投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月15日(金)20時16分40秒
京都女子大学宗教・文化研究所の『紫苑』はPDFで読めますが、17号(2020)の岩田慎平氏による「「我又武士也」小考」という論文は面白いですね。
http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_017.pdf
「我又武士也」とは承久の乱の六年後、安貞元年(1227)に洛南の吉祥院前で鮎を釣っていて神人とトラブルになった土御門定通、当時四十歳で正二位大納言が、神人の関白近衛家実に対する訴えを受けて事実関係を調査し、妥協的な解決策を提案した菅原在高(従二位散位)に対して言い放った言葉です。
最上層クラスの貴族である土御門定通は客観的には「武士」ではありませんが、とにかく自分も武士だと言い放った訳で、いささか奇妙な話です。
この話は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)に詳しく出ていて(p49以下)、ずいぶん昔、私は本郷氏に対して、定通の意図についての素人っぽい質問をしたことがあります。
ま、そんなこともあったので、私はこのエピソードが従前から気になっており、岩田氏の説明を興味深く読みました。
論文の内容は直接読んでもらうとして、非常に些細な点で、一箇所、岩田氏の考え方に疑問を感じました。
それは、大江親広と離縁した北条義時の娘が土御門定通と再婚した時期についてです。
岩田氏は注(7)において、
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(7) 土御門定通と北条義時の娘との婚姻時期については、両者の子・顕親の生年が参考となる。顕親が宝治元年(一二四七)六月二日に出家した際の年齢について、『葉黄記』と『百錬抄』の同年六月三日条ではそれぞれ「年廿六」・「生年廿六」、『公卿補任』では二十八才とある。すなわち生年は、宝治元年に二十六才なら承久四年(貞応元年、一二二二)、二十八才ならば承久二年(一二二〇)となる。両者の婚姻はそれ以前のことであろうが、承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい。
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とされていますが、顕親の経歴は顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の『公卿補任』の尻付に相当詳しく書かれており、それによると
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
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とのことで、ここまで詳しく出ている以上、『公卿補任』の記述を疑う理由は特にないと思います。
そして貞応元年(1222)正月二十三日に叙爵ですから、さすがに同年の出生は変で、承久二年(1220)誕生、嘉禎四年(1238)に十九歳と考えるのが自然ですね。
従って、土御門定通と北条義時娘の婚姻は承久の乱の前となり、当然、大江親広と義時娘の離縁も承久の乱の前となりますね。
さて、ちょっと面白いのは、土御門定通に再嫁した義時娘は比企朝宗の娘「姫の前」の所生であって、北条朝時・重時と同母です。
そして、母の「姫の前」は北条義時と離縁した後、京都で源具親に再嫁しますが、この再婚についても比企氏の乱(1203)との前後関係が問題となって、森幸夫・呉座勇一氏は再婚は比企氏の乱の後であるとしています。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
「姫の前」の場合は、スケジュール的に相当厳しいものの、一応、再婚が比企氏の乱の後という可能性が皆無ではありませんが、北条義時娘の再嫁は承久の乱の前で確定ですね。
実は、かくいう私も、検索してみたら二年前の投稿で、
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伊賀光季はその姉か妹が北条義時(1163-1225)の後室(伊賀の方)となって義時に重用され、実朝横死の翌月、大江広元の長男・親広とともに京都守護として上洛します。
大江親広は後鳥羽院に丸め込まれてしまったものの、伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒否して自決した訳ですね。
『増鏡』には言及がありませんが、大江親広も村上源氏との関係で興味深い人物です。
この人は源通親の猶子となって源親広を称した後、大江に復姓しますが、その室は北条義時の娘(竹殿)で、重時・朝時の同母妹です。
承久の乱に加担した親広が、死罪は免れたものの京都を追放された後、義時娘は土御門定通(1188-1247)に再嫁しますが、四条天皇の頓死後、後嵯峨が践祚するに当たっては、この義時娘を通じての定通と幕府の関係が後嵯峨に有利に働いたといわれています。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f04376b5554137bcb16be7814fce3d27
などと書いてしまっているのですが、単なる思い込みでしたね。
北条義時娘は源頼朝に説得されて義時と結婚した「姫の前」以上に周囲に遠慮などする必要のない立場ですから、政治情勢とは無関係に、大江親広との離婚をさっさと決断し、京都に行って土御門定通と再婚したのでしょうね。
なお、土御門定通と北条義時娘の間に生まれた顕親については、『弁内侍日記』にその出家の状況が詳しく描かれています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p175以下)
「土御門顕定の弟・顕親の出家」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5972f19bba5a0377d5a6731af07f394d
上記投稿時には、私は、
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ということで、顕親は容姿も人柄も優れていて、女性に人気のあった人のようですね。
顕親の出家の理由は分かりませんが、宝治元年六月一日というと鎌倉では宝治合戦の直前で、既に相当不穏な空気が流れていたころです。
あるいは母の縁で鎌倉情報が詳しく入ったため、武家社会の粗暴・陰険さや、そうした鎌倉との関係が立身出世につながっている自分の身が疎ましく思われたようなことがあったのでしょうか。
ま、それは小説の世界に入ってしまいますが。
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などと書いたのですが、この時は顕親の祖母が「姫の前」であって、顕親は一族全滅となった比企氏の乱のことも詳しく知っていたはずであることに思い至っていませんでした。
顕親にしてみれば、武家とのつながりの疎ましさは相当深刻であって、「小説の世界」に入らずとも、それなりに説得的な説明が出来そうですね。
