学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施……」(by 角田文衛)

2019-03-28 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月28日(木)10時17分33秒

角田文衛氏は「平家公達草紙」には藤原隆房自身が関与し、その成立時期は鎌倉初期、そして「平家公達草紙絵巻」の成立時期は鎌倉後期と考えておられた訳ですが、近時の学説の動向を見ると「平家公達草紙」の成立も鎌倉後期と考えるのが通説のようです。
とすると、何のために「平家公達草紙&絵巻」は作られたのか、という問題も新たな視座から分析する必要があるように思われます。
櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子氏によれば、その目的は、

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現代で言えば、夢見る歴女が戦国武将や幕末の志士に憧れてイケメン像を作り上げることと、一脈通じるかもしれません。鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々が、『右京大夫集』や『平家物語』の中から、特に好きな男性のキャラクターに、自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作していきました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6703ff7fe27f91124f8f3212ecd5e21c

ということで、要するに「鎌倉時代のお嬢様やその周辺の人々」が自分たちの楽しみのために作った、ということになりそうですが、果たしてそれで良いのか。
私には若干の私見がない訳ではないのですが、それを述べる前に角田文衛氏が「平家公達草紙&絵巻」の製作目的をどのように考えておられたかを紹介したいと思います。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p43以下)

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 『平家公達草紙』は、桑原博史氏が説かれているように、後年の隆房が自らも記述し、他の人びとにも執筆を求めて編集した回想録であると思う。とすれば、隆房は一体なんの目的でこの草紙を編んだのであろうか。
 この問題を理解するためには、当時の政治情勢を鳥瞰してみる必要がある。文治五年(一一八九)の九月、奥羽両国を平定し、全国的制覇が成功すると、頼朝の心には余裕が生じ、朝廷との融和政策が徐々に進められるようになった。これに呼応して朝廷にも勢力の交替があり、建久七年(一一九六)十一月における関白・兼実の引退がみられた。鎌倉幕府にとっては、平家の残党追及などは緊急事ではなくなったし、兼実に代って関白に返り咲いた基道の正妻、基道の下の右大臣・兼雅の正妻も清盛の娘であったし、公卿中の実力者の源通親の本妻で通具を産んでいたのは、平教盛の娘であった。つまり建久の末年は、平家追及の雪融期であった。
 平家の女性達は大勢都に生き残っていたし、隆房を初め平家と縁故の深い人びとも数多く在世していた。しかも平家に対する追憶談は、文治元年以来、都のあちことでひそかに語られていた。
 『平家公達草紙』の編集者は、疑いもなく隆房であったろうし、また彼の文才、彼の声望によってそれは成就したに相違ない。しかし彼の背後にあってこれを企画し、隆房を動かしたのは、彼の正妻─清盛の娘─であったろうと推測されることは前にも述べておいた。
 『平家公達草紙』がもと何巻あったかは皆目不明であるが、隆房はこの草紙が完成した時、早速、建礼門院を初め、平家にごく縁の深い婦人たちの閲覧に供したことであろう。そして内容が栄光に溢れているだけに、かえってそれは彼女らの号泣を招いたに相違ない。おそらく閑居における建礼門院の座右には、『平家公達草紙』全巻が置かれていたと思う。
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要するに角田文衛氏は「平家公達草紙」の製作目的を「建礼門院を初め、平家にごく縁の深い婦人たちの閲覧に供」するため、と捉えている訳ですね。
そして「平家公達草紙絵巻」については、

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 十三世紀の後半の宮廷社会において、最も尊崇され、権威を帯びていたのは、序章に述べた通り、北山准后こと藤原貞子(一一九六-一三〇二)であった。貞子は、清盛の曾孫であり、親平家的な雰囲気の中で成長した女性であった。貞子の座右にも必ず祖父の編著にかかる『平家公達草紙』が備えられていたに違いない。これは全くの想像に過ぎないけれども、晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施したとみることもできよう。そして『平家公達草紙絵巻』は、永く西園寺家に伝わり、そこからまた伝播したとも想定されるのである。
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ということで、「全くの想像に過ぎない」との留保付きですが、「清盛の曾孫であり、親平家的な雰囲気の中で成長した」北山准后・藤原貞子の関与の可能性に言及されています。
角田文衛氏は貞子の目的までは推定されていませんが、まあ、過去の栄耀の追憶、更には先祖の鎮魂といったことなのでしょうね。

「北山の准后藤原貞子に仮託して」(by 講談社BOOK倶楽部の中の人)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffcaa6d93de5c7bbb58a6921a492fb36
「なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e171dde700aee21f6e94501c299f76e

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