投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月12日(火)12時39分7秒
『中世王権の音楽と儀礼』は既発表論文が半分、新稿が半分なので、猪瀬氏も新稿に気を取られてしまって既発表論文へのチェックが疎かになったのかもしれないですね。
また、読者側としても、そもそも「舞御覧」みたいなものに興味を持つ人が僅少で、細部まで熟読した人が殆どいないのかもしれません。
もともと私は、『増鏡』との関係で、後醍醐天皇の西園寺訪問を記した『舞御覧記』という史料に尋常ならざる興味を持っているのですが、『舞御覧記』については平泉澄の直弟子である歴史学者・平田俊春(防衛大学校名誉教授、1911-94)に「増鏡の成立に関する一考察─舞御覧記との関係について」(『国語と国文学』16巻7号)という昭和十四年(1939)の古い論文があるだけで、歴史学者・国文学者の関心が極めて薄い状況が続いています。
そのような中で、猪瀬氏の「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」は、「舞御覧」を広く概観できるだけでも本当に貴重な業績なのですが、やはり「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)は不正確と言わざるを得ず、全面的に見直しをしてほしいですね。
『五代帝王物語』や近衛基平の『深心院関白記』以外にも「舞御覧」という用語が登場する史料はまだありそうですし、また、史料用語としての「舞御覧」と学術用語としての「舞御覧」の関係についても再考してほしいと思います。
猪瀬氏は、
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二 舞御覧の特質
すでに小川剛生によって「宮廷誌」は一代一度の儀礼が多い点が指摘されている(前節参照)。特に顕著なのが、御賀に代表される、天皇の行幸をともない、複数日に渡って舞、船楽、蹴鞠、三席(歌会、作文、御遊)などが行われる儀である。あとに述べるが廷臣とその子息による舞楽が骨子となるために、しばしば「舞御覧」の名で称される儀礼である。以下、御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼の上位概念として「舞御覧」の用語を用いるが、ここで考えたいのは舞御覧においてたびたび「宮廷誌」が作成されている事実である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de215cb75f02ab2bb5f6f7dff18fdf4f
と言われていますが、「御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼の上位概念として「舞御覧」の用語を用いる」とされる点、非常に分かりにくいですね。
「御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼」の「上位概念」が「舞御覧」ならば、史料用語として「御賀」となっていたり、名称の如何を問わず「複数日の臨時行幸」を内容とする行事であれば、それらは全て「舞御覧」に包摂されてしまうのか。
おそらく猪瀬氏の意図は異なると思いますが、そうであれば、むしろ史料上に「舞御覧」と出てくる儀礼について、その構成要素を列挙して、その中で重要なのはこれこれだから、これこれの要件を全て備えるものを学術用語としての「舞御覧」とする、といった整理の方が良さそうな感じがします。
ま、そんなエラソーなことを言うのならお前がやれ、と言われそうですが、私には史料をバリバリ渉猟する能力がないので、あくまで希望であります。
なお、既に消滅した旧サイトで「舞御覧記」と平田俊春「増鏡の成立に関する一考察─舞御覧記との関係について」を紹介しておいたのですが、今はこちらで読めます。
原文を見る-『舞御覧記』
http://web.archive.org/web/20150429002147/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-maigoranki-index.htm
平田俊春 「増鏡の成立に関する一考察-舞御覧記との関係について-」
http://web.archive.org/web/20150917033355/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-maigorannoki.htm
巻末の「初出一覧」(p419)を見ると、「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」は『国語と国文学』90巻1号(2013年)に掲載されたそうですね。
『国語と国文学』は「東京大学国語国文学会編集による国文学研究誌」で、発行元の明治書院によれば「国語国文学研究のもっとも良質な成果の発表誌」であり、「毎号高水準を保つ投稿論文を掲載。国文学研究者の登竜門」だそうです。
ま、国文学研究者と特に交流のない私から見ても、これは大袈裟な宣伝文句という訳ではなく、多くの国文学者の評価にそれなりに近いのではないかと思われます。
