学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その61)─「武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく」(by 長村祥知氏)

2023-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した文章の中に「鎌倉方の上洛軍発向時には、宿老十五人が鎌倉に留まった(『吾妻鏡』五月二十三日条)」とありますが、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

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二十三日、丙午。右京兆(北条義時)・前大膳大夫入道覚阿(大江広元)・駿河入道行阿(中原季時)・大夫属入道善信(三善康信)・隠岐入道行西(二階堂行村)・壹岐入道(定蓮、葛西清重)・筑後入道(尊念、八田知家)・民部大夫(二階堂)行盛・加藤大夫判官入道覚蓮(景廉)・小山左衛門尉朝政・宇都宮入道蓮生(頼綱)・隠岐左衛門尉入道行阿(二階堂基行)・善隼人入道善清(三善康清)・大井入道(実平)・中条右衛門尉家長以下の宿老は上洛はせず、それぞれ鎌倉に留まり、あるいは祈祷をさせ、あるいは派遣する軍勢を徴発する。
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ということで(p107以下)、数えてみると確かに十五人ですね。
この場面、慈光寺本には対応する記述はありませんが、流布本には、

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 鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等也。親上れば子は留まり、子上れば親留まる。父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076

とあって、大江広元・宇都宮頼綱・葛西清重・三善康清・二階堂行盛・二階堂基行の六人が「鎌倉に留まる人々」として例示されています。
そして、「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」とありますが、これは誰の「謀〔はかりごと〕」かというと、北条義時でしょうね。
流布本では、三浦義村は北条義時の際どい冗談に畏まって、まるで起請文を読み上げるようにして忠誠を誓う存在であり、北条政子の演説も愚痴が多くてそれほど格調は高くありません。

流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf

また、大江広元が全く登場しない慈光寺本ほどではありませんが、流布本でも大江広元の存在感は希薄です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その19)─慈光寺本における大江広元の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/498c4e029aed01aa295300a4c9c7dd7d

そして、

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 明る廿日の早天に、権大夫の許へ、又大名・小名聚りて、軍の僉議評定有けるに、武蔵守被申けるは、「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と被申ければ、権大夫、大に瞋りて、「不思議の男の申様哉。義時は、君の御為に忠耳有て不義なし。人の讒言に依て、朝敵の由を被仰下上は、百千万騎の勢を相具たり共、天命に背奉る程にては、君に勝進らすべきか。只果報に任するにて社あれ。一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」と宣ければ、其上は兎角申に不及、各宿所々々に立帰り、終夜用意して、明る五月廿一日に、由井の浜に有ける藤沢左衛門尉清親が許へ門出して、同廿二日にぞ被立ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266

という具合に、義時は「武蔵守」泰時の消極策に激怒し、大勢の「大名・小名」の面前で泰時を「不思議の男の申様哉」と叱り飛ばすような存在です。
『吾妻鏡』では幕府軍の迅速な発向の決定には大江広元の役割が大きかったことが記されており、私はそれが『吾妻鏡』の虚構だとは思いません。
しかし、承久の乱の勃発の時点で京都側から見れば、広元は幕府を裏切った京都守護・親広の父親ですから、「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀」の対象として、「鎌倉に留まる人々」の筆頭に挙げられても不思議ではないですね。
続く宇都宮頼綱も京都との関係が極めて深く、葛西清重は「推松」が発見された「笠井の谷」に屋敷を構えていた人であり、三善・二階堂も京下りの官人の一族ですから、六人は京都から見て裏切り者となる可能性が高い人物のリストとも言えそうです。
私は、この人名リストは流布本が『吾妻鏡』の影響など全く受けておらず、その成立が相当早かったことを示す証拠の一つではないかと考えています。
ま、それはさておき、長村論文に戻ると、前回引用部分のうち、私は長村氏が「異なる階級は対立するという一般論の不成立が明らかとなった今日」云々と言われている点は、その問題意識がどうにも古臭い感じがして賛成できません。
この点は長村説をもう少し紹介した後で検討することとし、続きです。(p242)

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 東国武士の院命拒否・上洛の理由につき、『吾妻鏡』等の歴史叙述は、北条義時の姉である北条政子の主張した源頼朝以来の御家人との主従関係が院命に優越したとする。もちろん、頼朝の後家・実朝の母としての鎌倉殿の代行者というべき立場にあった政子の呼びかけが、御家人の去就に大きな影響を与えたことは否定できない。
 しかし彼らには、主従関係以上に重要なものがあったと考えられる。『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった。
 東国武士は、鎌倉最有力の北条氏との対立を避け、むしろ彼らに従い上洛することで新たな所領獲得の機会が得られることを重視したのである。それにより、平時に東国・西国での活動を一族内で分担していた御家人の多くは、鎌倉方と京方に分裂することとなった(本書第五章)。
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うーむ。
私には賛成できる点が殆どありませんが、検討は次の投稿で行います。
コメント
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