学問空間

毎週土曜日開催の「『増鏡』を読む会」、今月28日、来年1月4日はお休みで、令和7年の初回は1月11日です。

土御門顕定の弟・顕親の出家

2018-01-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月19日(金)11時24分47秒

脱線ついでに土御門顕定(1215-83)の弟・顕親(1222-?)の出家についても少し書いておきます。
『尊卑分脈』には顕定に「母承明門院女房〔源成実女〕、建長七四十二出家、号高野入道」とあり、顕親には「母平義時女『建長七四十二出家』契円」とあって、更に頭注に「〇契円、同上在顕定項、恐拠園城寺伝法血脈非是」とあります。
既に考証がなされているように、顕定・顕親兄弟の同日出家は明らかな誤りですね。
母が北条義時の娘であり、当時の状況では父母ともに非常に恵まれた出自の顕親は、七歳上の兄・顕定が出家する八年も前、宝治元年(1247)六月二日に二十八歳の若さで出家しています。(『公卿補任』)
父親の土御門定通は同年九月二十八日に死去していますので、父親が存命中の出来事ですね。
そして顕親の出家の様子は『弁内侍日記』にかなり詳しく出ています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p175以下)

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六月一日、土御門中納言<顕親>の夜番なり。その日は院の御所のも夜番なりけるにや、いと疾く、昼程に参りて、「かく」と勾当内侍殿に聞えさすれば、「珍しくこそ」とてあひしらひ給ふを、切簾のもとにてのぞけば、直衣の色華やかに、ことに引きつくろひて匂ひ深く見ゆ。「今の世にはこれ程の人もありがたし」など人々も聞ゆ。「番にも懈怠なく参り、さらぬ奉公も怠るまじき由」など、こまやかに聞えて立ちぬる、名残も何となくとまる心地す。「滝の口より出でむを、広御所にてや見るべき」など言ふ程、殿上に久しくたたずみて、日給の御簡・着到など見て、主殿司に物いひ、着到つけてもなほ出でやらず。鳴板の程に立ちて、何にも目とまる気色なるを、「いかなる事にか。先々は院の御所に心のひまなき人にて、おぼろけには番にも参らぬに、あやしくこそ」など言ふ程に、次の日聞けば、「はやこの暁、霊山にて世にそむきぬ」と聞くも、昔物語を聞く心地して、あはれさ限りなくおぼえて、弁内侍、
  そむき得て心も風の涼しさの岩の懸路を思ひこそやれ
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岩佐美代子氏の訳によれば、

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六月一日、土御門中納言<顕親>の夜番である。その日は院御所でも夜番に当っていたのか、大変早く、昼のうちに参上して、「出仕しました」と勾当内侍殿に挨拶なさるので、「まあお珍しい」と応対しておられるのを、切簾の所からのぞくと、直衣の色が華やかで、特別気を配った様子がたしなみ深く見える。「今の世間では、これぐらいすぐれた人もなかなかいないのですものね」などと皆さんも言われる。「これからは番にも怠けずに参り、それ以外の御用も怠らずに勤めましょう」などと、懇切に話して立ち去ったあとまで、なぜか名残惜しい感じがする。「滝口の方から退出するでしょうから、広御所からのぞきましょうか」などと言っていると、殿上に長い間立ち止まって、日給の御簡や着到などを見て、主殿司に何か言い、着到にも名を記してもまだ退出しない。鳴板の辺りに立って、何を見ても目にとまって懐かしげな様子なので、「どうしたんでしょう。先頃までは院の御所にばかり熱心に出仕していて、めったに内裏の番にも来なかったのに、おかしいこと」などと言い合っていたが、次の日に聞けば、「いやもう、この暁に霊山で出家してしまいましたよ」という話であったのも、まるで昔物語を聞くような感じで、この上なく感動的な悲しい思いがして、弁内侍、
  そむき得て……(世を背いて出家することができて、心も爽やかに、
  風の涼しい岩山の道を歩いて行く姿を、思いやることよ)
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ということで、顕親は容姿も人柄も優れていて、女性に人気のあった人のようですね。
顕親の出家の理由は分かりませんが、宝治元年六月一日というと鎌倉では宝治合戦の直前で、既に相当不穏な空気が流れていたころです。
あるいは母の縁で鎌倉情報が詳しく入ったため、武家社会の粗暴・陰険さや、そうした鎌倉との関係が立身出世につながっている自分の身が疎ましく思われたようなことがあったのでしょうか。
ま、それは小説の世界に入ってしまいますが。
さて、『弁内侍日記』には更に若干の続きがあります。

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八日、「今日は昼番に参らましものを、熊野の道の程にてやあるらん」とあはれにて、大納言殿に、弁内侍、
  旅衣たちて幾日になりぬらんあらましかばと今日ぞ悲しき
 時嗣の弁参りて、台盤所にて神今食の御神事の事申し侍りしついでに、「土御門中納言の事、あはれさ、心ある人の賞でぬはなし。うき世を知らぬ人は、畜生に人の皮を着せたるとこそ聞き侍れ」と言ふも、げに悲しくて、弁内侍、
  かく聞けばさすがに身の毛も立つものを鳥に劣らぬ心なれども
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岩佐氏の訳によれば、

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八日、「今日は昼番に参上するはずの日なのに、今頃はきっと熊野に入る道の途中でしょうか」とあわれに思いやられて、大納言殿に申し上げた歌、弁内侍、
  旅衣……(旅衣に着替えて出発して、もう何日になったでしょう。
  俗世にあったら内裏の番の日なのにと、今日改めて悲しく思われますこと)

 時継の弁が参って、台盤所で神今食の御神事延期の事を申し述べたついでに、「土御門中納言の出家は全く感動的で、心ある人で賞賛しない者はありません。世のはかなさに気づかぬ人は、畜生に人間の皮を着せただけだと承っています」と言うのも、本当に悲しくて、弁内侍、
  かく聞けば……(そんなことを聞くと、さすがに身の毛もよだつほど恐ろしく
  思われますこと。鳥畜生と変わらないぐらい愚かな心ではありますけれど)
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ということで、平時継の言うことはちょっと極端な一般論のような感じがしないでもありませんが、顕親は女性に人気があっただけでなく、男性からも高く評価されていた人だったようですね。

土御門顕親(1222-?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E9%A1%95%E8%A6%AA
平時継(1222-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E7%B6%99

平時継は顕親と同年の生まれの実務官僚ですが、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』の「廷臣小伝」に若干の解説があり、また本郷氏はネットで読めるエッセイでも時継とその子孫について言及されています。

本郷和人「平宗経の一流について」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/taira.htm
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