京都女子大学宗教・文化研究所の『紫苑』はPDFで読めますが、17号(2020)の岩田慎平氏による「「我又武士也」小考」という論文は面白いですね。
http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_017.pdf
「我又武士也」とは承久の乱の六年後、安貞元年(1227)に洛南の吉祥院前で鮎を釣っていて神人とトラブルになった土御門定通、当時四十歳で正二位大納言が、神人の関白近衛家実に対する訴えを受けて事実関係を調査し、妥協的な解決策を提案した菅原在高(従二位散位)に対して言い放った言葉です。
最上層クラスの貴族である土御門定通は客観的には「武士」ではありませんが、とにかく自分も武士だと言い放った訳で、いささか奇妙な話です。
この話は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)に詳しく出ていて(p49以下)、ずいぶん昔、私は本郷氏に対して、定通の意図についての素人っぽい質問をしたことがあります。
ま、そんなこともあったので、私はこのエピソードが従前から気になっており、岩田氏の説明を興味深く読みました。
論文の内容は直接読んでもらうとして、非常に些細な点で、一箇所、岩田氏の考え方に疑問を感じました。
それは、大江親広と離縁した北条義時の娘が土御門定通と再婚した時期についてです。
岩田氏は注(7)において、
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(7) 土御門定通と北条義時の娘との婚姻時期については、両者の子・顕親の生年が参考となる。顕親が宝治元年(一二四七)六月二日に出家した際の年齢について、『葉黄記』と『百錬抄』の同年六月三日条ではそれぞれ「年廿六」・「生年廿六」、『公卿補任』では二十八才とある。すなわち生年は、宝治元年に二十六才なら承久四年(貞応元年、一二二二)、二十八才ならば承久二年(一二二〇)となる。両者の婚姻はそれ以前のことであろうが、承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい。
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とされていますが、顕親の経歴は顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の『公卿補任』の尻付に相当詳しく書かれており、それによると
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
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とのことで、ここまで詳しく出ている以上、『公卿補任』の記述を疑う理由は特にないと思います。
そして貞応元年(1222)正月二十三日に叙爵ですから、さすがに同年の出生は変で、承久二年(1220)誕生、嘉禎四年(1238)に十九歳と考えるのが自然ですね。
従って、土御門定通と北条義時娘の婚姻は承久の乱の前となり、当然、大江親広と義時娘の離縁も承久の乱の前となりますね。
さて、ちょっと面白いのは、土御門定通に再嫁した義時娘は比企朝宗の娘「姫の前」の所生であって、北条朝時・重時と同母です。
そして、母の「姫の前」は北条義時と離縁した後、京都で源具親に再嫁しますが、この再婚についても比企氏の乱(1203)との前後関係が問題となって、森幸夫・呉座勇一氏は再婚は比企氏の乱の後であるとしています。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
「姫の前」の場合は、スケジュール的に相当厳しいものの、一応、再婚が比企氏の乱の後という可能性が皆無ではありませんが、北条義時娘の再嫁は承久の乱の前で確定ですね。
実は、かくいう私も、検索してみたら二年前の投稿で、
-------
伊賀光季はその姉か妹が北条義時(1163-1225)の後室(伊賀の方)となって義時に重用され、実朝横死の翌月、大江広元の長男・親広とともに京都守護として上洛します。
大江親広は後鳥羽院に丸め込まれてしまったものの、伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒否して自決した訳ですね。
『増鏡』には言及がありませんが、大江親広も村上源氏との関係で興味深い人物です。
この人は源通親の猶子となって源親広を称した後、大江に復姓しますが、その室は北条義時の娘(竹殿)で、重時・朝時の同母妹です。
承久の乱に加担した親広が、死罪は免れたものの京都を追放された後、義時娘は土御門定通(1188-1247)に再嫁しますが、四条天皇の頓死後、後嵯峨が践祚するに当たっては、この義時娘を通じての定通と幕府の関係が後嵯峨に有利に働いたといわれています。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f04376b5554137bcb16be7814fce3d27
などと書いてしまっているのですが、単なる思い込みでしたね。
北条義時娘は源頼朝に説得されて義時と結婚した「姫の前」以上に周囲に遠慮などする必要のない立場ですから、政治情勢とは無関係に、大江親広との離婚をさっさと決断し、京都に行って土御門定通と再婚したのでしょうね。
なお、土御門定通と北条義時娘の間に生まれた顕親については、『弁内侍日記』にその出家の状況が詳しく描かれています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p175以下)
「土御門顕定の弟・顕親の出家」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5972f19bba5a0377d5a6731af07f394d
上記投稿時には、私は、
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ということで、顕親は容姿も人柄も優れていて、女性に人気のあった人のようですね。
顕親の出家の理由は分かりませんが、宝治元年六月一日というと鎌倉では宝治合戦の直前で、既に相当不穏な空気が流れていたころです。
あるいは母の縁で鎌倉情報が詳しく入ったため、武家社会の粗暴・陰険さや、そうした鎌倉との関係が立身出世につながっている自分の身が疎ましく思われたようなことがあったのでしょうか。
ま、それは小説の世界に入ってしまいますが。
-------
などと書いたのですが、この時は顕親の祖母が「姫の前」であって、顕親は一族全滅となった比企氏の乱のことも詳しく知っていたはずであることに思い至っていませんでした。
顕親にしてみれば、武家とのつながりの疎ましさは相当深刻であって、「小説の世界」に入らずとも、それなりに説得的な説明が出来そうですね。
これらも全て捏造なのか。
まあ、私としては一応これらの記述は正しそうだと思っていて、承久の乱の大騒動があった翌貞応元年(1222)正月二十三日に叙爵ですから、前年の誕生としても相当早い月であり、やはり前々年の誕生が自然だろうと思います。