学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その57)─「今となっては人間らしいとも思います」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p134)

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 勢多で時房軍に敗れた胤義は後鳥羽上皇のもとに参り、御所に籠もって敵を迎え、討ち死にしたいと申し入れたが、上皇はこれを受け入れず、胤義に退去を命じた。胤義は上皇に味方したことを後悔し、最期に兄義村に対面して一言かけた上で、兄の手にかかりたいと、東寺で兄を待ち構えた。兄の旗印をみかけた胤義は、「駿河殿はいらっしゃるか。そこにいらっしゃるならば、私を誰とお思いか。平九郎判官胤義ですよ。鎌倉で過ごすはずを、あなたの冷たい仕打ちに耐えがたくて都に上り、院に誘われて謀反を起こしました。あなたを頼って、この度相談の文を出しました。我ながら残念です。義時の味方をして、和田合戦で親族を見捨てるようなあなたを、今となっては人間らしいとも思います。あなたに一目お会いしたいと思ってやって来ました」と声をかけたが、義村は「馬鹿者とかけ合っても無駄だ」と、その場を去ってしまった。胤義はさらに西に落ち、木島(京都市)で子息重連とともに自害したという(慈光寺本『承久記』)。東寺における合戦を義村と胤義との直接的なありとりとして描くのは慈光寺本のみであり、他の写本は、義村ではなく、その手勢の佐原次郎と胤義のやりとりとして描いている。いずれにしても軍記物の創作であり、実態は不明と言わざるをえない。胤義の首は太秦(京都市)にいた妻のもとに届けられ、義村の許へと送られた。義村は哀れに思えて涙を流しつつも、されにその首を泰時のもとへと送った(『吾妻鏡』、古活字本『承久記』)。
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ずっと『吾妻鏡』一色でしたが、ここで久しぶりに慈光寺本と流布本(古活字本)が紹介されていますね。
さて、そもそも慈光寺本には宇治川合戦が存在しないので、最終的な敗戦報告は山田重忠の杭瀬川合戦の直後に置かれていますが、そこでは、

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 翔・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計ニ、高陽院殿ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早、軍ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請、手際軍仕テ、親リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲テ、我ヲ攻ン事ノ口惜ケレバ、只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」ト心弱仰下サレケレバ、胤義是ヲ承テ、翔・重定等ニ向テ申ケルハ、「口惜マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ。何ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同打具シテ、大宮ヲ下ニ、東寺マデ打、彼寺ニ引籠テ敵ヲ待ニ、新田四郎ゾカケ出タル。翔左衛門打向、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中ニ、西面衆愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

となっていて(岩波新大系、p349以下)、敗戦の報告者は渡辺翔・山田重忠(慈光寺本では「重貞」または「重定」)・三浦胤義の三人です。
流布本では、宇治川合戦の敗北を後鳥羽院に報告するのは「能登守秀康・平九郎判官胤義・山田次郎重忠」の三人であり(『新訂承久記』、p122)、『吾妻鏡』では六月十五日条に、

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寅剋。秀康。胤義等参四辻殿。於宇治勢多両所合戦。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有万々事。更難免一死之由。同音奏聞。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と藤原秀康・三浦胤義「等」が報告に参上したとなっていて、いずれも藤原秀康が筆頭、三浦胤義が二番目であり、渡辺翔など出てきません。
ここは単なる事実の報告ではなく、御所に立て籠もって戦うことの許可申請を兼ねている訳ですから、渡辺翔程度が出て来るのは変ですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

ま、それはともかく、この後、

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 紀内殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。
 其次ニ、黄村紺ノ旗十五流ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度申合文一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人ニテ、和田左衛門ガ媒シテ、伯父ヲ失程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」ト思ヒ、四墓ヘコソ帰ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

と続きます。
高橋氏の要約と比較すると、「義時の味方をして、和田合戦で親族を見捨てるようなあなたを、今となっては人間らしいとも思います」は分かりにくいですね。
久保田淳氏の脚注でも「人ガマシク」は「人間らしいと思って」とあり、高橋氏はそれに従っておられるのでしょうが、何とも間の抜けた感じは否めません。
少し前、胤義が渡辺翔・山田重忠に言った言葉に「何ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ」とあるので、「アレニテ自害」の「アレ」は院御所(慈光寺本では高陽院殿)のようです。
とすると、「人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ」は「武士らしく(武士の習いとして)、(潔く)院御所で自害しようと思ったけれども」と訳した方が良さそうですね。
つまり、「人ガマシク」の「人」は一般的な「人間」ではなく、「武士」ではないかと思います。
ま、そんな細かなことはともかく、ここは慈光寺本作者が「和田左衛門」(和田義盛)が実際には三浦義村・胤義兄弟の従兄であるのに「伯父」と誤解している点、そして胤義が義村を「伯父ヲ失程ノ人」と非難できる立場にあると考えている点が興味深いですね。
この問題は後で検討するとして、慈光寺本の続きを見ておきます。

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 平判官ハ、敵少々討取テ思様、「胤義コソ弓箭ノ冥加尽タリトモ、帝王ニ向マイラセテ、軍ニ討勝、世ニアランズル人ヲ討取テハ、親ノ孝養ヲモ誰カハスベキ」ト思ヒツゝ、大宮ヲ上リニ一条マデ、西ヘゾ落ニケル。西獄ニテ敵ノ頸ヲ懸、木島ヘゾオハシケル。木島ニテ十五日ノ辰ノ時ニ、平判官父子自害シテコソ失ニケレ。「アハレ、武士ナリツル人を」ト、オシマヌ人モ無リケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa05aa70336d1e38674b1b939cfe27a6

ということで、流布本に比べると、慈光寺本の胤義自害の場面はずいぶんあっさりしています。
コメント
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