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流布本も読んでみる。(その33)─「如何に親の供をせじと云ふぞ」

2023-05-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で私が、

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六月五日・六日の尾張河合戦の前に後鳥羽院の側近、藤原範茂・藤原朝俊・源有雅・中御門宗行・坊門忠信・二位法印尊長らが都を離れてしまったら、後鳥羽院はいったい誰を連れて叡山に行ったのか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70

と書いたことに対し、『吾妻鏡』に詳しい方は、そんなことは『吾妻鏡』六月八日条に「内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長<各甲冑>等候御共」書いてあるではないか、と思われたかもしれません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

しかし、『吾妻鏡』の記事は幕府側の武士の行動、特に恩賞給付に直接に関係する、誰が何時何処でどのように戦ったかという事実に関しては基本的に信頼できても、京都側の事情は別問題です。
『吾妻鏡』の同日条には、尾張河合戦の敗北を藤原秀康と五条有長が後鳥羽院に報告した直後に「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々」ともありますが、この時点で「公卿侍臣」だけが「宇治勢多田原等」へ行っても軍事的意味は乏しく、十二日の「重被遣官軍於諸方」以下の記事との関係も分かりにくいところがあります。
このあたり、『吾妻鏡』の記事は流布本・慈光寺本等を含む京都側の史料に大きく依拠しており、それらを矛盾なく解釈しようとした結果、不正確な記述になってしまっているのではないか、と私は疑っているのですが、この点は後で検討したいと思います。
さて、ここで流布本に戻ることにします。
5月13日の投稿で、

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 爰に供御瀬へ、武田五郎・城入道奉〔うけたまはつ〕て向けるに、何〔いづ〕くより来とも不覚、上の山より大妻鹿〔めが〕一〔ひとつ〕落ちて来れり。敵・御方〔みかた〕、「あれや/\」と騒ぐ所に、甲斐国住人平井五郎高行が陣の前を走通る。高行、元来〔もとより〕鹿の上手に聞こへてはあり。引立たる馬なれば、ひたと乗儘に弓手に相付て、上矢の鏑〔かぶら〕を打番〔つが〕ひ、且〔しば〕し引て走らかし、三段計〔ばかり〕に責寄せて、思白毛の本を鏑は此方〔こなた〕へ抜よと丙〔ひやう〕と射る。鹿、矢の下にて転〔まろ〕びける。弓勢〔ゆんぜい〕、由々敷ぞ見へし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f444e077f91074b6372d92282ab4780

という供御瀬の戦闘、というか鹿騒動までを紹介していますので、その続きです。(『新訂承久記』、p104以下)

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 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。足利武蔵前司義氏・三浦駿河守義村、是等は「遠く向候ヘば」とて、暇〔いとま〕申て打通る。義氏は宇治の手に向んずれ共、栗籠〔くりこ〕山に陣を取。駿河次郎、同陣を双べ取たりけるが、父駿河守に申けるは、「御供仕べう候へ共、権大夫殿の御前にて、『武蔵守殿御供仕候はん』と申て候へ(ば)、暇給りて留らんずる」と申。駿河守、「如何に親の供をせじと云ふぞ」。駿河二郎、「さん候。尤〔もつとも〕泰村もさこそ存候へども、大夫殿の御前にて申て候事の空事〔そらごと〕に成候はんずるは、家の為身の為悪く候なん。御供には三郎光村も候へば、心安存候」と申ければ、「廷〔さて〕は力不及」とて、高所に打上て、駿河二郎を招て、「軍には兎〔と〕こそあれ、角〔かく〕こそすれ。若党共、余はやりて過〔あや〕まちすな。河端へは兎向へ、角向へ」など能〔よく〕々教へて、郎等五十人分付て、被通けり。
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「武蔵守」北条泰時は供御瀬を通過して宇治橋に向かいますが、その夜(『吾妻鏡』によれば六月十三日)、「岩橋」(未詳)に陣を取ります。
「足利武蔵前司義氏」と「三浦駿河守義村」は、自分たちはもう少し先に向かいますので、と泰時に挨拶した上で、「岩橋」を通過します。
足利義氏は宇治の担当ですが、「栗籠山」に陣を取ります。
「駿河次郎」三浦泰村は、義氏と同じく「栗籠山」に陣を取り、父「駿河守」義村に対して、「本来ならば父上にお供すべきですが、「権大夫殿」(北条義時)の御前で、「武蔵守殿にお供します」と申したので、父上と離れてここに留まります」と言います。
義村が「どうして親の供をしないなどと言うのだ」と聞くと、泰村は「父上のおっしゃることは当然です。ただ、「権大夫殿」に約束してしまったので、それを破ってしまうと、三浦家にとっても私にとっても不都合となります。父のお供には「三郎光村」もおりますから安心です」と応えます。
それを聞いた義村は、「そういう事情だったら仕方ないな」と言って、泰村とともに小高い場所に行き、戦闘に際しての注意点を細かく教え、若党たちが血気に逸って失敗しないようにと諭した上で、郎等五十人を泰村に分け与えた後、自分は先を急ぎます。

泰村は何故に父・義村と別れたかというと、今まで活躍する場がなかったので、宇治橋で戦果を挙げ、自分の存在感を見せつけよう思っていたからですが、それは口に出しません。
なお、ここに「三郎光村」が登場することが注目されます。
光村が登場するのは、流布本ではここ一箇所だけです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その4)─宇治川合戦の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f50591ba57eb3bb9dec78e1d61f644c6

真鍋淳哉氏の「三浦光村に関する基礎的考察」(『市史研究 横須賀』8号、2009)は三浦光村に関する詳細な評伝ですが、何故か光村が承久の乱に出陣している旨の記述がありません。
流布本記事を否定しているのではなく、承久の乱への言及自体がないので、ちょっと不思議です。

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