか、『吾妻鏡』に記された宇治の「二万余騎」は、当初「食渡」=「供御瀬」に配されていた京方の主力が宇治に移動した後の数字ではなかろうか、というのが私見です。
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その25)(その26)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f226303d064de4ad4db27926da1c7a
なお、大江親広の行動についても流布本と『吾妻鏡』で矛盾があるように見えますが、私は大江親広は宇治に移動することなく「供御瀬」に留まり、北上して瀬田橋から京に向かい、「関寺辺」で「零落」したのではなかろうかと考えています。
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その13)─大江親広は関寺に引き返したのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a41049e71d752b1fb5f6bec17576929a
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その14)─大江親広は「四百騎を率いていた」か。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/27de03b6846de39507b2f5ed7011256f