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「胸騒ぐといへば、おろかなり」 (その1)

2019-03-25 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月25日(月)11時42分19秒

私の掲示板に来てくれる人はたぶん国文学より歴史学に興味を持っている人が多いでしょうが、難解な古文書や変体漢文の古記録に慣れている人にとっては前回投稿程度の古文は簡単でしょうから、解説は省略して私が気づいた点だけ述べたいと思います。

わはは。
ちょっと嫌味を言ってしまいましたが、固い史料に慣れた人ほど、この種の文章はけっこう難しいと思いますので、丁寧に解説します。
ま、私も『平家公達草紙』に付された詳細な補注や現代語訳を見ないと、どこに「ボーイズラヴ的な雰囲気」が漂っているのかも分らない程度の実力なのですが。

【1】治承元年(1177)の二月十日のころだったか、私、隆房が人目を忍んで通っていた女性のもとからの帰り道、ある所に、人の住んでいる気配はないが、構えは立派な邸の前に車が止まっていた。昼間ならともかく、まだ夜が明けはじめる頃なので、一晩中そこに止まっていたことがはっきり分った。「何か事情のある車だろうか」と思って、しばらく物陰に隠れて見ることにする。

ということで、藤原隆房の視点で物語は進行します。

【2】誰の邸だろうと思って供の者に尋ねさせたところ、「久我の内大臣雅通とおっしゃる方の姫君がお住みです」とのことだった。その姫君であれば顔立ちがたいそう美しいと評判が高く、二条院の御在位中、しきりに参内するようにとの仰せがあったのに、いまさら参内など、と全く気に掛けることもおありでなかったはずなのに、これはどのような色恋なのだろう、と思って見ていると、車を止めていた人が御門に現れた。その様子を隠れて見ていると、直衣姿のその人が車の中に入った。

「久我の内大臣まさみち」は源雅通で、源通親(1149-1202)の父ですね。
二条天皇は後白河院の皇子ですが、父親との関係はなかなか微妙だった人です。
その在位は保元三年(1158)から永万元年(1165)で、僅か二歳の六条天皇に譲位して間もなく、二十三歳の若さで崩御。
従って、物語が設定されている治承元年(1177)は二条院が没してから十二年後ということになりますね。

源雅通(1118-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E9%80%9A
二条天皇(1143-65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

【3】誰だろうと思って見ると、小松殿の権亮少将維盛殿であった。「この姫君と関係があるようだ」と思うと、胸騒ぎがして、とても言葉に出来ない。

『平家公達草紙』の現代語訳では「胸騒ぐといへば、おろかなり」は「胸がどきどきすることといったら、とても言葉では表現できない」となっています。
このあたりから「ボーイズラヴ的な雰囲気」が漂い始めます。

【4】(隆房は自邸に戻るが)「維盛殿はいつからこのような関係だったのか。この女性とのことがあったので、私に冷たかったのだろう」と思うと、一晩中一睡もできず、思い悩んで朝を迎えた。早朝、小松殿へ参り、少将の住む東の対へ行って部屋を覗くと、誰もいない。「どこに行かれたのか」と問うと、「大臣(重盛)から急用ということで呼ばれ、そちらに行っておられます」と言う。部屋に入って、少将がいつもいると思われる所に行くと、たった今使ったばかりと見える硯の下に、白い薄様があり、何か書いてある。書きかけの手紙で、その書き始めの言葉を読むと、昨夜初めて契りを結んだのだと分る。口惜しいことといったら、言葉にならない。たちまち涙もこぼれた。

途中ですが、いったんここで切ります。

平惟盛(1159-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B
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