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「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」

2019-03-22 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月22日(金)11時07分31秒

『平家公達草紙』には三人の共著者の執筆分担が明示されていないのですが、櫻井陽子氏は『平家物語』、鈴木裕子氏は『源氏物語』の専門家なので、コラム「語りだしと隆房」は渡邉裕美子氏が書いているような感じがします。
ま、それはともかく、「『増鏡』「老の波」でも、正確さには欠けますが、「安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり」と紹介されています」(p35)というのは、安元の御賀で実際に青海波を舞ったのは平維盛で、藤原隆房ではないからですね。
念のため『増鏡』の記述を確認すると、

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 今年、北山の准后九十にみち給へば、御賀の事、大宮院思し急ぐ。世の大事にて、天下かしがましく響きあひたり。かくののしる人は、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲尾の大納言隆衡の女ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下みなこのにほひならぬ人はなし。いとやんごとなかりける御宿世なり。昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。大方、この大宮院の御宿世、いとありがたくおはします。すべていにしへより今まで、后・国母多く過ぎ給ひぬれど、かくばかりとり集め、いみじきためしはいまだ聞き及び侍らず。御位のはじめより選ばれ参り給ひて、争ひきしろふ人もなく、三千の寵愛ひとりにをさめ給ふ。両院うち続き出で物し給へりし、いづれも平らかに、思ひの如く、二代の国母にて、今はすでに御孫の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思しむすぼほるる一ふしもなく、めでたくおはしますさま、来し方もたぐひなく、行末にも稀にやあらん。

http://web.archive.org/web/20150909231957/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugoto-omiyain.htm

ということで(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p288)、『増鏡』は確かに「正確さには欠けますが」、四条家にとって名誉な方向に改変しているとも言えますね。
さて、コラム「語りだしと隆房」の系図を見ると、そこに登場している人物は、男性が、

清盛、(四条家)隆房、(後嵯峨の乳母夫)隆衡、(西園寺家)実氏、後嵯峨、後深草、亀山、伏見

の八人、女性は単に「女」とある三人を除くと、

(北山准后)貞子、大宮院、東二条院、遊義門院、玄輝門院

の五人です。
この五人が「隆房の血を引く女性たち」で、「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」という指摘は重要です。
また、再び我田引水気味になるかもしれませんが、この五人は全て『とはずがたり』の登場人物でもありますね。
ところで、角田文衛氏が『平家後抄』を執筆した時点(初版は1981年)では、『安元御賀記』の研究がそれほど進んでおらず、角田氏も「類従本系」を重要な根拠として極めて新平家的な隆房像を描き出していた訳ですが、伊井春樹氏の「『安元御賀記』の成立─定家本から類従本・『平家公達草紙』へ─」(『国語国文』61巻1号、1992)により学説の状況が変化しています。
即ち、「伊井春樹によって、類従本系にのみ見られる官位がことごとく誤っている点などから、定家本系がより原態に近く、類従本系は定家本系を増補・潤色したものであり、隆房の筆ではないことが結論づけられた。現在、この結論に関しては疑問の余地はないと思われる」(猪瀬千尋氏)という学説の状況に照らすと、角田氏が描き出した極端に親平家的な藤原隆房像は必ずしも隆房の同時代史料で基礎づけることはできず、むしろ少し後の「二次創作」の反映のように思われます。

『安元御賀記』(by 四条隆房)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/467411a2e4e0b0cd5887e2c4444b76b3

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