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承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」

2021-10-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月 1日(金)11時49分55秒

六月十五日付の武力放棄の院宣は『承久記』の異本である『承久兵乱記』に記されているため、本郷氏も「この院宣はあるいは後世の創作かもしれない」とされますが、ただ、「室町時代初期には成立していた同記中に、この院宣はすでに収められている」とのことであり(p60)、「奉者、文書の形式、言葉づかい等に格別の難点は見あたらない」のですから、それなりに信頼して良いのではないかと思います。
そして、編纂物の二次史料から院宣を「復元」した本郷氏の手法は、長村祥知氏の慈光寺本『承久記』の活用に先行するものであって、その点でも高く評価できるのではないかと思われます。
ま、それはともかく、「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」のであって、これが承久の乱の戦後処理で最も重要なポイントですね。
さて、承久の乱の結果、天皇が最高の軍事指揮権を持ち、朝廷が軍事力を保有することを当然とする律令法の大系に重大な変更が加えられた訳ですが、これを法的にどのように説明するのか。
従来の法体系で説明できない法秩序が新たに形成されたのだから、これは「革命」だと考える立場もありそうですが、しかし、承久の乱後も朝廷は幕府から干渉を受けるだけで、朝廷においては天皇が最高の地位にいることが否定された訳でもないので、「革命」とは言いづらい面があります。
この新しい法秩序について色々考えてみた結果、私はこれは東国国家論で説明するのが一番合理的ではないか、と思うようになりました。
ただ、佐藤進一氏が『日本の中世国家』(岩波書店、1983)で展開された東国国家論では承久の乱に関する記述が極めて貧弱で、あまり参考になりません。
そこで、私なりにバージョンアップした東国国家論で承久の乱の戦後処理を説明すると、次の通りです。

(1)西国国家(朝廷)は敗戦国、東国国家(幕府)は戦勝国で、東国国家は西国国家の法体系に従うことなく、承久の乱の責任者(上皇・天皇を含む)を処罰することができる。
(2)西国国家は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」し、「戦力は、これを保持しない」、「国の交戦権は、これを認めない」。
(3)西国国家の皇位継承は東国国家の事前の承認を必要とし、東国国家は「不徳」の天皇を廃位することができる。また、東国国家は「不徳」の上皇を流罪に処することができる。
(4)承久の乱の責任者(上皇・天皇を含む)の所領は東国国家が全て没収し、自由に処分することができる。
(5)天皇家の所領は東国国家がいったん全て没収する。しかし、東国国家が希望すればいつでも返還に応じるという条件付きで、天皇家に返却する。
(6)東国国家は西国国家が「講和条約」を誠実に遵守することを監視するため、京都に監視機関(六波羅探題)を設置することができる。
(7)「講和条約」で定められた新しい「国際法秩序」は西国国家の法秩序(律令法の大系)に優越するものであって、この「国際法秩序」を乱すことは「謀叛」となり、上皇・天皇であっても「謀叛」人となり得る。

比喩的にいえば、六月十五日の院宣は「ポツダム宣言の受諾」であり、三上皇配流・今上帝廃位、公卿・殿上人以下の処刑は「東京裁判」であり、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは「憲法第九条」ですね。
そして、占領下で新たに形成されたこの新しい「国際法秩序」は以後百年以上存続し、後醍醐天皇は、東国国家側からは「国際法秩序」に反した謀叛人と認定されることになります。
律令法の大系、そして権門体制論では天皇の「謀叛」は説明できませんが、東国国家論では合理的な説明が可能であり、実際に元弘の変では後醍醐は「謀叛人」と認識されたのですから、当時の人々の法意識にも適合することになります。
なお、立教大学教授・佐藤雄基氏は「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)の注10で、

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(10) 現実の最高実力者が鎌倉幕府・得宗であることをもって権門体制論への批判とする類の議論が後を絶たないが、黒田も幕府が「権門政治の主導権」をもつことは認めている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f

と書かれていますが、権門体制論では幕府が「権門政治の主導権」を持つことまでは説明できても、幕府が律令法の大系を超えた戦後処理を行なったことは説明できず、承久の乱の結果生じた法秩序の変容も説明できないのではないかと思います。
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