投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月20日(水)23時11分13秒
「講談社BOOK倶楽部」の『平家後抄(上)』の「内容紹介」には「北山の准后藤原貞子に仮託して、壇ノ浦以後の平家の動静を克明にたどる名著」とありますが、角田文衛氏は別に「北山の准后藤原貞子」の回想録を偽造した訳でも、彼女を語り手とする小説を書いた訳ではないのですから、「仮託」という表現は変な感じですね。
講談社の編集者ないし宣伝担当者がどこから「仮託」という表現を見つけて来たかというと、それらしき箇所が「序章 北山の准后」にあることはあります。
そこに辿り着くまでの前提として、「序章 北山の准后」の冒頭を少し引用すると、
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貞子の回想
北山の准后〔ずごう〕の名で朝野の尊崇を一身にあつめていた藤原貞子がその永い生涯を閉じたのは、後二條天皇の乾元元年(一三〇二)十月一日のことであった。日本の歴史を通じて、この貞子ほど栄耀と長寿に恵まれた女性は稀であって、『増鏡』(第十『老のなみ』)にも、
いとやんごとなかりける御さいはひなり。むかし御堂殿の北方、鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。
とみえ、貞子の幸福は、藤原道長の正妻で、九十歳の高齢まで生きた源倫子に劣らぬ旨が叙べられている。
実際、貞子の九十歳の算賀が盛大に催されたのは、弘安八年(一二八五)二月三十日のことであったが、その祝賀は、後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇、大宮院(藤原※子)、東二條院(藤原公子)、新陽明門院(藤原位子)、東宮(後の伏見天皇)の臨御のもとに、北山の西園寺第(今の金閣寺のあたり)で華々しく催され、まことにそれは未曾有の盛儀であった。その次第は、『増鏡』(第十「老のなみ」)や藤原〔滋野井〕実冬(一二四四~一三〇四)の『北山准后九十賀記』などに詳しく書きとどめられており、ほとんど余すところがない。
弘安八年に九十歳を慶祝された貞子は、その後も健在であって、乾元元年まで生き続けたのであるから、彼女の享年はなんと百七歳であった。柳原家の藤原紀光(一七四七~一八〇〇)などもこれに触れて、
按ずるに、本朝、大臣武内宿禰のほか、高位の人の百余歳は未だ曾て有らず。奇代の寿考なり。
と、愕きを示している。
享年が百七歳であったのであるから、貞子は後鳥羽天皇の建久七年(一一九六)に生まれたわけである。つまり彼女は、鎌倉時代のほとんど全部を生き抜いた、世にも稀な貴女であった。
※女偏に「吉」
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といった具合です。(p15以下)
『平家後抄』は「貞子の回想」という紛らわしい小見出しで始まることは確かですが、内容は各種史料に基づき記述されたごく普通の歴史叙述ですね。
すぐ後に隆房も登場するので続けて紹介すると、
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建久七年と言えば、壇ノ浦の合戦から十年ばかり後であって、幼い頃の貞子の周りには、壇ノ浦から生還した女性たちや、平家の縁故者、同情者がまだ群をなしていた。
貞子の父は、四條家の権大納言・藤原隆衡(一一七二~一二五四)であった。この隆衡の母、つまり貞子の祖母は、太政大臣・平清盛の娘で、建礼門院のすぐ下の同母妹であった。祖母は、貞子がまだ四歳の時に歿したから、彼女の記憶には祖母の俤はほとんどあとをとどめていなかったであろうが、平家の強力な同情者、支持者として終始一貫した祖父の権大納言・隆房(一一四八~一二〇六)は、なお健在であった。
後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四條家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸-四條大宮第-に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮かに残っていたはずである。
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ということで(p16以下)、貞子自身の回想の記録は残っていないので結局は推測に止まるものの、第一章以下ではそれなりに根拠を示したうえでの説明がなされており、別に貞子に「仮託」した記述は全巻通じて存在しません。
