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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その17)

2023-06-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

春日貞幸については藪本勝治氏が「『吾妻鏡』の歴史叙述における承久の乱」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)という論文で詳しく検討されていますね。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/522/

昨日、初めてこの論文をきちんと読んでみましたが、自分の関心に直結する論文なのに、何故に今まで読んでいなかったのだろうと思ったら、「南北朝期以降の成立とみられる流布本『承久記』」という表現があって(p209)、以前、同書を図書館で借りて斜め読みしたときに、これだけ見て自分には役に立たない論文と思い込んでしまったようです。
藪本氏は『吾妻鏡』には「他書に見えない「春日刑部三郎貞幸」なる武士にまつわる記事群」があるとも書かれていますが(p211)、流布本にも春日貞幸は登場し、「刑部三郎が高名、先を仕たらんにも増りたり」とまで称揚されています。
藪本氏は流布本を「南北朝期以降の成立」と考えておられるので、『吾妻鏡』の分析には関係ないものと思われているのでしょうね。
さて、『吾妻鏡』六月十四日条の、

(6)その後、兵士が多く水面に轡を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうちに十人中の二、三人が死んだ。すなわち関左衛門入道(政綱)・幸島四郎(行時)・伊佐大進太郎・善右衛門太郎(三善康知)・長江四郎・安保刑部丞(実光)以下の九十六人である。従軍は八百余騎であった。

に名前が出て来る「幸島四郎」ですが、『吾妻鏡』六月十二日条には、

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【前略】今日。相州。武州休息野路辺。幸島四郎行時〔或号下河辺〕相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処。運志於武州年尚。於所々令傷死之条。称日者本懐。離一門衆。先立自杜山。馳付野路駅。加武州之陣。于時酒宴砌也。武州見行時。感悦之余閣盃。先請座上。次与彼盃於行時。令太郎時氏引乗馬〔黒〕。剩至于所具之郎従及小舎人童。召幕際。与餉等云々。芳情之儀。観者弥成勇云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
ここは少し分かりにくいところがあるので、例によって『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を借用すると、

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 今日、相州(北条時房)・武州(北条泰時)は野路辺りで休息した。幸島四郎行時〔あるいは下河辺ともいう〕は小山新左衛門尉朝長以下の親類に従って上洛しようとしていたが、長年泰時を慕っており「(一族とは)別の場所で(泰時のために)傷付き死ぬのは日頃の本懐である。」と言って一門の人々から離れ、前もって杜山から野路駅に駆け着けて泰時の陣に加わった。ちょうど酒宴の最中であったが、泰時は行時を見ると喜びの余り盃を置いて上座に招いた後、その盃を行時に与えて太郎(北条)時氏に乗馬〔黒〕を引かせた。そればかりか(行時が)伴っていた郎従や小舎人童に至るまで陣幕のすぐ側に召して食事などを与えたという。(泰時の)思いやりに、見る者はますます勇気を奮い立たせたという。
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ということで(p115以下)、郎従や小舎人童に至るまで気配りするという何とも異例の好待遇ですから、いったい泰時との間にどんな関係があったのだろうかと不思議に思われるほどです。
また、本来所属すべきグループから離れて泰時の許に駆け付けるという幸島四郎の登場の仕方は春日貞幸とよく似ていますね。
ただ、春日貞幸が後の場面で大活躍するのに対し、幸島四郎は十四日条で、「其後。軍兵多水面並轡之処。流急未戦。十之二三死。所謂。関左衛門入道。幸島四郎。伊佐大進太郎。善右衛門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。従軍八百余騎也」と死者九十六人の一人として名前が出て来るだけで、華やかな登場と僅か二日後の地味な死の間の落差が激しいですね。
この点、流布本では、幸島四郎と泰時の関係についての記述は全くない代わりに、

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軈〔やが〕て続て渡しける若狭兵部入道・関左衛門尉・小野寺中務丞・佐嶋四郎、四騎打入て渡けるが、若き者共の馬強なるは、河を守らへて能〔よく〕渡す間、子細なし。関左衛門尉入道、身は老者なり、馬は弱し、被押落下り頭に成ければ、聟の佐嶋四郎難見捨思て取て返し、押双て馬の口に付たりけるが、被押入、二目共不見、共に流れて失にけり。是は佐嶋四郎国を立ける時、妻室云けるは、「我親は頼敷〔たのもし〕き子一人もなし。我に年比〔としごろ〕情を懸給ふ事誠ならば、此言葉の末を不違して、我父相構ヘて見放し給な」と、軍〔いくさ〕と聞し日より、打出る朝迄〔まで〕、鎧の袖を扣〔ひか〕ヘて云ける事をや思ひ出〔いだし〕たりけん、同く流れけるこそ哀なれ。故郷の者共、此事を伝聞て、「左〔さ〕云ざりせば、一度に二人には後〔おく〕れ間敷〔まじき〕物を」と、歎けるこそ甲斐なけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8aed4432a3f320c381be1790d0f86cb2

とあって、妻から父を頼むと強く言われていた「佐嶋四郎」は舅の関左衛門尉政綱を助けようとして自分も流されて死んでしまった、とのことで、その死の経緯や関係者の後日談までが戦場悲話として詳しく描かれています。
両者を読み比べると、『吾妻鏡』に対しては、幸島四郎を泰時が歓迎したことをここまで詳しく描くのだったら、その死についても一掬の涙を注ぐくらいのことはしてやってもよさそうなのに、泰時の称揚に役立たない話は載せないのだろうか、などと思わない訳でもありません。
それと、藪本勝治氏のように流布本を「南北朝期以降の成立」と考える立場の人たちに対しては、『吾妻鏡』にも出て来ない幸島四郎の戦場悲話が、承久の乱が終わってさほど時間が経っていない時期ならともかく、百数十年後の「南北朝期以降」になって、どこからか材料を入手して流布本に採用されるというのは不自然なのではなかろうか、という疑問が生じます。
私には、この幸島四郎のエピソードは流布本の成立が相当早いことを示す一材料のように思われます。

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