雑誌「國語と國文學」のご案内
https://www.meijishoin.co.jp/news/n3307.html
まだ確認していませんが、おそらく「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」(p123)は2013年の論文に既に記述されていたのでしょうね。
「あとがき」には、
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本書は二〇一三年に名古屋大学へ提出した学位論文に基づいている。審査にあたっては、主査を阿部泰郎先生として、佐々木重洋先生、塩村耕先生、稲葉伸道先生、二松學舎大学の磯水絵先生に担当いただいた。また学位収得後は日本学術振興会特別研究員(PD)として、二年間を上野学園大学日本音楽史研究所の福島和夫先生に、一年間を東京大学史料編纂所の菊地大樹先生に受け入れてもらった。特に史料編纂所での一年は、他の何にも代えがたい貴重な体験となった。
この途につくまでに、数限りない人たちのお世話になった。修士課程から今日にいたるまで学問と接していられたのは、指導教官である阿部先生のおかげである。筆者が日本文学研究者であると言えるようになったのは、塩村先生の指導によるものに他ならない。学部での指導教官であった中本大先生、折に触れ発表の機会を提供してくれる近本謙介先生、関東での研究会の居場所を与えてくれた菅野扶美先生、研究者として常に対等に接してくれる柴佳世乃先生、述べ尽くせない限りの学恩を賜っている高岸輝・山本聡美先生夫妻にも謝辞の言葉を述べたい。
また本書の校正にあたっては、松山由布子氏と若山憲昭氏の助力を得た。名古屋大学の旧比較人文学講座(現文化人類学研究室)は、異なる専門を持つ人々が領域横断的な研究を試みる場であり、著者も自主ゼミ等を通してその一端に触れ、積み重ねられた学問への敬意と尊重とを知ることができた。休日にも院生室に出てくるのは、決まって松山氏と青木啓将氏と著者の三人だった。背を向けながら喋るともなく喋っていた毎日を懐かしく思う。若山氏とはもちろん、立命古美研との付き合いは今も続いている。古美研で妻と出会い、やがて研究という生き方を共有してくれる上田の御両親に出会えたことに不思議な縁を感じる。
本書の編集を担当してくれた笠間書院の重光徹氏には、感謝以外の言葉もない。刊行にいたるまでずっと息切れし続けてきた著者を、よくも見捨てないでくれたと思う。前任の岡田圭介氏は、本書企画段階からずっと著者を支え続けてきてくれた。社長の池田圭子氏は、著者が切羽詰って原稿を届けに行くのを、いつもあたたかく迎えてくれた。いずれもみな素晴らしい人たちばかりである。
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とありますが(p424以下)、ここに名前が上がっている人々の全てが2013年の『国語と国文学』掲載論文を読んだ訳ではなくとも、少なくとも「指導教官である阿部先生」以下、それなりの方々が読んでいたはずです。
ということで、「永徳」と「貞治」が元号であることを知っている人であるならば一読して奇妙に思うはずの、殆ど日本語としておかしいレベルの「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」という一文は、著者周辺の著名な学者たちに誤りを指摘されることも、斯界の一流専門誌『国語と国文学』の多数の読者から疑問を呈されることもなく、著者と親しい若手研究者と出版社の校正も潜り抜けて『中世王権の音楽と儀礼』に生き残った、ということになりそうです。
ふーむ。
いささかシュールな味わいがありますね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 8日(金)10時52分39秒
ツイッターでは「陰謀論」と戦う呉座勇一氏の「八幡氏への反論:歴史学者のトンデモ本への向き合い方」がちょっと話題になっていますね。
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ではなぜ、「歴史学者はバカばかり」と罵倒し、歴史学者から有益な情報を引き出すチャンスを自ら捨てるのか。「権威」である歴史学者を徹底的にこき下ろした方が、読者が痛快に思い、本が売れるからである。要するに過剰に歴史学者を攻撃している人は、本心では歴史の真実の探求などどうでも良く、炎上商法であろうと本さえ売れれば万々歳と思っているのだ。歴史研究より商売の方が大事という姿勢の人間が書いた本に価値があるはずがないではないか。
http://agora-web.jp/archives/2037618.html
私は「歴史学者はバカばかり」などと言ったことは多分ないはずですが、「国文学者はバカばかり」みたいなことを言った覚えがなきにしもあらず、というか、つい最近も、
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気色の悪い文体で描かれた「阿部ワールド」は一般人には近寄りがたい奇妙な世界ですが、「阿部ワールド」を絶賛する三田村雅子氏にもなかなかの水準の「論文」が多いですね。
