投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 3月31日(日)10時33分36秒
>筆綾丸さん
>北山准后(1196-1302)の介護は、歳が歳だけに、苦労したでしょうね。
鎌倉時代の御長寿・元気老人というと菅原為長(1158-1246)の名前が浮かんできますが、この人の場合、「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」を廻る公家政権内の大激論で独自の理論を展開し、御年八十七歳でありながらその恐るべき頭脳明晰さを誇示しています。
早川庄八「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」
http://web.archive.org/web/20081231165357/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayakawa-shohachi-iwashimizu.htm
しかし、北山准后の場合、
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実のところ、平清盛の曾孫に生まれ、極めて平家的な環境の中で育ち、かつ鎌倉時代を生き抜いた藤原貞子ほど『平家後抄』の著者として好適な人物は、他に求め得ないであろう。しかし貞子は、父や弟の隆親とは違って文才に恵まれなかったらしく、親しく見聞した平家一門の人びとの動きについては、なにひとつ記録を遣さなかった。『とはずがたり』の作者・二条は、貞子の義理の孫、つまり養女の近子が産んだ娘であった。なぜ貞子は、この二条に口述・筆記させなかったのであろうか。
これは今さら悔んでも為〔せ〕ん方ないことである。しかしそれだけに北山の准后─従一位・藤原朝臣貞子─に代って壇ノ浦以後の平家の動静について綴ってみようと言う意欲も旺んに盛り上るのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/adfad97edb5de091b83c509169d1c3d7
ということで、角田文衛博士ほどの碩学が探求しても彼女の実像は見えてきません。
角田博士が探しても出てこないのだから私の能力では全く無理で、彼女の動静について究明しようという意欲は全然盛り上らなかったのですが、それでも小松茂美氏の「鎌倉 世尊寺經尹 西園寺實氏夫人願文」(日本名跡叢刊第44回配本、二玄社、1980)を見て、弘安五年(1282)に自らの逆修供養を行なった尼「尊深」が藤原貞子であることを知りました。
ただ、この願文自体は貞子が専門家に依頼したものであって、八十七歳時点での貞子自身の知的能力は分かりません。
小松茂美「鎌倉 世尊寺經尹 西園寺實氏夫人願文」
http://web.archive.org/web/20080307024211/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/komatu-shigemi-ganmon.htm
また、無外如大という禅宗史上かなり重要な女性を調べているときに、「理宝」という女性が建治三年(1277)に、如大ゆかりの景愛寺の敷地を寄進したことを知ったのですが、この「理宝」は藤原貞子とされています。
即ち、山家浩樹氏の「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、1993)によれば、
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如大は、景愛寺長老と称されることが多い。『仏光国師語録』に所収される、如大所持の無学像の自賛に付された注記も、その一例であり、存生時からの呼称だったと思われる。景愛寺創建の経緯は、『宝鏡寺文書』に案文の伝わる、建治三(1277)年の理宝の寄進状に明らかである。寄進地は五辻通りに南面する「五辻御地」、景愛寺の敷地で、他史料から、五辻大宮の北西とわかる。「代々の貴所」であるが、尼寺建立のため、「ひくに如大房」に施入するとあり、「みや/\の御いのり」「故御所の御けうよう」を頼み、「みや/\の御中」などの違乱を止めている。すなわち、如大は景愛寺の開山であり、資寿院、正脈庵に比ベ、如大の立場は、大きく異なる。なお、この寄進状に、景愛寺という名は見えない。無学が如大に与えた書に、景愛寺の語義を解したものがあったらしいが、無学の命名か否か、明らかでない。
確証はないけれども、宝鏡寺や大聖寺の寺伝によると、理宝は、今林准后貞子とされる。貞子は、西園寺実氏の室で、その娘大宮院※子は、後嵯峨天皇中宮となり、後深草・亀山を生んでいる。理宝が貞子の場合、「故御所」とは、五年前に残した後嵯峨法皇を指すのであろう。夫実氏が関東申次を勤めたことから、泰盛娘、顕時室の如大との関わりが生じたのであろうか。また、五辻南、大宮西の地には、かつて後鳥羽天皇の御所、五辻殿があり、五辻宮という親王家も存在するなど、五辻大宮の付近は、天皇家と関わる場所が多く、寄進状に貴所と記され、宮々の違乱が想定されているのは、寄進地もそのひとつであったためだろう。
http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm
という事情があるのですが、「理宝」が藤原貞子であれば、「建治三年八月二十九日理宝施入状案」執筆時点で八十二歳であった貞子は自分の財産を処分する書類を作成する能力は確かにあったことになります。
ただ、ごく短い文章ですから、耄碌してはいなかった程度のことしか判明しません。
ということで、貞子の実像はよく分からず、特に弘安八年(1285)の九十賀の時点で貞子の健康状態がどうだったのかは儀式の次第について詳細を極める『増鏡』や『とはずがたり』を見ても全然記述がありません。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/03/102536.html
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私事では、『朝廷儀礼の文化史』の「あとがき」にも書いたように、相変わらず母を介護の日々である。母も九十歳を超え、新たな不調が色々と出てきて、病院に連れて行くことが多くなった。そのたびに薬の量や種類も増えていく。
介護離職というと大げさだが、現在勤務する大学の非常勤講師でさえ、今後は続けていくことができるのかという懸念も少しある。離職となれば経済的には困るから、依頼される限り続けたいし、新しい依頼にも応じていくつもりだが、母の状態次第ではこの先どうなるかは不透明である。
ただし、母を施設に預ける気などまったくない。母にはこのまま自宅で穏やかに余生を過ごしてほしいと思っている。幸い筆者は、パワーリフティングで鍛えた体力がある。筆者も六十歳を超えたが、世間一般の老老介護にはならない。(近藤好和『天皇の装束』「あとがき」227頁~)
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今上陛下が、退位後、隠居先の高輪界隈を着流しで逍遥する姿を見たいと思いますが、そうはならないでしょうね。
北山准后(1196-1302)の介護は、歳が歳だけに、苦労したでしょうね。
藤原俊成(1114-1204)は、氷室から取り寄せた雪を食べて、死ぬべく覚ゆ、とかなんとか云って死んだ、と『明月記』にありますが、この老人の介護も大変だったろうな、という気がします。