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四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について

2020-04-10 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月10日(金)10時33分42秒

少し脱線します。
去年、櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子著『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』(笠間書院、2017)をきっかけに四条隆房(1148-1209)について色々考えてみたので、隆房はこの掲示板ではお馴染みの存在です。

「自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6703ff7fe27f91124f8f3212ecd5e21c
「なぜ、これほどまで、隆房が陰に陽に登場するのでしょう」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbcfa49a126ba3923496a500b44ee277
「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37bc204a27979ec252726d8e427d1e56
「久我の内大臣まさみちといひし人のむすめ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ab76a839eb0083d28c8781849db4898
)「胸騒ぐといへば、おろかなり」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12c8d7121f8fe6bc28919ae9f1812a75
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9055fa232ce98cac82a671abc0a39a0
「『平家公達草紙』は「耳無し芳一の話」と違って、創作ではない」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dbef8e305c0f78513076d29540bfd65
「晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施……」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71c30024fe4fd062474564bac25a00a1

さて、『古今著聞集』が載せる盗賊団の女首領「大納言」の事件は、首都の治安の責任者、いわば現在の警視総監のような存在であった検非違使別当の邸宅が盗賊団の隠れ家になっていた点に面白みがありますが、これが事実だとして、いったい何時の出来事かというと、隆房が検非違使別当であった時期ですね。
『公卿補任』を見ると、隆房は寿永二年(1183)、三十六歳で参議となって『公卿補任』に初登場し、文治三年(1187)九月二十四日に検非違使別当に就任、文治六年(建久元年。1190)七月十八日、別当を辞して右衛門督に転じていますから、この約三年間、隆房が四十歳から四十三歳までの間の話です。
検非違使別当を辞した時点で隆房は権中納言・正三位ですが、建久六年(1195)従二位、建久十年(正治元、1199)中納言・正二位、翌年散位となり、建仁四年(元久元、1204)に権大納言で、これが極官です。
この時、隆房は五十七歳ですが、翌年これを辞し、元久三年(建永元、1206)に五十九歳で出家ですから、富裕で鳴らした四条家といえども官位官職は、まあ、こんなものなのかな、という感じですね。
ちなみに嫡子の隆衡(1172-1255)は建仁二年(1202)、三十一歳で参議となり、承久元年(1219)、四十八歳で極官の権大納言ですから、父・隆房よりは少し早いですね。
隆衡の嫡子である隆親(1203-79)となると、元仁二年(1225)に二十三歳で参議、嘉禎四年(1238)に三十六歳で権大納言ですから、隆房・隆衡より相当早く、更に建長二年(1250)には四十八歳で大納言となります。
そして隆親の嫡子の隆顕(1243~?)の場合、康元二年(正嘉元、1257)に十五歳で参議、正嘉三年(1259)検非違使別当、文応二年(弘長元、1261)権中納言、文永六年(1269)に二十七歳で権大納言ですから、隆親よりも相当早い昇進で、ちょっとびっくりですね。
『とはずがたり』には小太りの軽妙洒脱な叔父さんとして登場する隆顕ですが、隆親の権勢、そして母が足利義氏の娘という特別な出自を背景に、出世街道を驀進した人でもあります。
ところで、隆親室で隆顕の母となった足利義氏の娘は諸記録に「能子」とありますが、足利家の系図を見ても祖先や周囲に「能」の字の人がいません。
これは私にとって二十年来の謎で、後の時代の上杉氏に重能・能憲といった「能」の人たちが出てくるから何か関係があるのかな、などと妄想を逞しくしていたのですが、素直に考えれば「義」と「能」は「よし」という読み方は共通ですね。
角田文衛氏が女性名の訓読みに執拗にこだわった点については、女性名は正式な書類に名前を記す必要が生じたときに父親の名前等から一字を取ってつけたものであって、実際にその名で呼ばれることなどないのだから読み方など気にする必要はない、という批判が有力であり、私もそれは正しいと思います。
しかし、実際に名前をつける必要が生じた場合、父の二字だけでは選択肢が限られ、娘が何人もいるような場合には不便ですから、読み方が同じの他の字をつける、ということも考えられるように思います。
四条隆親の周辺では、後深草院二条の母となった「大納言典侍」が「近子」とされており、私にとってはこの「近子」も二十年来の謎でした。
というのは、この「近」という字が四条家系図に全く見当たらないからなのですが、「親」と「近」は「ちか」という訓読みで共通ですから、「親子」の代わりに「近子」とした可能性も十分考えられそうです。
後嵯峨天皇の周辺には、源通親の娘で「大納言二位」と呼ばれていた「親子」という女性もいたようで、この人と名前が重なることを憚ったのかもしれません。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27

というようなことを、先ほど思いついたのですが、どんなものでしょうか。
これが正しいとすれば、上杉氏に「能」の字の人が出てくるのは、鎌倉時代において足利家の全盛期を築いた義氏にあやかって、「よし」の読み方をもらった、という見方もできそうです。
以上、通字に詳しい方のご意見をいただければ幸いです。
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