投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月12日(火)12時39分7秒
『中世王権の音楽と儀礼』は既発表論文が半分、新稿が半分なので、猪瀬氏も新稿に気を取られてしまって既発表論文へのチェックが疎かになったのかもしれないですね。
また、読者側としても、そもそも「舞御覧」みたいなものに興味を持つ人が僅少で、細部まで熟読した人が殆どいないのかもしれません。
もともと私は、『増鏡』との関係で、後醍醐天皇の西園寺訪問を記した『舞御覧記』という史料に尋常ならざる興味を持っているのですが、『舞御覧記』については平泉澄の直弟子である歴史学者・平田俊春(防衛大学校名誉教授、1911-94)に「増鏡の成立に関する一考察─舞御覧記との関係について」(『国語と国文学』16巻7号)という昭和十四年(1939)の古い論文があるだけで、歴史学者・国文学者の関心が極めて薄い状況が続いています。
そのような中で、猪瀬氏の「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」は、「舞御覧」を広く概観できるだけでも本当に貴重な業績なのですが、やはり「[表] 舞御覧における仮名記、御所作、舞、一覧」(p113)は不正確と言わざるを得ず、全面的に見直しをしてほしいですね。
『五代帝王物語』や近衛基平の『深心院関白記』以外にも「舞御覧」という用語が登場する史料はまだありそうですし、また、史料用語としての「舞御覧」と学術用語としての「舞御覧」の関係についても再考してほしいと思います。
猪瀬氏は、
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二 舞御覧の特質
すでに小川剛生によって「宮廷誌」は一代一度の儀礼が多い点が指摘されている(前節参照)。特に顕著なのが、御賀に代表される、天皇の行幸をともない、複数日に渡って舞、船楽、蹴鞠、三席(歌会、作文、御遊)などが行われる儀である。あとに述べるが廷臣とその子息による舞楽が骨子となるために、しばしば「舞御覧」の名で称される儀礼である。以下、御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼の上位概念として「舞御覧」の用語を用いるが、ここで考えたいのは舞御覧においてたびたび「宮廷誌」が作成されている事実である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de215cb75f02ab2bb5f6f7dff18fdf4f
と言われていますが、「御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼の上位概念として「舞御覧」の用語を用いる」とされる点、非常に分かりにくいですね。
「御賀や複数日の臨時行幸といった儀礼」の「上位概念」が「舞御覧」ならば、史料用語として「御賀」となっていたり、名称の如何を問わず「複数日の臨時行幸」を内容とする行事であれば、それらは全て「舞御覧」に包摂されてしまうのか。
おそらく猪瀬氏の意図は異なると思いますが、そうであれば、むしろ史料上に「舞御覧」と出てくる儀礼について、その構成要素を列挙して、その中で重要なのはこれこれだから、これこれの要件を全て備えるものを学術用語としての「舞御覧」とする、といった整理の方が良さそうな感じがします。
ま、そんなエラソーなことを言うのならお前がやれ、と言われそうですが、私には史料をバリバリ渉猟する能力がないので、あくまで希望であります。
なお、既に消滅した旧サイトで「舞御覧記」と平田俊春「増鏡の成立に関する一考察─舞御覧記との関係について」を紹介しておいたのですが、今はこちらで読めます。
原文を見る-『舞御覧記』
http://web.archive.org/web/20150429002147/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-maigoranki-index.htm
平田俊春 「増鏡の成立に関する一考察-舞御覧記との関係について-」
http://web.archive.org/web/20150917033355/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-maigorannoki.htm