今から十年ほど前、私は高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』(吉川弘文館、2008)をきっかけに今西祐一郎・松岡心平・三田村雅子・小川剛生等の国文学界の著名学者の論文をまとめて読んだことがあります。
その結果、国文学の世界は本当に莫迦ばっかりだなと思ったのですが、その中でも三田村雅子氏の存在感は大きく、私の狭い知見の範囲では、「阿部ワールド」と「三田村ワールド」は国文学界の莫迦の双璧ではないかと思います。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05f7513f3ca03a26c6f47105723c698d
などと言っているので、国文学者から「有益な情報を引き出すチャンスを自ら捨て」ているのかもしれず、少し耳が痛いですね。
ま、少なくとも私は金儲けのために掲示板やブログを運営している訳ではないので、「炎上商法」とは関係はないのですが。
>筆綾丸さん
轟教授が自らの授業方針を述べているページがありました。
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以上をまとめると、哲学とは結局、おのれの生き方を、自分の属する共同体のあり方を含めて考えていくことだと規定できます。そしてこのことは「他者」の生き方を参照し、そこから学ぶということと切り離せませんから、この意味で哲学は自己理解の営みであるのと同じくらい、他者理解の営みであることにもなります。このことからして、哲学を学ぶということは、国防の任務を帯びて他国と対峙し、また国際貢献という形で海外に展開することもある自衛隊を担っていく防大生にとっても、そうした国際的な活動の場において必要とされる他者理解(ならびにそれと表裏一体の自己理解)の能力を養う上で、きわめて有意義であるといえます。このような意味で、教師の側からして防大ほど、学生にとって将来「役に立つはずだ」という確信をもって哲学を教えられるところはありません(学生がこの確信を共有してくれるかどうかはこれとは別の話ですが)。
具体的に防大では、教養科目として哲学・倫理学関係の科目がいくつか開講されていますが、以上の点を考慮して、わたしはそこで現代の国家や共同体のアイデンティティを形作り、またそれらを動かす原動力ともなっているさまざまな思想(宗教)の紹介に重点を置いて授業を行っています。
http://www.mod.go.jp/nda/obaradai/boudaitimes/btms200606/todoroki/todoroki200606.htm
内容とは関係ありませんが、このページの色彩感覚はちょっと勘弁してほしいですね。
轟教授自身が選んだ訳ではないでしょうが。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
轟教授と某学生との対話 2019/03/07(木) 15:04:13
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たき木,はひとなる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。前後ありといへども,前後際断せり。灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち,さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(『正法眼蔵』現成公案)
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ここで注意すべき点は、「将来」、「既在性」、「現在」は相互に切り離されて別々にあるのではなく、それぞれの契機が他の契機と連関し、独自の統一を形作っていることである。この時間性の統一の形成をハイデガーは「時間性が熟する」と表現する。この時間性の統一にはいくつかの熟し方があり、それらの熟し方が現存在の多様な存在形態を可能にしている。現存在の本来性と非本来性も、時間性の「熟し方」の二つの根本可能性として捉えられる(SZ,328)。
ここで「熟し方」と訳したのは、“zeitigen” という動詞の再帰形“sich zetigen”である。“zeitigen”は通常他動詞として用いられ、「(結果、効果などを)もたらす」、また「熟させる」を意味し、辞書には再帰動詞としての用法は掲載されていない。“zeitigen”はその形からもわかるように、“Zeit”=「時間」からの派生語であり、それ自身、時間と関係をもつ語である。時間性の統一は外部の主体によって引き起こされるものではなく「おのずからなる」ものである。この事態をハイデガーは“sich zetigen”=「熟する」という再帰動詞の形で表現しようとしたのだろう(なおこの語はハイデガーの述語としては、時間性との関係を明示するために「時熟する」と訳されることが多いが、日本語としてはあまりこなれていないので、ここでは採用しなかった)。(轟孝夫〔ハイデガー『存在と時間』入門〕338頁~)
