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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その13)

2020-10-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月21日(水)12時25分28秒

小見出しの最後、十四番目の「『太平記』が放つ「流毒」」に入ります。
兵藤氏の「巻二十一の後醍醐の崩御記事でも、生前の事跡をたたえる一方で、その怨霊化を予感させるような臨終時の悪相を語ります。この臨終の悪相がそのまま第三部の怨霊史観の伏線になるわけですから、ここにも第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂がうかがえるかと思います」という発言を受けてのやり取りです。(p37)

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兵藤 源平交替とか源氏嫡流の「国争ひ」といった構想では処理しきれなくなった段階で、怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観が持ち出されます。

呉座 そうですね。怨霊が大活躍する第三部は、もう本当に訳がわかりません(笑)。結局、儒教的徳治思想でも仏教的因果論でも説明できなくなったから怨霊を持ち出してきたように感じます。

兵藤 そうだと思います。説明できないから、怨霊とか天狗とかの助けを借りる。「雲景未来記の事」も、天狗が予言した乱世の未来記です。そんな不可知論的な史観を展開する一方で、きわめて倫理的な時勢批判もする。そのアンバランスが面白いですね。
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うーむ。
「説明できないから、怨霊とか天狗とかの助けを借りる」という兵藤氏の認識が正しいのかはともかくとして、この種の現代人にとっては奇想天外・荒唐無稽なエピソードが登場するのは決して第三部に入ってからではありません。
第一部・巻五の「相模入道田楽を好む事」には極めて有名な天王寺の妖霊星の話が出てきます。
田楽好きの相模入道・北条高時が酔っぱらって「酔狂の余りに舞」っていたところ、

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いづくより来たるとも知らぬ新座、本座の田楽十余人、忽然として座席に連なつてぞ舞ひ歌ひける。その興甚だ尋常〔よのつね〕に優れたり。しばらくあつて、拍子を替へて囃す声を聞けば、「天王寺の妖霊星を見ばや」などぞ囃しける。或る官女、この声を聞いて、余りの面白さに、障子の破れよりこれを見たりければ、新座、本座の田楽と見えつる者、一人も人にてはなかりけり。或いは嘴〔くちばし〕勾〔まが〕りて鳶の如くなるもあり、(或いは身に翔〔つばさ〕あつて頭は山伏の如くなるもあり。)ただ異類異形の怪物〔ばけもの〕どもが、姿を人に変じたるにてぞありける。
 官女、これを見て、余りに不思議に思ひければ、人を走らかして城入道にぞ告げたりける。城入道、取る物も取りあへず、中門を荒らかに歩みける足音を聞いて、かの怪物ども、掻き消すやうに失せにけり。相模入道は、前後も知らず酔ひ伏したり。燈を明らかに挑〔かか〕げさせて、遊宴の座席を見るに、天狗の集まりけるよと覚えて、踏み汚したる畳の上に、鳥獣の足跡多し。城入道、暫く虚空を睨んで立つたれども、あへて眼に遮る物なし。やや久しくあつて、相模入道、驚き醒めて起きたれども、惘然として更に知る所なし。
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という話ですね。(兵藤校注『太平記(一)』、p241以下)
また、怪異譚というほどではありませんが、巻十には「天狗越後勢を催す事」という小ネタがあります。
巻十二の「宏有怪鳥を射る事」は、元弘四年、紫宸殿の上に怪鳥が夜毎に来て「いつまでいつまで」と鳴いたので、勅定を蒙った隠岐次郎左衛門尉宏有が射落としたという話ですが、これはかなり不気味な雰囲気が漂っていますね。
巻二十の「結城入道堕地獄の事」は更に本格的に不気味な話で、結城上野入道道忠の乗った船が伊勢国安濃津に吹き寄せられ、病気で臨終となった道忠が「かつぱと起きて、からからと打ち笑ひ、わななきたる声にて」、「わが後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善を致すべからず。称名読経の追費をもなす事なかれ。ただ朝敵の首を取り、わが墓前の前に懸けて見すべし」と言って死んだという前段があります。(兵藤校注『太平記(三)』、p396以下)
そして、「その比、所縁なりける山伏、武蔵の国より下総へ下る事」があって、その山伏が楼門の額に「大放火寺」と書かれた寺に泊ったところ、「夜半過ぐる程に、月俄かに掻き陰り、雨荒く、電〔いなびかり〕頻りにして、牛頭馬頭の阿放羅刹ども、その数を知らず、大庭に群がり集ま」って、一人の罪人を念入りにバーベキューにする様子が詳細に描かれ、山伏が「これは、いかなる罪人をかやうに呵責し候ふやらん」と質問すると、道忠が「阿鼻地獄へ落ちて、呵責せらるる」様子だと言われた、という話が続きます。
更に、第三部に入れるべきかに争いはありますが、巻二十四の「正成天狗と為り剣を乞ふ事」も極めて有名な怨霊譚ですね。
伊予国の大森彦七盛長の前に怨霊となった楠木正成が登場し、その際に「正成が相伴ひ奉る人は、先ず先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加へて七人なり。その外、数万人ありと云へども、泛々〔はんぱん〕の輩は未だ数ふるに足らず」(兵藤校注『太平記(四)』、p85)ということで、後醍醐天皇・護良親王・新田義貞以下、数万人の怨霊が総出演する華やかな怨霊スペクタクルです。
こうして『太平記』の怨霊・天狗エピソードを眺めてみると、兵藤氏の「源平交替とか源氏嫡流の「国争ひ」といった構想では処理しきれなくなった段階で、怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観が持ち出され」るという認識、そして呉座氏の「儒教的徳治思想でも仏教的因果論でも説明できなくなったから怨霊を持ち出してきた」という認識は、事実の認識として誤りではないかと思います。
怨霊・天狗は決して第三部だけで「大活躍」している訳ではなく、第一部・第二部でもしっかり「大活躍」していますね。
ただ、兵藤説においては、第一部・第二部での怨霊・天狗記事は「第三部が書き継がれる時点での加筆・改訂」ということになるのかもしれませんが、そもそも兵藤氏の三段階説は後続の研究者が帰納的な方法により検証可能な理論ではなく、「不可知論」ないし「水掛け論」に過ぎません。
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