学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

大江広元と親広の父子関係(その3)

2021-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月26日(金)12時53分17秒

無断任官問題はあくまで広元と頼朝との関係の問題であって、広元と親広、そして広元と通親の関係を左右した訳ではありませんが、広元の人生において相当深刻な、ある意味危機的な事態を招いた特別な事件だったので、少し詳しく見ておきます。
この問題をきちんと分析したのは上杉和彦氏が初めてだと思いますが、『人物叢書 大江広元』の刊行以降もあまり注目されることはないようですね。
世間では承久の乱研究の若手第一人者と言われている長村祥知氏など、親広が承久の乱で死んでしまったと堂々書かれているくらいなので、上杉著を読まれていないどころか、上杉著の存在自体を知らないのではないかと不安になります。

大江親広は「関寺辺で死去」したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c2ac62e4108cbefbf529afd1287d941d
「零落」の意味等について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdb2cdce8331e85e809ba8c9cdde0d4a

ま、そんな嫌味はともかく、上杉著の続きです。(p84以下)

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 少し後のことであるが、建久十年(正治元年。一一九九)正月に起きた後藤基清・中原政致・小野義成による通親襲撃未遂事件(いわゆる三左衛門の変)の際に、広元が通親を擁護する姿勢をとったことに対し、慈円が『愚管抄』の中で、広元は通親の「片人〔かたうど〕」(味方)であると記している。またさらに後のことだが、承久の乱に際して後鳥羽方についた親広(広元の長子)は通親の猶子となっており、広元と通親の関係の親密さは、極めて深いものであったということができる。
 広元にしてみれば、かつて外記として奉仕した兼実を敬遠する気持ちがあったかもしれない。兼実にとっても、一外記官人にすぎなかった広元が破格の出世をしたことに、心穏やかならぬものがあったにちがいない。兼実の述べる「おそらく頼朝卿の運命尽きんと欲するか。誠にこれ獅子中の蟲獅子を喰らうごときか」という言葉には、自らの協調関係をさしおいてまで通親に接近しようとする頼朝の対朝廷政策転換に対する糾弾とともに、広元に対する不信感があからさまに示されているといえるだろう。
 もっとも、広元にとって、兼実が切歯扼腕すること自体は何程のことでもなかったかもしれない。だが、やがて兼実のみならず頼朝が広元の任官に不快の念を持つことにより、広元は厳しい状況に追い込まれることになるのである。
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勝手に朝廷の官職を得た者に対して頼朝が激怒した事例としては、何と言っても『吾妻鏡』元暦元年(1184)八月十七日条に記された義経の一件が有名です。

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元暦元年八月大十七日癸酉。源九郎主使者參着。申云。去六日任左衛門少尉。蒙使宣旨。是雖非所望之限。依難被默止度々勳功。爲自然朝恩之由。被仰下之間。不能固辞云々。此事頗違武衛御氣色。範頼義信等朝臣受領事者。起自御意被擧申也。於此主事者。内々有儀。無左右不被聽之處。遮令所望歟之由有御疑。凡被背御意事。不限今度歟。依之可爲平家追討使事。暫有御猶豫云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-08.htm

また、研究者は翌元暦二年(1185)四月十五日条も思い浮かべるはずです。

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元暦二年四月小十五日戊辰。關東御家人。不蒙内擧。無巧兮多以拝任衛府所司等官。各殊奇怪之由。被遣御下文於彼輩之中。件名字載一紙。面々被注加其不可云々。
 下 東國侍内任官輩中
  可令停止下向本國各在京勤仕陣直公役事
   副下 公名注文一通
 右任官之習。或以上日之勞賜御給。或以私物償朝家之御大事。各浴 朝恩事也。而東國輩。徒抑留庄薗年貢。掠取國衙進官物。不募成功。自由拝任。官途之陵遲已在斯。偏令停止任官者。無成功之便者歟。不云先官當職。於任官輩者。永停城外之思。在京可令勤仕陣役。已厠朝烈。何令篭居哉。若違令下向墨俣以東者。且各改召本領。且又可令申行斬罪之状如件。
   元暦二年四月十五日
 東國住人任官輩事

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma04-04.htm

この後、二十四名の交名が添えられていて、そこに記された頼朝の人物評が極めて面白いことも有名ですが、とにかく「墨俣以東」に来たら本領を没収した上で首を斬るとまで言うのですから尋常ではありません。
広元も当然これらの先例を熟知していたはずですが、自分は元々文官だから関係ないと思ったのか。
さて、建久二年(1191)四月一日の除目で広元が明法博士・左衛門大尉・検非違使に任ぜられた後も、暫くは広元は淡々と仕事を続けますが、約半年後、『吾妻鏡』に異変が記されます。(p87以下)

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【前略】『吾妻鏡』建久二年十月二十日条に、「広元朝臣、明法博士を辞すべきの由これを申し送る。関東に伺候するの輩〔やから〕、顕要の官職をもってほしいままに兼帯すること然るべからず。辞せしむべきの旨、仰せ下さる」と見える。「広元が、明法博士の職を辞する旨を京都に伝えた。鎌倉幕府に使える者が、勝手に朝廷の要職を兼ねることは好ましくないから、職を辞するように、との頼朝の仰せがあった」という内容である。
 長期間の在京を続けている間に、広元が直接に後白河より破格の任官を許されたことが、家人への恩賞付与を他者に委ねることに極めて強い嫌悪感を示す頼朝の感情を逆なでし、頼朝の仰せによって広元は明法博士の職を辞したのである。広元は、前述したような明法博士任官の異例さを特に重く見て、まずこの職を辞すことにしたのであろう。実際に広元が明法博士職を去るのは十一月五日のことである(後掲の建久三年二月二十一日付広元辞状による)。
 無断任官問題が源義経の破滅の引き金になったことを、そのとりなしを依頼された広元がよもや忘れたはずはあるまい。それほどに肩書きの魅力は大きかったとみるべきか、はたまた広元なりの何らかの深慮があったのか、そのあたりは定かではないが、この時の任官問題は、頼朝の忠実な側近としての広元の経歴において、おそらくただ一度といってよい、頼朝の不興を買う出来事となったのである。
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ということで、広元は明法博士・左衛門大尉・検非違使の三つの中、先ずは明法博士を辞したのですが、頼朝の怒りがこれで治まった訳ではありません。
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