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時間に関して、道元はひどく奇抜に論じ(前後際断)、ハイデガーはごく凡庸に論じて(時熟)いるのですが、歳のせいか、こういう議論が馬鹿々々しくて思われてなりません。道元は13世紀の偉大な仏教者、ハイデガーは20世紀の巨大な哲学者、と人は誉めそやすけれども、ただの変人にすぎないのではあるまいか。
某学生「僕は日本国のためなら、不惜身命、いますぐ命を捨てる覚悟はあり、また、ホーキング博士の虚時間概念を面白く思う者でありますが、轟先生、益体もないハイデガーなんか、死ぬまでチマチマ研究して、どんな意味があるんですか」
轟教授「うるさいな。君になんか、単位はやらないからね」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 6日(水)21時40分16秒
>筆綾丸さん
北昤吉は『ベルグソン哲学の解説及び批判』・『ベルグソンとの対話』なんていう本も出しているのですね。
この掲示板でも何度か「ベルグソン」に言及していて、堀米康三氏の父親の蔵書には「ベルグソン」があったそうですし、
無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e4e0af9cc5b9a44d1c01065b2f1cfae
原理日本社には「ベルグソン」研究者の広瀬哲士がいて、この人が初めて『笑い』を翻訳したようですね。
原理日本社と慶応大学を繋ぐもの
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6afdb88d6c04fe2a676983fef053d9e
広瀬哲士
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b364634cf5cd487b3bdaae033690f8f9
中里成章氏「『パル判事』を上梓するまで」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/855889d7a9bb46a1966d49d845f50dd1
もっとも広瀬自身はおよそ面白味のない人だったと西脇順三郎・山本健吉が言っていますが。
広瀬哲士(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca420ec584ae83a7f4d414ac0cb6da68
細かいことですが、昔はみんな「ベルグソン」と書いていて、林達夫訳の岩波文庫の『笑い』も昭和13年の初版では「ベルグソン」ですが、増補改訂版では「ベルクソン」ですね。
ベルグソンorベルクソン
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/edbb6b686482a6d5e46fc4cae1c626f2
ちなみに自ら特に哲学青年タイプではなかったと言う岸信介も「ベルグソン」を翻訳で読んだそうで、大正時代の流行思想なんでしょうね。
「君達は独逸語をやるために生れて来たと思え」(by 岩元禎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9960ae78851223fd74c3283c177ed310
>著者はハイデガー一筋の研究者ですから、講義も『存在と時間』が中心になるのでしょうが、
「防衛大学校人文社会科学群人間文化学科」サイトを見たところ、轟教授が担当されている科目は、
人間学、思想と文化、哲学研究、基礎ゼミナール、地域思想論、現代思想、人間学研究Ⅲ、多文化社会論、卒業研究
http://www.nda.ac.jp/cc/jinbun/staff-todoroki.html
となっているので、相当幅広いようですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
防大で哲学を教えています 2019/03/05(火) 13:37:01
関係のない話で恐縮ですが。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210923
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%8C%E3%81%84%E5%90%89
轟孝夫『ハイデガー『存在と時間』入門』に、こんな記述がありますが、北昤吉は知りませんでした。
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ところで、同時期に三木清はある日本人(北一輝の実弟、北昤吉)から、東京に新しく設立される研究所に招聘するドイツ人哲学者の選任を委嘱されている。彼はその第一候補としてまずハイデガーに白羽の矢を立て、招聘を受けるかどうかを直接打診している。(86頁)
・・・この北昤吉は北一輝の弟で新カント学派やベルクソンの影響を受けた哲学徒だが、同時に評論、政治活動なども行い、一九三〇年代半ばから戦後にかけて衆議院議員を務めた人物である。北は平沼騏一郎をはじめとする貴族議員らによって、漢学振興による儒教道徳の宣揚、東西文化の融合を目指すという趣旨で創立された大東文化協会に入り、それが設立する研究所の研究員の人選に当たっていた(なお大東文化協会が設立した大東文化学院は現在の大東文化大学の前身である)。(112頁)
