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『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)

2018-02-09 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 9日(金)22時25分12秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p84以下)

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 さるほどに、十七日のあしたより御気色かはるとてひしめく。御善知識には経海僧正、また往生院の長老参りて、さまざま御念仏もすすめ申され、「今生にても十善の床をふんで、百官にいつかれましませば、よみぢ未来もたのみあり。早く上品上生のうてなに移りましまして、かへりて、娑婆の旧里にとどめ給ひし衆生も導きましませ」など、さまざまかつはこしらへ、かつは教化し申ししかども、三種の愛に心をとどめ、懺悔の言葉に道をまどはして、つひに教化の言葉をひるがへし給ふ御けしきなくて、文永九年二月十七日酉の時、御年五十三にて崩御なりぬ。一天かきくれて万民愁へにしづみ、花の衣手おしなべてみな黒みわたりぬ。
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この部分、『増鏡』は、

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 十七日の朝より御気色変るとて、善智識召さる。経海僧正・往生院の聖など参りて、ゆゆしきことども聞え知らつべし。つひにその日の酉の時に御年五十三にてかくれさせ給ひぬ。後嵯峨の院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて闇に惑ふ心地すべし。
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となっていて、『増鏡』で「ゆゆしきことども聞え知らつべし」とされていた部分の具体的内容と、それへの後嵯峨法皇の対応を知ることができます。
即ち、経海僧正や往生院の長老らは、

様々にお念仏も勧め申され、「今生でも十善の天子の位につき、百官に奉仕されていらっしゃた御身であるから、黄泉も来世も頼もしいことです。早く上品上生の台(うてな)にお移りになられて、振り返って娑婆のこの世にお残しになった衆生をお導きください」などと様々にお宥め申したり、懺悔の言葉をお教え申したけれども、この世の三種の愛に執着され、道を誤られて、ついに教えられた言葉を唱える御様子はなくて、

文永九年二月十七日酉の時に五十三歳で崩御されたということで、要するに往生際があまり芳しいものではなかったと言っている訳です。
次田氏は、

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 後嵯峨院の臨終に際しての記述も、善知識の教導にもかかわらず、懺悔の言葉もなく、崩御したという。人間としては、後の父の臨終のときと同じく、実にリアルな叙述である。(ただし突如「一天かきくれて万民愁へにしづみ…」と続くところ、やや唐突の感をまぬがれないが)上皇の死を描くとしては、異例の現実感である。臨終正念の思想が強く浸透していた時代相をうかがわせる。
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と感想を述べられていて(p89)、私自身は「後の父の臨終のとき」、死にかけているはずの中院雅忠がベラベラしゃべりまくり、しかもその内容が自分の娘への賞賛ばかりである点にリアルさを感じることはできず、また、「一天かきくれて万民愁へにしづみ…」は「やや唐突」ではなく「非常に唐突」でわざとらしいと思いますが、後嵯峨院崩御の様子に限っては、確かにリアルな感じがします。
もっとも、仮に十三日から意識が混濁しているような状態だったとしたら、懺悔の言葉も何もあったものではないだろうとは思いますが。
ま、それはともかくとして、『増鏡』作者は臨終の場面でのリアルさは排除し、後嵯峨法皇はあくまで完璧な帝王として亡くなった形にしたかったようですね。

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 十八日、薬草院へ送り参らせらる。内裏よりも頭の中将御使に参る。御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな御供に参らせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。経任さしも御あはれふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨の折、なよらかなるしじらの狩衣にて、瓶子に入らせ給ひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。
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後嵯峨院から厚く恩顧を蒙った中御門経任(1233-97)は出家するだろうとみんな思っていたのに、その経任が葬儀にふさわしくない派手な狩衣を着て壺に入れた御骨を持っていたのはけしからん、という記述は『増鏡』にもそのまま取り入れられています。
『とはずがたり』の場合、煎じ薬消失の責任者を経任としているので、この部分と併せて経任への厳しい非難という点で一貫性がありますが、『増鏡』は前者が四条隆良になっているので、ちぐはぐな感じが残りますね。

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 新院御なげきなべてには過ぎて、夜昼御涙のひまなくみえさせ給へば、候ふ人々も、よその袖さへしほりぬべきころなり。天下諒闇にて、音奏・警蹕とどまりなどしぬれば、花もこの山のは墨染にや咲くらんとぞおぼゆる。大納言は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服を着るべきよしを申されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん。とりわき染めずとも」と、院の御かた御けしきあり。
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新院(後深草院)のお嘆きはひととおりではなく、夜昼、御涙の乾くまもなくお見えになるので、伺候する人々も袖が濡れてしまいそうな頃である。天下諒闇で、音楽や警蹕の声も停止してしまったから、桜の花もこの嵐山のは墨染の色に咲くかと思われた。父大納言は他の人々より黒い喪服を着るようにとの仰せを承って、私も同じく黒い喪服を着るべくお願い申し上げたが、「まだ幼い年頃であるから、ただ普通の喪服でよいだろう。格別黒く染めなくても」という後深草院の御意向であった。

ということで、『とはずがたり』はこの後、中院雅忠(1228-72)の出家、そして病死の場面になります。

>筆綾丸さん
いえいえ。
こちらこそ色々と先走りすぎてしまって、不親切な書き方でした。
まだまだ思いつきの段階で、無理筋だと思ったらあっさり撤回することになりそうな話です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

お詫び 2018/02/09(金) 18:07:21
小太郎さん
レスが遅れてすみません。
二条師忠の記述に関して、小太郎さんの説についていけるほどの知識がなく、鋭意(?)、『増鏡』を読み返しています。もっとも、読み返したところで、すぐどうにかなる筈はないのですが。
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