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月12日(火)10時55分13秒
巻末の「初出一覧」(p419)を見ると、「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」は『国語と国文学』90巻1号(2013年)に掲載されたそうですね。
『国語と国文学』は「東京大学国語国文学会編集による国文学研究誌」で、発行元の明治書院によれば「国語国文学研究のもっとも良質な成果の発表誌」であり、「毎号高水準を保つ投稿論文を掲載。国文学研究者の登竜門」だそうです。
ま、国文学研究者と特に交流のない私から見ても、これは大袈裟な宣伝文句という訳ではなく、多くの国文学者の評価にそれなりに近いのではないかと思われます。
雑誌「國語と國文學」のご案内
https://www.meijishoin.co.jp/news/n3307.html
まだ確認していませんが、おそらく「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」(p123)は2013年の論文に既に記述されていたのでしょうね。
「あとがき」には、
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本書は二〇一三年に名古屋大学へ提出した学位論文に基づいている。審査にあたっては、主査を阿部泰郎先生として、佐々木重洋先生、塩村耕先生、稲葉伸道先生、二松學舎大学の磯水絵先生に担当いただいた。また学位収得後は日本学術振興会特別研究員(PD)として、二年間を上野学園大学日本音楽史研究所の福島和夫先生に、一年間を東京大学史料編纂所の菊地大樹先生に受け入れてもらった。特に史料編纂所での一年は、他の何にも代えがたい貴重な体験となった。
この途につくまでに、数限りない人たちのお世話になった。修士課程から今日にいたるまで学問と接していられたのは、指導教官である阿部先生のおかげである。筆者が日本文学研究者であると言えるようになったのは、塩村先生の指導によるものに他ならない。学部での指導教官であった中本大先生、折に触れ発表の機会を提供してくれる近本謙介先生、関東での研究会の居場所を与えてくれた菅野扶美先生、研究者として常に対等に接してくれる柴佳世乃先生、述べ尽くせない限りの学恩を賜っている高岸輝・山本聡美先生夫妻にも謝辞の言葉を述べたい。
また本書の校正にあたっては、松山由布子氏と若山憲昭氏の助力を得た。名古屋大学の旧比較人文学講座(現文化人類学研究室)は、異なる専門を持つ人々が領域横断的な研究を試みる場であり、著者も自主ゼミ等を通してその一端に触れ、積み重ねられた学問への敬意と尊重とを知ることができた。休日にも院生室に出てくるのは、決まって松山氏と青木啓将氏と著者の三人だった。背を向けながら喋るともなく喋っていた毎日を懐かしく思う。若山氏とはもちろん、立命古美研との付き合いは今も続いている。古美研で妻と出会い、やがて研究という生き方を共有してくれる上田の御両親に出会えたことに不思議な縁を感じる。
本書の編集を担当してくれた笠間書院の重光徹氏には、感謝以外の言葉もない。刊行にいたるまでずっと息切れし続けてきた著者を、よくも見捨てないでくれたと思う。前任の岡田圭介氏は、本書企画段階からずっと著者を支え続けてきてくれた。社長の池田圭子氏は、著者が切羽詰って原稿を届けに行くのを、いつもあたたかく迎えてくれた。いずれもみな素晴らしい人たちばかりである。
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とありますが(p424以下)、ここに名前が上がっている人々の全てが2013年の『国語と国文学』掲載論文を読んだ訳ではなくとも、少なくとも「指導教官である阿部先生」以下、それなりの方々が読んでいたはずです。
ということで、「永徳」と「貞治」が元号であることを知っている人であるならば一読して奇妙に思うはずの、殆ど日本語としておかしいレベルの「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」という一文は、著者周辺の著名な学者たちに誤りを指摘されることも、斯界の一流専門誌『国語と国文学』の多数の読者から疑問を呈されることもなく、著者と親しい若手研究者と出版社の校正も潜り抜けて『中世王権の音楽と儀礼』に生き残った、ということになりそうです。
