学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)

2018-02-09 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 9日(金)12時02分35秒

『増鏡』と比較するため、『とはずがたり』に描かれた後嵯峨院崩御の場面も載せておきます。
『とはずがたり』では、史実としては文永七年(1270)九月の遊義門院誕生を翌文永八年八月の出来事として描いていますが、その場面の直後に次のような奇妙なエピソードが出てきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p75以下)

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 このたびは姫宮にてはわたらせ給へども、法皇ことにもてなし参らせて、五夜七夜など殊に侍りしに、七夜の夜事どもはてて、院の御方の常の御所にて御物語あるに、丑の時ばかりに、橘の御壺に、大風の吹くをりに荒き磯に波のたつやうなる音おびたたしくするを、「何ごとぞ、見よ」と仰せあり。
 見れば、頭はかいといふもののせいにて、次第に杯ほど、すつきほどなるものの青めに白きが、つづきて十ばかりして、尾は細長にて、おびたたしく光りて飛びあがり飛びあがりする。「あなかなし」とて逃げ入る。廂に候ふ公卿たち、「なにか見騒ぐ、人魂なり」といふ。「大柳の下に、布海苔といふものをときて、うち散らしたるやうなるものあり」などののしる。やがて御占あり。法皇の御方の御魂のよし奏し申す。今宵よりやがて招魂の御祭、泰山府君など祭らる。
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このたびお生まれになったのは姫宮(遊義門院)でいらっしゃったが、後嵯峨法皇は格別のご待遇をなされて、御五夜・御七夜の御祝いなど殊に盛大だったが、御七夜の夜の祝宴が終って、後深草院の御方の常の御所で御物語をなさっていると、午前二時頃、橘の木のある御中庭に、大風が吹くときに荒い磯に波が立つような音がひどくする。「何ごとだ、見て来なさい」との後深草院の仰せがあったので見に行くと、頭はかい(匙)というものの大きさで、次第に杯ほど、酢坏ほどの大きさの青っぽく白いのが、続いて十ばかり、尾は細長で、おびただしく光って飛び上がり飛び上がりしている。「ああ恐い」といって逃げ入った。廂の間にいた公卿たちが(出て行って)、「何を騒ぐのです。あれは人魂ですよ」という。「大柳の下に布海苔(ふのり)という物を溶いて、撒き散らしたようなものがあります」などと騒ぐ。すぐに御占が行なわれた。陰陽師は後嵯峨法皇の御魂が抜け出したのだと奏上する。そこで今夜から法皇のための招魂のお祭りがあり、泰山府君などを祀られた。

ということで、人魂が飛び交う怪談話になっています。
それも後嵯峨法皇の魂という高貴な人魂なのだそうで、当時は魂が抜け出すのは死の前兆と考えられていたため、抜け出た魂を元の場所に戻す「招魂」の祭りが行なわれた訳ですね。
まあ、これが事実か否かは分かりませんが、文永九年(1272)の時点で、まだ十五歳の後深草院二条は「大風の吹くをりに荒き磯に波のたつ」音を聞いた経験はないでしょうから、少なくともこのような表現は後になって工夫されたものですね。
『とはずがたり』では姫宮(遊義門院)誕生の御七夜に起きた人魂の怪異が次の後嵯峨法皇崩御の予兆となっていて、話のつながりは非常に良いのですが、それは逆に法皇崩御の話と円滑につなげるために姫宮誕生を無理やり文永八年の出来事にした、ということでもあります。

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 かくて九月のころにや、法皇御悩みといふ。腫るる御ことにて、御灸いしいしとひしめきけれども、さしたる御しるしもなく、日々に重る御けしきのみありとて年も暮れぬ。あらたまの年どもにも、なほ御わづらはしければ、何ごとも栄えなき御ことなり。
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『増鏡』では後嵯峨法皇の病気がいかなるものか曖昧ですが、『とはずがたり』ではこのように具体的な病状と治療方法が描かれています。

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 正月も末になりぬれば、かなふまじき御さまなりとて嵯峨御幸なる。御輿にて入らせ給ふ。新院やがて御幸、御車のしりに参る。両女院御同車にて、御匣殿御しりに参り給ふ。
 道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶二つにしたため入れて、経任、北面の下臈のぶともに仰せて持たせられたるを、内野にて参らせんとするに、二つながらつゆばかりもなし。いと不思議なりしことなり。それよりいとど臆せさせ給ひてやらん、御心地も重らせ給ひてみえさせおはします、などぞ聞き参らせし。
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『とはずがたり』では後深草院の車に自分が陪乗したという、自分の存在の重要性をさりげなく示す記述の後で、両女院と御匣殿が乗った車に触れていますが、『増鏡』では「両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿さぶらひ給ふ」とだけあって、もう一つの車は削除されています。
そして、水瓶二つを下北面の「のぶとも」に持たせたのは中御門経任となっています。
これを『増鏡』作者が「隆良の中納言」に変更していることは既に述べました。

「巻八 あすか川」(その12)─後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5b59c05f74d7e9e2a48cd4a1cac23b0

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 この御所は大井殿の御所にわたらせ給ひて、ひまなく男・女房・上臈・下臈上下をきらはず、「ただいまのほど、いかにいかに」と申さるる御使、夜昼ひまなきに、長廊をわたるほど、大井川の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍りし。
 二月の初めつ方になりぬれば、いまは時を待つ御さまなり。九日にや両六波羅御とぶらひに参る。めんめんに嘆き申すよし、西園寺の大納言披露せらる。十一日は行幸、十二日は御逗留、十三日還御などはひしめけども、御所のうちはしめじめとして、いととりわきたる物のねもなく、新院御対面ありて、かたみに御涙ところせき御けしきも、よそさへ露のと申しぬべき心地ぞせし。
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このあたり、『増鏡』が『とはずがたり』を若干簡略化して引用しているのは明らかですね。
例えば、『とはずがたり』では今上天皇(亀山)の行幸が「十一日は行幸、十二日は御逗留、十三日還御」となっているのを、『増鏡』ではあっさりと「中一日渡らせ給へば」としています。
また、両六波羅のお見舞いについて『増鏡』では何時のことかは書かれていませんが、『とはずがたり』では二月九日と明記しています。
そして『とはずがたり』では『増鏡』が全く無視している二月騒動の描写があります。

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 さるほどに、十五日の酉の時ばかりに、都の方におびたたしく煙立つ。いかなる人のすまひ所、あとなくなるにかと聞くほどに、六波羅の南方、式部大輔討たれにけり。そのあとの煙なりと申す。あへなさ申すばかりなし。九日は君の御病の御とぶらひに参り、今日とも知らぬ御身に先だちてまた失せにける、東岱前後のならひはじめぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物など仰せらるることもいたくなかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。
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「東岱」は中国の泰山で、人の死後、魂がこの山に帰るという伝承があるそうですが、ここでは死期の意味です。
十三日の夜からは言葉もしゃべれない状況だったので、九日にお見舞いに一緒に来たばかりの六波羅南方・北条時輔が北方・赤橋義宗に討たれてしまったという無常の出来事も法皇は知ることがなかった、という具合に、後嵯峨法皇の病状についても『とはずがたり』は具体的な説明をしていますが、『増鏡』作者は二月騒動を含め、あっさりと削除しています。

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