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土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)

2021-12-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年12月 9日(木)13時44分17秒

竹殿については、上杉著の最終章「第十 鎌倉御家人広元の周辺」に、

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 親広に関しては、もう一つだけ指摘しておきたいことがある。『尊卑分脈』によれば北条義時の娘の一人で「竹殿」と号された女性が、親広の「妾〔しょう〕」となっている。他にこのことを裏付ける史料はないが、広元と義時との関係からすれば十分に想定しうる姻戚関係である。興味深いのは『尊卑分脈』がこの女性に対して「後に内大臣土御門定通の妾となった」という趣旨の注記をしていることである。定通は源通親の四男にあたる人物であり、推測になるが、この女性は承久の乱で謀叛人となった親広の許を去った後、広元と土御門家の縁故を辿って定通に再嫁したのではないだろうか。ちなみに、定通の兄で通親の次男にあたる通具(堀川流の祖)は一流の文化人として知られる人物であったが、広元は彼に「帰伏」(服従)していたという(『明月記』安貞元年九月二日条)。通親のみならず、彼に次ぐ世代の人物と広元の結びつきも極めて強いものであったことがうかがえよう。
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とありますが(p187)、「他にこのことを裏付ける史料」としては『公卿補任』がありますね。
そして、「承久の乱で謀叛人となった親広の許を去った後、広元と土御門家の縁故を辿って定通に再嫁した」のではなく、承久の乱の前に親広と離縁し、定通に再嫁したのは明らかだと私は思います。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について

ただ、一昨日の投稿では、

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親広は建保七年(1219)二月、京都守護として竹殿とともに上京したところ、間もなく竹殿に逃げられてしまったのではないかと思います。


と書いてしまいましたが、実は親広の京都守護としての上京は建保七年が二度目だったようです。
一度目の時期ははっきりしないのですが、上杉著には建暦三年(建保元年、1213)五月の和田合戦に関連して次の記述があります。(p137)

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 なお、八日には、義盛蜂起の報を聞いて京都から駆けつけてきた親広が鎌倉に到着している。父広元が義盛の襲撃対象の一人とされたことを、おそらく親広は察していただろうが、反乱鎮圧を知って、親広はさぞかし安堵したにちがいない。この頃の親広は、建保二年のものと推定される年欠六月三十日大江親広請文(「諸尊道場観集紙背文書」、鎌補六四八。越前国守護大内惟義からの大番役勤仕に関する書状に対する請文)より、中原季時(親能の子)とともに京都守護の任について在京していたと推測される。また、建保二年九月二十六日の実朝将軍家政所下文(「金山寺文書」、鎌二一二八)にも政所別当親広の花押が欠けており、親広の在京を示唆している。
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広元の人生において、最初のピンチは建久二年(1191)から翌年にかけての無断任官問題ですが、これは頼朝に怒られただけで、別に生命の危機ということではありません。

大江広元と親広の父子関係(その2)~(その4)

しかし、和田合戦では「憎むべき義時と連携し、自らの上総介任官を妨害した広元に対する怨念」(p133)を抱いていた和田義盛が広元邸を襲撃しており、こちらは本当に生命の危機ですね。
ま、それはともかく、改めて竹殿の生年を考えてみると、竹殿の母の「姫の前」は建久三年(1192)九月に義時と結婚し、翌四年に名越朝時を産んでいるので、竹殿の生年の上限が名越朝時と同じ建久四年(1193)だとして、下限は比企氏の乱が起きた建仁三年(1203)ですね。
とすると、親広が和田合戦の前に京都守護として上洛していたとして、建暦三年(建保元年、1213)時点で竹殿は十一歳から二十一歳の間ということになりますから、当時の上流武家社会の女性の結婚適齢期が十五歳くらいからであることを考えると、生年が早ければ、竹殿も親広とともに上洛していた可能性はありますね。
ただ、私としては、竹殿と離縁した親広を義時が再び京都守護に送り込むのは不自然のような感じがするので、やはり二度目の上洛以降に離縁したのではないかなと思います。
あまり若い時期に離縁・再婚というのも変ですからね。

>筆綾丸さん
>論語の「知者楽水」

群馬県甘楽町には織田信長の子孫が藩主であった小幡藩の庭園「楽山園」があり、荒廃して畑になっていたのを近年綺麗に復原して「織田宗家ゆかりの大名庭園」として公開しているのですが、この名前の由来が論語の「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」ですね。

「国指定名勝 楽山園」

改姓を求める広元の請状に対し、上卿として「いいよ」と言ったのは「正二位行中納言藤原朝臣隆衡」ですが、この人は『とはずがたり』に登場する後深草院二条の祖父・四条隆親の父で、こんなところでお目にかかるとは、と思いました。
隆衡の正室は後鳥羽院の縁者として権勢を振るった坊門信清の娘であり、北山准后・四条貞子(1196-1302)と隆親(1203-79)も正室の子ですね。
ま、だから何なのだ、と言われそうですが、系図マニアとしてはいろいろ気になります。

四条隆衡(1172-1255)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

大江楽水 2021/12/09(木) 12:15:19
小太郎さん
建久二年(1191)十月の辞状と建保四年(1216)閏六月の請状は、形式的なものとはいえ、広元のひととなりが瞥見できる貴重なものですね。月下推敲する男の後ろ姿が見えるようです。
請状中の「大江楽水」が、論語の「知者楽水」を踏まえたものだとすれば、大江(氏)=知者となるわけで、少々、自惚れがすぎやしまいか、という気がしないでもないですね。学者と知者は別物ですから。
大江姓に復したとはいえ、京都の鴨川を大江だとすれば鎌倉の滑川など小江ともいえぬほどケチな川だ、というのは広元へのあてつけのようで面白いですね。
もっとも、
?? 大海の磯もとどろに寄する波
?????????? われて砕けて裂けて散るかも
鎌倉には海がある。
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