この後、後深草院二条も登場するのですが、長くなったのでいったんここで切ります。
「講談社BOOK倶楽部」の『平家後抄(上)』の「内容紹介」には「北山の准后藤原貞子に仮託して、壇ノ浦以後の平家の動静を克明にたどる名著」とありますが、角田文衛氏は別に「北山の准后藤原貞子」の回想録を偽造した訳でも、彼女を語り手とする小説を書いた訳ではないのですから、「仮託」という表現は変な感じですね。
講談社の編集者ないし宣伝担当者がどこから「仮託」という表現を見つけて来たかというと、それらしき箇所が「序章 北山の准后」にあることはあります。
そこに辿り着くまでの前提として、「序章 北山の准后」の冒頭を少し引用すると、
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貞子の回想
北山の准后〔ずごう〕の名で朝野の尊崇を一身にあつめていた藤原貞子がその永い生涯を閉じたのは、後二條天皇の乾元元年(一三〇二)十月一日のことであった。日本の歴史を通じて、この貞子ほど栄耀と長寿に恵まれた女性は稀であって、『増鏡』(第十『老のなみ』)にも、
いとやんごとなかりける御さいはひなり。むかし御堂殿の北方、鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。
とみえ、貞子の幸福は、藤原道長の正妻で、九十歳の高齢まで生きた源倫子に劣らぬ旨が叙べられている。
実際、貞子の九十歳の算賀が盛大に催されたのは、弘安八年(一二八五)二月三十日のことであったが、その祝賀は、後宇多天皇、後深草上皇、亀山上皇、大宮院(藤原※子)、東二條院(藤原公子)、新陽明門院(藤原位子)、東宮(後の伏見天皇)の臨御のもとに、北山の西園寺第(今の金閣寺のあたり)で華々しく催され、まことにそれは未曾有の盛儀であった。その次第は、『増鏡』(第十「老のなみ」)や藤原〔滋野井〕実冬(一二四四~一三〇四)の『北山准后九十賀記』などに詳しく書きとどめられており、ほとんど余すところがない。
弘安八年に九十歳を慶祝された貞子は、その後も健在であって、乾元元年まで生き続けたのであるから、彼女の享年はなんと百七歳であった。柳原家の藤原紀光(一七四七~一八〇〇)などもこれに触れて、
按ずるに、本朝、大臣武内宿禰のほか、高位の人の百余歳は未だ曾て有らず。奇代の寿考なり。
と、愕きを示している。
享年が百七歳であったのであるから、貞子は後鳥羽天皇の建久七年(一一九六)に生まれたわけである。つまり彼女は、鎌倉時代のほとんど全部を生き抜いた、世にも稀な貴女であった。
※女偏に「吉」
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といった具合です。(p15以下)
『平家後抄』は「貞子の回想」という紛らわしい小見出しで始まることは確かですが、内容は各種史料に基づき記述されたごく普通の歴史叙述ですね。
すぐ後に隆房も登場するので続けて紹介すると、
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建久七年と言えば、壇ノ浦の合戦から十年ばかり後であって、幼い頃の貞子の周りには、壇ノ浦から生還した女性たちや、平家の縁故者、同情者がまだ群をなしていた。
貞子の父は、四條家の権大納言・藤原隆衡(一一七二~一二五四)であった。この隆衡の母、つまり貞子の祖母は、太政大臣・平清盛の娘で、建礼門院のすぐ下の同母妹であった。祖母は、貞子がまだ四歳の時に歿したから、彼女の記憶には祖母の俤はほとんどあとをとどめていなかったであろうが、平家の強力な同情者、支持者として終始一貫した祖父の権大納言・隆房(一一四八~一二〇六)は、なお健在であった。
後に述べるように、隆房夫妻は、建礼門院を大原から四條家の菩提寺の善勝寺に引き取ってお世話していたし、また平知盛の未亡人の治部卿局を自邸-四條大宮第-に住まわせていた。貞子は、少女の時分から年に何回となく祖父や両親につれられて白河の善勝寺に参詣したに相違ない。そしていくたびかその寺で静かに余生を送っておられる建礼門院を拝し、昔語りを承ったことであろう。この悲劇の女主人公であった女院の印象と懐旧談の数々は、生涯彼女の脳裡に鮮かに残っていたはずである。
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ということで(p16以下)、貞子自身の回想の記録は残っていないので結局は推測に止まるものの、第一章以下ではそれなりに根拠を示したうえでの説明がなされており、別に貞子に「仮託」した記述は全巻通じて存在しません。
この後、後深草院二条も登場するのですが、長くなったのでいったんここで切ります。