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・・・私がこのような書物を執筆できたのも、哲学を自由に研究する環境を与えてくれた勤務先の防衛大学校のおかげである。「防大で哲学を教えています」というと、「え、防大生に哲学、必要なんですか?」というあまりに率直すぎる返答をされて困惑することがしばしばある。本書によってそうした「偏見」を少しでも払拭できれば幸いである。(あとがき)
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著者はハイデガー一筋の研究者ですから、講義も『存在と時間』が中心になるのでしょうが、防大とハイデガーは、いまひとつ、しっくりしませんね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 4日(月)10時51分25秒
『中世王権の音楽と儀礼』巻末の「引用文献一覧」を見ると、
さかゆく花:『群書類従 三』
貞治三年舞御覧記:『続群書類従 十九上』
となっているので(p407、409)、猪瀬氏と私が見ているのは全く同じ資料ですね。
ということで、「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」(p123)は猪瀬氏の単なる勘違いであったことが確定です。
「さかゆく花」に描かれた「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸」は永徳元年(1381)の行事ですから、貞治三年(1364)から数えると実に十七年後ですね。
この誤りに気づいた時の私の心の中で久しぶりにチコちゃんが起動して「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叫んだかというと、そういうことは特になかったのですが、ちょっと呆気にとられました。
さて、私は2月28日の「『中世王権の音楽と儀礼』へのプチ疑問(その2)」で、
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文永五年には二つの「舞御覧」が連続してあって、猪瀬氏はそれを混同しているのではないかと疑われるのですが、実は『増鏡』の記述にも、その信頼性について若干の問題があります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32139d377025d860492a994cc6bb52ac
と書きましたが、近衛基平の「深心院関白記」(『大日本古記録 深心院関白記』、岩波書店、1996)には、文永五年(1268)の正月から閏正月にかけて三つの「舞御覧」があったと記されています。
そして『増鏡』が素材のひとつとした『五代帝王物語』と十六世紀初頭に編纂された『体源抄』という楽書、そして近世の『続史愚抄』を見ると文永四年(1267)十二月にも「舞御覧」があったように記されています。
このように「後嵯峨院五十賀」の本番前に行われた「舞御覧」に関する情報は錯綜しているのですが、私としてはやはり近衛基平の「深心院関白記」が一番信頼できるのではないかと思っています。
この点、昨年2月2日の投稿で整理しておいたのですが、これを再掲すると、
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結局、この時期の記録として一番信頼性が高いのは近衛基平の「深心院関白記」(『大日本古記録 深心院関白記』、岩波書店、1996)のようですが、残念ながら同記には欠落が多く、文永四年十二月の状況は分かりません。
ただ、文永五年一月十六日以降、三月三十日までの記録は詳細です。
これを見ると、後嵯峨院五十賀に関係する大きな行事として、
(1)正月十八日、五条大宮内裏、「後嵯峨院五十賀楽所始并舞御覧」
(2)正月二十四日、冷泉万里小路殿、「院御賀舞御覧」
(3)閏正月十七日、冷泉富小路殿、「御賀舞御覧」
の三つがあります。
(1)では亀山天皇、関白・近衛基平の外、「二条大納言良教卿・右大将通雅卿・花山院大納言師継卿以下人々五六輩」が見守る中で「楽所始」の儀式が始まります。
公卿行事座・殿上舞楽人座・地下召人座等に分かれた楽所に「行事花山院中納言長雅卿以下」の人々が着座し、滋野井実冬・大炊御門冬輔・花山院家長・花山院忠季・二条経良・三条実盛・四条隆良等が舞い、管弦もあります。
ついで「以寝殿擬中殿」(寝殿を以て中殿に擬し)、「舞御覧儀」があり、近衛基平は「楽所始」に27行、「舞御覧儀」に8行、合計35行を費やして、この二つの儀式の様子を詳細に描いています。
ただ、後嵯峨院・後深草院・大宮院・東二条院は同日夕方に行われた蓮華王院修正会に参加しており、近衛基平も途中退出してそちらに行っています。
