学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

大江広元と親広の父子関係(その4)

2021-11-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月27日(土)12時44分21秒

義経等の前例を熟知している広元が何故に無断任官したのは分かりませんが、やはり前例は武士に関するものであって、貴族社会の一員であった自分には関係ない、と思っていたのでしょうか。
それと、自分が頼朝から任されて対応しているのが大姫入内問題である以上、交渉役として相応の身分がないと体面が立たず、そうした事情は頼朝も当然理解してくれているはずだ、と思っていたのかもしれません。
さて、広元は三つの官職のうち、まず明法博士を辞しますが、事態はこれではおさまりません。(p88)

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 明法博士こそ辞したものの、いぜん左衛門大尉・検非違使の官職を帯びつづけた広元は、この年の十二月末頃鎌倉に戻っている。後白河の病気見舞いのために広元が上洛したことを記す『吾妻鏡』建久三年(一一九二)二月四日の記事に「この廷尉(ひろもと)去々年(建久元年)上洛し、去年(建久二年)また法住寺殿修理の行事として在京、当職として賀茂祭に供奉す。重事連綿たり。たまたま去冬月迫(十二月末頃)に帰参す」とあることより知られる事実である。したがって、頼朝の容認しない官職を帯した広元が、わずかの間とはいえ鎌倉での生活を送っていたことになる。翌年二月初頭の上洛までの間に頼朝と広元が接触した形跡が『吾妻鏡』にまったく見られないが、あるいは両者の不穏な関係を示唆するものかもしれない。
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念のため『吾妻鏡』を確認すると、

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建久三年二月小四日丁未。大夫尉廣元爲使節上洛。是自去年窮冬之比。 太上法皇漸御不豫。玉躰令腫御云々。依此御事也。幕下頻御祈祷。今度則付廷尉。被奉秘藏御劔〔鳩作〕於石淸水宮。又有神馬。此廷尉去々年上洛。去年又爲法住寺殿修理行事在京。爲當職賀茂祭供奉。重事連綿。適去冬月迫歸參。重上洛雖爲不便事。依爲天下大事差進之旨。直被仰之云々。


とのことで、「重上洛雖爲不便事。依爲天下大事差進之旨。直被仰之云々」ですから、この記事自体は頼朝の配慮を感じさせない訳ではないものの、まあ、他に適役がいないという事情もありそうですね。
上杉著に戻って続きです。

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 右記のように、広元は後白河上皇の病気見舞いの使者として、翌建久三年二月四日に鎌倉を発ち、十三日に京に入っている。この機を得て広元は、二十一日に、ようやくにして残る左衛門大尉・検非違使の職を辞する文書(辞状)をしたためている。「正五位下行左衛門大尉中原朝臣広元誠惶誠恐謹言 ことに天恩を蒙り、帯するところの左衛門尉・検非違使職を罷〔や〕まれられんことを請うの状」という書き出しで始まるこの時の広元の辞状は、辞状が鎌倉に届けられた三月二日の『吾妻鏡』の記事に収められている。
 辞状には、いかにも豊富な漢文の知識を持った文官が書いたというべき難解な語句と表現が散りばめられているが、要点を端的に述べれば、三つの官職を兼ねることは負担が重いので、前年の十一月五日に明法博士は辞したものの、残る二つの武官職についても、自分の家業と能力から考えて任が重いので辞したい、ということになる。
 この辞状を載せる『吾妻鏡』三月二日条の地の文には、辞状の写しを見た頼朝が「この事はなはだ御意に叶う」すなわち「満足した」という記事が見える。広元の辞職の直接的要因が頼朝の意向であったことは明らかだが、さすがにそのことを辞状に書くわけにはいかなかったろう。今も昔も、人が職を辞する時の言葉には、空々しい文句が現れるものである。
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ここも『吾妻鏡』を確認すると、次の通りです。

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建久三年三月小二日甲戌。廷尉廣元書状自京都參着。當職事既上辞状訖。其案文謹献上云々。此事太相叶御意云々。彼状云。
  正五位下行左衛門大尉中原朝臣廣元誠惶誠恐謹言。
  請殊蒙 天恩被罷所帶左衛門尉檢非違使職状
 右廣元去年四月一日任明法博士左衛門大尉。即蒙檢非違使 宣旨。三箇之恩。一所不耐。是以同十一月五日。先遁季曹之儒職。憖居棘署之法官。竊以。累祖立身。雖趨北闕之月。一族傳跡。皆學南堂之風。而校尉者王之爪牙也。専爲輦轂之警衛。廷尉者民之銜勒也。宜致囹圄之手足。爰廣元性受暗愚。爭弁薫豊兩日之夢。心非明察。宛隔紫雄三代之塵。不如早謝榮於非分之任。竭忠於方寸之誠耳。望請天慈。曲照地慮。然則内避〔瞰〕鬼之廻眸。外〔弭〕議人之聚口。難慰悚競之至。廣元誠惶誠恐謹言。
   建久三年二月廿一日             正五位下行左衛門大尉中原廣元


上杉氏は「さすがにそのことを辞状に書くわけにはいかなかったろう」と言われますが、元暦二年(1185)四月十五日条に記された例の頼朝の人物評、緻密な人間観察に基づく悪口雑言罵詈讒謗を思い起こすと、この文章の至るところに頼朝の広元評と悪口が散りばめられているような感じがしないでもありません。
お前は検非違使になったそうだが、学者育ちのお前が悪人どもの取り締まりができると本気で思っているのか、京都と鎌倉の両方で忠勤を励むとはずいぶん忙しいことだな、みたいな感じでネチネチ言われたのではないか。
そして「瞰鬼之廻眸」は頼朝という「鬼」の冷酷な視線を露骨に表現しているようにも思われます。

>筆綾丸さん
>現代で言えば、東大(文)卒後、外務省を経て最高裁に入り(有り得る)、長官になる(有り得ない)

最近の事情は知りませんが、外務省の幹部職員は殆どが法学部出身で、しかも在学中に外交官試験に合格して大学は中退、入省後に海外の大学に留学というケースが多かったと思います。
外語大出身者とか、作家の佐藤優氏のように特別に語学ができる人の多くは専門職として別採用ですね。
そして、外交官出身で最高裁に入る人は実際上は国際法局(旧条約局)に限られていて、法律家として非常に優秀な人が多いです。
歴代の最高裁判所長官は裁判官出身者が大半ですが、外交官出身者がなっても全然おかしくはないはずですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

正四位下 2021/11/26(金) 13:27:55
小太郎さん
広元、明法博士になる、という異例の人事は、現代で言えば、東大(文)卒後、外務省を経て最高裁に入り(有り得る)、長官になる(有り得ない)、というくらいの奇異な感じなのでしょうね。

ウィキを見ると、最高の官位は、義時が従四位下、広元が正四位下で、広元は泰時以下の得宗と同じなんですね。
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