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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)

2021-02-07 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 7日(日)12時50分28秒

それでは1月26日の投稿以来、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987、初版1965)の検討を行います。
下記リンクのうち、一番上が事実上の(その1)で、ここに同書の全体の構成が分かるように目次を引用しておきました。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」「第五章 建武新政期の歌壇」の途中(p370)まで進みましたが、そこに「既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事」と鎮西探題を中心とする「北九州歌壇」の歌集とされる『臨永集』への言及があったので、関連個所に遡ることにします。
ということで、まずは「第一編 鎌倉末期の歌壇」「第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇」「6 正中百首と続後拾遺集」の冒頭を引用します。(p267)

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   6 正中百首と続後拾遺集

 元亨三年三月為藤は後醍醐天皇から勅撰集を撰進すべき命を受けた。受名の日には両説あって、拾芥抄・尊卑分脈は二日とし、代々勅撰部立などは廿二日とする。八月四日事始。続千載が完成した元応二年から僅か三年であるが、しかし天皇としては初度である。和歌好尚の、そして諸儀復興をその政治理念とする天皇としては、矢も楯もたまらず命を下したのであろう。初め為世に下命したが、為世が為藤に譲ったという(増鏡春の別れ)。拾藻鈔<第十>に「入道前大納言〔為世〕、代々の古風をまもりてしきしまのみちふたゝびむかしにたちかへり、ためしなき三たびの撰者をさへうけ給はりたまふ事、神明の御しるべもいまさらに覚侍よしなど申侍し……」として公順と為藤の贈答歌がある。一度は為世に命が下った事は確かである。増鏡に「故為道の中将の二郎為定といふを、故中納言<為藤>とりわき子にしてなにごともいひつけしかば」とあるから、為定も撰集の業には最初から深く関係していたのであろう。或る程度業は進捗したと思われる四年七月十七日為藤が急逝し、当然為定があとを承けると見られていたが、為世は末子為冬を挙げるという噂が飛び、為定が山伏になって身をくらますとかいう悶着があって為定に落ち着き、「十一月一日直蒙綸言相続」(尊卑分脈)、「十一月一日直蒙 勅定、其間事〔十日事始〕師賢卿奉行之<于時中宮大夫>」(代々勅撰部立)という事であった。
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元亨三年(1323)、二条為世(1250-1338)が後醍醐天皇から勅撰集撰進の命をいったん受けたものの、異例の三度目の撰者ということも考慮してか、為世は二男の為藤(1275-1324)に撰者を譲り、為藤が準備を進めていたところ、翌四年七月に五十歳で急死してしまいます。
為藤は兄為道(1271-99)の二男・為定(1293-1360)を養子にしており、為定が撰集を引き継ぐのが当然と思われていたのに、為世は鍾愛する末子の為冬を後醍醐に推薦するとの噂が飛んだので、為定は抗議のために山伏となるつもりらしい、といったひと騒動があって、結局は為定に落ち着いたのだそうです。
この点、井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)によれば、

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【前略】為世が為冬を挙用し、為定が反抗したことは『増鏡』にしかみえないが、ありそうなことである。為世としてみれば、為冬は老年で出来た子で可愛いうえ、年少といえども為定の叔父である。しかし二十余歳の若年の為冬は衆望もなく、心ある歌壇人は三十二歳の為定を推して、あるいは為世を諫めることもあったのであろうが、為定の示威行動(実際行なったかどうかはわからないが)が最終的には為世を翻意せしめたことになる。十一月一日正式に為定は撰集の命を受けた(『尊卑分脈』『代々勅撰部立』)。
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とのことですが(p134)、山伏云々は面白すぎる話なので、『増鏡』の創作の可能性もありそうですね。
さて、二条為冬は建武二年(1335)十二月、新田義貞と足利尊氏が激突した箱根竹の下の戦いで戦死しており、歴史研究者にはこちらの話の方が有名ですね。
『太平記』第十四巻第九節「竹下軍の事」では、新田義貞側の敗色が濃くなった状況で、

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ここにて、中書王の股肱の臣下に憑み思し召されたりける二条中将為冬討たれ給ひければ、右衛門佐の兵ども、返し合はせ返し合はせ、三百余騎所々にて討死す。これをも顧みず、引き立つたる官軍ども、われ前にと落ち行きける程に、佐野原にも滞り得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三万余騎は、海道を西へ落ちて行く。
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とあります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p386)
「中書王」は中務卿尊良親王、「右衛門佐」は脇屋義助で、二条為冬は「中書王の股肱の臣下」ですね。
『梅松論』にも、「二条中将為冬をはじめとして京方の大勢討たれぬ。この為冬朝臣は将軍の御朋友なりしかば、彼頭を召し寄せ御覧ありて御愁傷の色深かりき」という具合いに、為冬は「将軍の御朋友」として登場します。
「将軍」とは、もちろん尊氏のことですね。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou24.html

実は為冬は『太平記』ではもう一箇所、第十八巻第十一節「一宮御息所の事」にも登場します。
金ヶ崎城で自害した尊良親王の頸が京都にもたらされた話の後、「今出川右大臣公顕公の女にて候ふなるを、徳大寺右大将に申し名付けながら、未だ高太后宮の御匣殿にて候ふなる」、即ち西園寺実兼の息子・今出川公顕の娘で、徳大寺公清(?)のいいなづけでありながら、未だに後京極院禧子(西園寺実兼の晩年の娘)に「御匣殿」として仕えていた女性と尊良親王のなれそめ、そして尊良親王が土佐に流された後の御息所の嘆きを描く長大なエピソードが続きます。
兵藤裕己校注『太平記(三)』で実に三十三ページにわたって延々と続く、このうんざりするほど長いエピソードが何故書かれたのか、という問題は後で検討する必要がありそうですが、この尊良親王を在原業平のように描く王朝風物語において、「二条中将為冬」は、尊良親王と御息所との仲をとりもつ「媒〔なかだち〕の左中将」という極めて良い役で登場します。
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