ふーむ。
いささかシュールな味わいがありますね。
巻末の「初出一覧」(p419)を見ると、「第四章 歴史叙述における仮名の身体性と祝祭性─定家本系『安元御賀記』を初発として」は『国語と国文学』90巻1号(2013年)に掲載されたそうですね。
『国語と国文学』は「東京大学国語国文学会編集による国文学研究誌」で、発行元の明治書院によれば「国語国文学研究のもっとも良質な成果の発表誌」であり、「毎号高水準を保つ投稿論文を掲載。国文学研究者の登竜門」だそうです。
ま、国文学研究者と特に交流のない私から見ても、これは大袈裟な宣伝文句という訳ではなく、多くの国文学者の評価にそれなりに近いのではないかと思われます。
雑誌「國語と國文學」のご案内
https://www.meijishoin.co.jp/news/n3307.html
まだ確認していませんが、おそらく「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」(p123)は2013年の論文に既に記述されていたのでしょうね。
「あとがき」には、
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本書は二〇一三年に名古屋大学へ提出した学位論文に基づいている。審査にあたっては、主査を阿部泰郎先生として、佐々木重洋先生、塩村耕先生、稲葉伸道先生、二松學舎大学の磯水絵先生に担当いただいた。また学位収得後は日本学術振興会特別研究員(PD)として、二年間を上野学園大学日本音楽史研究所の福島和夫先生に、一年間を東京大学史料編纂所の菊地大樹先生に受け入れてもらった。特に史料編纂所での一年は、他の何にも代えがたい貴重な体験となった。
この途につくまでに、数限りない人たちのお世話になった。修士課程から今日にいたるまで学問と接していられたのは、指導教官である阿部先生のおかげである。筆者が日本文学研究者であると言えるようになったのは、塩村先生の指導によるものに他ならない。学部での指導教官であった中本大先生、折に触れ発表の機会を提供してくれる近本謙介先生、関東での研究会の居場所を与えてくれた菅野扶美先生、研究者として常に対等に接してくれる柴佳世乃先生、述べ尽くせない限りの学恩を賜っている高岸輝・山本聡美先生夫妻にも謝辞の言葉を述べたい。
また本書の校正にあたっては、松山由布子氏と若山憲昭氏の助力を得た。名古屋大学の旧比較人文学講座(現文化人類学研究室)は、異なる専門を持つ人々が領域横断的な研究を試みる場であり、著者も自主ゼミ等を通してその一端に触れ、積み重ねられた学問への敬意と尊重とを知ることができた。休日にも院生室に出てくるのは、決まって松山氏と青木啓将氏と著者の三人だった。背を向けながら喋るともなく喋っていた毎日を懐かしく思う。若山氏とはもちろん、立命古美研との付き合いは今も続いている。古美研で妻と出会い、やがて研究という生き方を共有してくれる上田の御両親に出会えたことに不思議な縁を感じる。
本書の編集を担当してくれた笠間書院の重光徹氏には、感謝以外の言葉もない。刊行にいたるまでずっと息切れし続けてきた著者を、よくも見捨てないでくれたと思う。前任の岡田圭介氏は、本書企画段階からずっと著者を支え続けてきてくれた。社長の池田圭子氏は、著者が切羽詰って原稿を届けに行くのを、いつもあたたかく迎えてくれた。いずれもみな素晴らしい人たちばかりである。
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とありますが(p424以下)、ここに名前が上がっている人々の全てが2013年の『国語と国文学』掲載論文を読んだ訳ではなくとも、少なくとも「指導教官である阿部先生」以下、それなりの方々が読んでいたはずです。
ということで、「永徳」と「貞治」が元号であることを知っている人であるならば一読して奇妙に思うはずの、殆ど日本語としておかしいレベルの「永徳の後円融天皇の足利室町第行幸を記録した仮名記は『貞治三年舞御覧記(さかゆく花)』と称される」という一文は、著者周辺の著名な学者たちに誤りを指摘されることも、斯界の一流専門誌『国語と国文学』の多数の読者から疑問を呈されることもなく、著者と親しい若手研究者と出版社の校正も潜り抜けて『中世王権の音楽と儀礼』に生き残った、ということになりそうです。
ふーむ。
いささかシュールな味わいがありますね。