(2)は後嵯峨院御所の冷泉万里小路殿で行われたもので、後嵯峨院・後深草院・「女院」・「中務卿親王并御室、其外如円満院宮」等の貴顕に加え、「参入公卿及四十余人」で『増鏡』に描かれた通りの盛儀ですが、近衛基平は15行で済ませており、(1)よりは簡略です。
(3)は後深草院御所の冷泉富小路殿で行われたもので、後嵯峨院の御幸がありますが、冷泉富小路殿は後嵯峨院御所の冷泉万里小路殿のすぐ近くなので、関白以下、「公卿右大将以下七八人許」は「歩儀」です。
近衛基平は「同先日一院御覧」、即ち(2)と同じだとして6行で済ませています。
こうして見ると、『増鏡』は「後嵯峨院五十賀試楽」を正月二十四日ではなく閏正月二十四日に、「富小路殿舞御覧」を閏正月十七日ではなく二月十七日に、それぞれ一ヵ月ずらしているだけで、まあ、この程度のことだったら単なる勘違いかもしれないですね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5148c1dbad3f79138a614d98248d0dd7
といった具合です。
また、この結論に至るまでの右往左往については、昨年4月4日の、
第三回中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba09fb48c4e36b4ab0e1d5fac6ea550f
を参照していただければと思います。
「さかゆく花」は『国史大辞典』では「はなのごしょぎょうこうき 花御所行幸記」として立項されていて、次のような説明があります。
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室町時代の行幸に関する記録。もと上下二巻であったと思われるが、現在は『さかゆく花』上と内題のあるもの一巻だけが残る。『永徳行幸記』『後円融天皇花御所行幸記』『室町殿行幸記』ともいう。作者については、『図書寮典籍解題』文学篇では二条良基の仮名文作品に入れているが、確かなことはわからない。しかし、本書の序説における室町幕府三代将軍足利義満の権勢や善美を尽くした室町第の描写などの記述から推察すれば、義満の右筆、またはそれに類する者の作かとも考えられる。また成立時期についても行幸後あまり時期を隔てないころの作かとも思われるが、確かなことは不明である。内容的には、永徳元年(一三八一)三月十一日に御方違の例に准じて後円融天皇が足利義満の室町第、いわゆる花の御所へ行幸された際の行路、供奉の公卿達、昼の御座の宴や、翌十二日の舞楽御覧の記事などが記されている。そして、おそらく十七日の還幸までの下巻に相当する部分もあったものと思われるが、今は散佚している。刊本は『群書類従』帝王部所収。【参考文献】『群書解題』二下「さかゆく花上」
(鈴木成正)
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また、少し検索してみたところ、「国士舘大学学術情報リポジトリ」で桑山浩然氏の「室町時代における将軍第行幸の研究─永徳元年の足利義満第行幸」(『国士舘大学文学部人文学会紀要』36号、2003年12月) という論文を読むことができますね。
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6697&item_no=1&page_id=13&block_id=21
この論文の構成は、
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はじめに
一 足利義満の公家社会参入と行幸
二 永徳行幸の史料
三 渡御の儀
四 歓迎の芸能プログラム
五 蹴鞠と舟遊び
六 還御の儀─行幸の意味するところ─
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となっていて、桑山氏は「二 永徳行幸の史料」の「さかゆくはな」についての書誌的説明の後で、
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著者は明示されていないが、部外者では目にすることのできない禁裏の奥における状況をはじめ、行幸の一部始終について詳細な情報を持っていることを考えると、後述するように、私が行幸の演出者に比定する二条良基を宛てることが出来るかもしれない。
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と言われています。(p18)
また、「四 歓迎の芸能プログラム」の次の記述は興味深いですね。(p21以下)
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ところで、永徳行幸のプログラムには一つの先例らしきものがある。「鎌倉中期にあって、王朝世界を正当に継承していた集団─宮中・院および西園寺家─の最大規模の雅会」(井上宗雄)とも評される弘安八年(一二八五)に行われた北山院の九十賀宴である。
