学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

大江親広が幕府を裏切った格調の低い理由

2021-12-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年12月 7日(火)14時57分19秒

政治史的な観点からは竹殿が親広と離縁し、土御門定通に再嫁した時期よりも、親広が承久の乱で幕府を裏切った理由の方が重要で、なかなか難しい議論がなされています。
例えば上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)では、

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 あくる承久三年(一二二一)五月十九日、京都守護伊賀光季の使者が鎌倉に着き、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の命令書を発して挙兵したとの報が幕府に伝えられる。【中略】
 後鳥羽上皇が期待をかけたのは、西面武士などの直属武力の他、在京・西国の御家人たちであった。京都守護であった伊賀光季・大江親広にも上皇の動員命令が下されたが、光季がこれを拒否して討ち取られたのとは対照的に、親広は上皇方の軍勢に加わることとなる。親広が後鳥羽方に加わった理由としては、後鳥羽方の軍勢の中で孤立したためやむなく動員令に従ったということがまず考えられよう。しかし、同じ状況にあった伊賀光季は幕府に殉じて後鳥羽上皇の命を拒んだのであるから、親広の行動には格別の要因があったといわなくてはならない。おそらく、有力貴族である源通親の猶子となっていた関係から、朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志が強かったものと思われる。やはり通親の猶子であった但馬国守護の安達親長も、承久の乱では後鳥羽方についている。


とあって(p160以下)、「朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志」説ですね。
また、長村祥知氏は『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)において、

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 義時追討命令に先んじて、鎌倉から派遣されていた二人の京都守護のうち、大江親広が後鳥羽の動員に応じ(『吾妻鏡』五月十九日条)、対して義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討された(『百練抄』五月十五日条)ことも、対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る。
 また後鳥羽の発した官宣旨は、幕府と鎌倉殿の存在を前提とする職たる守護・地頭に院庁への参候を命じており、鎌倉幕府─御家人制の否定という意図は読み取れない。院が公権力によって武士を動員するのは平安後期と同様に決して異常ではなく、後鳥羽の主要な武力たる在京武士の中でも、主力は西国に重心を置く在京御家人であり、むしろ幕府の守護制度・御家人制度は必須の要素であった。かつては承久の乱の際に在京御家人が後鳥羽の命に従ったことを異常視する理解が一般的だったが、後鳥羽の目的が義時追討であり、院による武士の動員が平安後期以来の正当なあり方である以上、なんら異とするには及ばないのである。


と書かれていますが(p114)、「義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討され」、「対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る」という長村説は、親広も義時娘の竹殿を通じて義時の「縁者」であることを考えると、ずいぶん奇妙な議論です。
ただ、長村氏は承久の乱に際して親広が「関寺辺で死去した」(p191)とされているように、親広に全然興味がないようなので、親広も義時の「縁者」であることを単純に失念されているものと思われます。
さて、親広がいかなる人物であったかを探る手がかりは基本的には『吾妻鏡』、そして『安中坊系図』のような寒河江関係の後世の史料しかありませんが、前者には行事参加等の単純な事実関係を超えたエピソードはなく、後者は信頼性に相当問題があります。
ウィキペディアには「母は多田仁綱の娘」などとありますが、上杉著によれば「多田仁綱」なる人物は『安中坊系図』にしか登場しないそうで、「この所伝は極めて疑わしいといわざるをえない」(p185)ものです。

大江親広

ところで、源通親の猶子として京都との関係が深かった親広は、幕府の公用で上洛することは多かったものの、基本的には鎌倉で暮らしていて、京都での長期滞在は京都守護となってからのようですね。
竹殿も、おそらくずっと鎌倉にいて、親広の京都守護就任とともに京都に移動したものと思われます。
私は親広と竹殿の離縁は承久の乱の前と考えますが、義時娘と既に離縁していた親広を義時が京都守護に送り込むというのは若干不自然な感じがするので、親広は建保七年(1219)二月、京都守護として竹殿とともに上京したところ、間もなく竹殿に逃げられてしまったのではないかと思います。
しかも竹殿の再婚相手は源通親の息子の土御門定通で、竹殿は通親の猶子・親広と離縁して実子の定通に再嫁したことになり、鎌倉から見ても京都から見ても、かなりカッコ悪い話ですね。
そんなことで親広が鬱屈した気分でいたところに承久の乱が勃発し、今さら義時に忠誠を誓うのも面白くない、ということで親広は後鳥羽側に寝返ったのではなかろうか、というのが私の仮説です。
大江親広・不貞腐れ説ですね。
まあ、あまり格調の高い理由ではありませんが、歴史の大きな流れはともかく、個々人の動向はプライベートな事情に左右されることは当然あったはずです。
三浦胤義にしても、妻が元は源頼家の愛妾だったという事情が裏切りの最大の理由ですからね。
なお、私は親広には源通親と自分との関係を定めた偉大過ぎる父・広元への反発もあったように想像するのですが、こちらは小説の世界でしか書けない話かもしれません。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について

>筆綾丸さん
細かいことですが、細川重男氏ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

二十六の瞳とHAL9000 2021/12/06(月) 17:13:15
小太郎さん
鎌倉の本屋には、『鎌倉殿の13人』の影響もあって、鎌倉時代の本がやたらと多いのですが、今日は、細川重夫氏『執権』が山積みになっていました。
大きなお世話ながら、百年に一度のお座敷がかかったのだから、もう少し売れそうなタイトルにすればいいのに、と思いました。この本の表紙にも三つ鱗の絵があるのですね。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000325892

ザゲィムプレィアさん
鎌倉時代の公武の人間関係はほとんど知らないので、別の話をします。喫茶店で、今日の読売新聞朝刊の特集記事を読んでいると、こんな記述がありました。
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「脳と意識を接続し、人間の意識を機械にアップロード(移植)することも20年以内に可能だ」と渡辺正峰・東京大准教授(脳神経科学)は予測する。その先にあるのは、「不老不死」の世界だ。肉体がなくなっても機械に宿る意識は残る。この意識を仮想空間につなげば、仮想空間で生き続けられる」
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これは、機械に意識はあるか、という古い問題の現代バージョンなのか、知りませんが、意識を機械にアップロードするなど、私には妄想としか思えません。筒井康隆『文学部唯野教授』に倣って言えば、理学部唯野准教授の囈言のような気がします(唯と准の字が似ているところがミソです)。
そもそも、この「意識」とは言語のことなのか、クオリアのことなのか、電位変化のことなのか、わかりません。さらに、この「機械」とは何なのか。クラウドのようなものなのか、理研の世界最速コンピュータ「富嶽」のようなものなのか、量子コンピュータのようなものなのか、わかりません。
むろん、人間には考える自由があるので、他人がとやかく言うべきではないのですが。
付記
仮に「意識」を「機械」にアップロードできたとしても、「機械」がサイバー攻撃を受けて「意識」が死ねば、ずいぶん短命な「不老不死」になります。
つまり、「意識」の保存も物理的制約を受けるのであり、現代のテクノロジーでは、それは電子でしかありえないはずで、「不老不死の意識」と言っても、所詮、電子至上主義にすぎないのではないか、という気がします。
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