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緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について

2021-02-06 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 6日(土)10時46分56秒

清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、次のように書かれています。(p40以下)

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尊氏の人間的魅力

 足利尊氏が篤く帰依した禅僧、夢窓疎石は、尊氏の人間的な魅力を次の三点から説明している(『梅松論』)。以下、意訳して紹介すると、
(一)お心が強くて、合戦のときに命の危険に遭うことがたびたびであっても、逆にそのお顔は笑みを含んで、まったく死を怖れる様子がない。
【中略】
(一)の戦場での振る舞いについても、たしかに尊氏は生涯に何度となく戦場で生死の危機に直面している。そうしたとき尊氏の顔は「笑み」を含んでいた、と夢窓疎石は語るが、危機に陥ったとき、なぜか笑いはじめてしまうというのが、尊氏の不思議な癖だったようだ。ある戦場では、矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぐのを、近臣が危ないからと自重を促したところ、やはり尊氏は笑ってとりあわなかったという(『臥雲日件録抜尤』享徳四年正月十九日条)。【後略】
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また、すぐ後で、

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八方美人で投げ出し屋

 ところが、こうした尊氏の個性は、時と場合によっては彼の政治家としての欠点をも秘めていた。【中略】
 しかし、より深刻なのは、(一)の死を恐れない不思議な性分であった。戦場で危機に陥っても笑っているうちはいいのだが、いよいよ事態が深刻になると、彼はあっさり自害しようとして、その生涯で何度となく周囲を慌てさせている。尊氏は、正月の吉書(書き初め)に毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いていたと伝えられている(『臥雲日件録抜尤』享徳四年正月十九日条)。どうも勇気があるというよりは、元来、彼には生死に対する執着が希薄だったようだ。
 また、尊氏は自身の命への執着が薄いというだけではなく、親族や腹臣であっても状況次第では意外に冷たく突き放すところがある。実子である竹若や直冬への対応はすでにみたとおりであるし、この後、弟直義や執事の高師直との関係がこじれたときも、苦楽をともにしてきたわりには、面倒になると案外あっさりとこのふたりを切り捨ててしまっている。ふだんは相手によらず無類の愛着を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまう、やや無節操ともいうべき傾向が、尊氏の対人関係にはままみられる。
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とも書かれています。(p43以下)
このように清水氏は二箇所に分けて『臥雲日件録抜尤』を引用されていますが、実はこれらは一連の短い文章です。
即ち、東京大学史料編纂所編『大日本古記録 臥雲日件録抜尤』(岩波書店、1961)の享徳四年(1455)正月十九日条に、

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十九日、──松岩寺冬三老僧来款話、問其年七十五也、因話、尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々、又或時在戦場、飛矢如雨、近臣咨曰、可少避之、尊氏咲曰、戦畏矢則可乎云々、──
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とあります。(p88)
清水氏は「天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断」から「元来、彼には生死に対する執着が希薄だったようだ」と推測し、それが「八方美人で投げ出し屋」という尊氏評に多大な影響を与えているようですが、私には律儀にも毎年毎年、吉書にこうした決意を記す人が「生死に対する執着が希薄」だとは思えません。
ただ、私も本当に禅宗に関する知識・教養が乏しくて、『臥雲日件録抜尤』を手にしたのは今回が生まれて初めてです。
素人なりに同書を斜め読みしてみたところ、利根川に女面魚身の化け物が出た、北条政子が百二十歳で死んだ、みたいな変な噂話もけっこう多くて、『臥雲日件録抜尤』の全体的な信頼性はどの程度なのか、この尊氏評を信頼してよいのか、そもそも「松岩寺冬三老僧」とは誰なのか、といった基本的なところが全く分かりません。
そこで、『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について論じている文献をご存じの方がいらっしゃれば、御教示願いたく。
今のところ清水氏以外にこの記事に言及されている研究者を知らないほどの暗中模索状態なので、ひと言触れている程度の文献でも結構ですから、宜しくお願いします。

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「臥雲日件録」(『コトバンク』内、日本大百科全書(ニッポニカ))

室町時代の五山僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記。日件録とは「其(そ)ノ行イヲ録スル事、日ニ百八件」という永明延寿(ようめいえんじゅ)伝に拠(よ)る瑞渓自身の命名。もとは、1446年(文安3)から73年(文明5)の彼の死の直前まで書かれた74冊があり、彼の寮舎にちなんで「北禅(ほくぜん)日件録」「寿星(じゅせい)日件録」などとよばれていたが、この原日記は散逸し、1562年(永禄5)に惟高妙安(いこうみょうあん)が抄出した『臥雲日件録抜尤(ばつゆう)』1冊としてのみ伝わる。瑞渓の別号「臥雲山人」に基づく呼称である。瑞渓は鹿苑僧録(ろくおんそうろく)として公武の要人と交渉が多く、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』中断期の史実を伝え、政治史、禅林史の史料としても貴重であるが、『抜尤』は五山の往時をしのぶ名僧・文筆僧の逸話や、当時の文芸活動に関する記事に焦点をあてている。ことに原日記表紙裏に瑞渓が記しておいた諸典籍からの章句の抜き書きは『抜尤』にも載せられ、五山学芸史上好個の史料を提供する。『大日本古記録』、『続史籍集覧』3に所収される。


※追記
「松岩寺冬三老僧」については一応解決済みです。

四月初めの中間整理(その11)
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