北山院というのは、鎌倉時代後期の公家社会における一代権力者、後嵯峨院の義母に当たる人物、中宮大宮院の母(西園寺実氏の室)のことである。後深草・亀山両天皇には祖母に当たり、鎌倉公家社会のゴッドマザーとも称しうる人物である。その北山院のしかも当時ではきわめて稀な九〇歳の長寿を祝う賀宴であった。自伝的な文学作品『とはすかたり』を書き残した女性、後深草院二条(久我雅忠女)は、実際にこの宴に列なっており、盛儀の様を克明に書き残した。『増鏡』の中にも相当の紙幅を割いて記事があり、文章の類似から、この部分は『とはすかたり』を下敷きにして作られたものとされている。現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)をはじめ、『増鏡』の記述などから考えると、この他にも今は伝わらない多くの記録が作られたものと考えられ、鎌倉時代の公家社会では有数の行事であった。
その北山院九十賀宴のスケジュールは、
二月二九日 西園寺行幸
二月三〇日 舞楽
三月一日 御遊(管弦) 和歌御会 蹴鞠
というものであった。
西園寺というのは、鎌倉公家社会の第一人者西園寺氏の邸宅があった場所で、後年、足利義満は荒れていたその跡地を譲り受け、時代の呼称ともなる北山山荘を造営することになる。
二日目以降のスケジュールでは、古くからある舞楽、管弦や和歌のほかに、鎌倉時代に入ってから公家社会に定着、普及することになる蹴鞠が行われていることは注意しておいてよいだろう。
永徳元年行幸の際にも、
三月十一日 行幸の儀、晴御膳、賜盃、
十二日 舞御覧、
十四日 御鞠、和歌御会、
十五日 和歌御会、後宴御鞠、御船遊(和歌、詩歌、管弦、)
となっていて、和歌と舞楽や管弦、それに蹴鞠という構成は変わらない。
蹴鞠は院政期ころから公家社会に普及し、鎌倉時代初期になると、源頼家や実朝らもこれを習い、京都の公家だけでなく鎌倉の武家社会にもある程度は普及していたと考えらえる。とはいえ、戦乱が続く南北朝の時期には武家が蹴鞠をしたという記録は見あたらない。永徳行幸の時に蹴鞠を行ったのは、足利義満を除けばいずれも公家である。武家社会ではほとんど普及していないにも関わらず、二条良基は、北山院九十賀宴で晴れの行事とされた蹴鞠を充分意識しながらプログラムを作ったのであろうと想像される。良基は、『増鏡』で大きく描くあこがれの王朝絵巻を、天皇の行幸という機会をとらえて足利義満によって再現しようと図っていたのではないか、と言うことが出来ようし、義満もまたよくそれに答えていたのであった。
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桑山氏は一貫して「北山院」と書いていますが、これはもちろん「北山准后」の誤りです。
女院と准后では女院の方が格上で、しかも「北山院」といえば足利義満の正室、日野康子に与えられた称号ですから、桑山氏が何故にこのような勘違いをしたのか、ちょっと不思議です。
しかも途中で「現在残る『北山准后九十賀記』(滋野井実冬記、未刊)」に言及しているにも拘らず、その後、再び「北山院」に戻ってしまっているのはどうしたことなのか。
日野康子(1369-1419)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%BA%B7%E5%AD%90
桑山氏、割と最近亡くなったような感じがしていたのですが、2006年にご逝去なんですね。
桑山浩然(1937-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%B1%B1%E6%B5%A9%E7%84%B6
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月 2日(土)12時47分52秒
猪瀬氏作成の「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)には謎が多いのですが、一番の疑問は「貞治三年舞御覧記」に記された貞治三年(北朝年号、1364)三月二十六日の舞御覧が入っていないことです。
猪瀬氏は(その1)で引用した、
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すでに小川剛生によって「宮廷誌」は一代一度の儀礼が多い点が指摘されている(前節参照)。特に顕著なのが、御賀に代表される、天皇の行幸をともない、複数日に渡って舞、船楽、蹴鞠、三席(歌会、作文、御遊)などが行われる儀である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de215cb75f02ab2bb5f6f7dff18fdf4f
に付された注17において、
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(17) 例えば文永の後嵯峨院五十御賀試楽を記録した仮名記は『文永五年院舞御覧記』、元弘の後醍醐天皇西園寺北山第行幸を記録した仮名記は『舞御覧記』、永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される。
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と言われているのですが(p123)、「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記」の名称が「貞治三年舞御覧記」のはずがありません。
少なくとも私の知っている「貞治三年舞御覧記」は『続群書類従』第五百二十八、管弦部二で「文永五年院舞御覧記」の直後に載っている漢文の記録であり、「さかゆく花」とは別物です。
「さかゆく花」は『群書類従』巻三十九に載っていて、こちらは確かに仮名記ですね。
国会図書館デジタルコレクションでも確認できます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879433/257?tocOpened=1
うーむ。
貞治三年舞御覧記=さかゆく花、というのはどこのパラレルワールドの話なのでしょうか。
>筆綾丸さん
>『源氏物語』では「舞御覧」はすべて冬なんですね。
「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)を見ると、全部で十四の舞御覧のうち、最初の康保三年(966)大内裏での「侍臣舞」は十月七日、二番目の長保三年(1001)土御門殿での「東三条院四十御賀」は十月九日ですね。
そして三番目の康和四年(1102)高陽院殿での「白河院五十御賀」以降は概ね三月になっています。
例外は八番目、文永五年(1268)の「後嵯峨院五十御賀」ですが、これは本来の儀式は三月を予定していたところ、二月に元の使者が来て京・鎌倉ともその対応で大騒ぎになって中止となり、行なえたのは「試楽」だけだったという事情があります。
結局、『源氏物語』の「舞御覧」は当時の実例を反映しているものの、白河院政期以降に実施時期が冬から春に変化したということのようですね。
>「紅葉賀巻」
「紅葉賀」については以前、少しやりとりしましたね。
猪瀬氏も四条隆房『安元御賀記』の「類従本系」に関連して「紅葉賀」に若干言及しています。(p116)
「巻五 内野の雪」(その6)─後嵯峨院、石清水御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23d3aeb7e26b0d3db74489ee53d35a66
紅葉賀(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9244
「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccb2bd809899fcfd234c134aab2e658d
『源氏物語』「紅葉賀」との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b67866382d08491170a8d1ae0a312d67
作者(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9257
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
『中世王権の音楽と儀礼』の引用文中に、
「一点目に、まず舞御覧(特に御賀)が行なわれる季節は、ほとんどが春、旧暦の三月の初旬、つまり花の盛りの時期であるということである。」
とありますが、『源氏物語』では「舞御覧「」はすべて冬なんですね。
「紅葉賀巻」では神無月十日あまり、「藤裏葉巻」の光源氏四十賀では神無月廿日あまり、「若菜下巻」の朱雀院五十賀では十二月廿五で、ただの物語とはいえ、御堂関白(道長)を読者の一人に想定していたのが事実であれば、紫式部がひねくれていただけなのかもしれませんが、花の盛りの春の舞御覧がひとつもない、というのは少し気になりました。
追記1
https://tokyosymphony.jp/pc/concerts/detail?p_id=MNdho%2BdSPvE%3D
過日、『金閣寺』をみましたが、クラウス・H・ヘンネベルクの台本が悪く、まことにつまらぬオペラでした。黛敏郎の音楽にもがっかりしました。これを見ずに死んだ三島は幸せですね。
台本がドイツ語なので、日本語と英語の字幕があり、たとえば、
「金閣寺は燃えなければならぬ。The golden temple must burn.」
という台詞があるのですが、これは、
「金閣寺を焼かねばならぬ。The golden temple must be burned.」
とすべきで、must burn では、金閣寺が自分の意思で発火するというようなニュアンスになるんじゃないの、と思いました。ドイツ語の台本を見てみたいところです。ほかにも妙な英訳があり、なんだかなあ、という感じでした。
追記2
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/01/102524.html
http://www.chuko.co.jp/contact.html
私は昔から歌仙に興味があり、『歌仙はすごい 言葉がひらく「座」の世界』を楽しく読んだのですが、十ヶ所ほど疑問を覚え、「中公新書:cshinsho@chuko.co.jp」に照会してみました。しかし、「※ご質問によってはお答えできない場合もございます。ご了承下さい。」ということらしく、返信はありませんでした。嫌味な質問をしたわけではないのですが(笑)、読者と座は共有しない、ということのようですね。