投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月10日(水)11時11分29秒
南北朝期を調べていると、戦争では敵味方がクルクルと入れ替わるなど変化のスピード感がすごくて、何だか奇妙に現代的な社会だなあ、と思うことが多いのですが、歌壇の人間関係など、今のネット社会の先取りみたいなところも感じます。
討幕の時点まで、尊氏と大友貞宗は直接の面識はなかったでしょうが、「北九州歌壇」で催された歌会では大友貞宗は赤橋英時とその妹と直接の交流があったでしょうし、そういう場では義理の弟で有望な歌人である尊氏(高氏)の名前が出ても不思議ではない、というか出るのが当たり前ですね。
あるいは尊氏が先輩歌人である大友貞宗に、書状で作歌の指導を請うような関係があったかもしれません。
ま、そこまで言うと小説の世界に入ってしまいますが、二人はともに『臨永集』の写本で相手の名前ばかりか歌風まで知っていたはずで、そうした結びつきが討幕および戦後統治において、二人の特別な関係を作った可能性は十分にありますね。
尊氏が元弘三年四月二十九日に篠村から「大友近江入道」宛てに出した有名な「髻文書」も、森茂暁氏の解釈だとまるで二人が後醍醐を介して初めて接触したかのように読めますが、これも二人が旧知の間柄だったとすると見方が相当に違ってきますね。
それは少弐や島津などとの関係でも同様だと思います。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」では、歌壇での人間関係についての言及は一切なく、歴史研究者にとってそうした関係はなかなか視野に入ってこないのかもしれませんが、少なくとも川添昭二氏は「北九州歌壇」(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)を相当深く研究されているので、その学識が九大系の研究者に継承されていないのは残念に感じます。
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
さて、井上著の続きです。(p318以下)
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しかも注意すべきは次のような歌である。
安楽寺にたてまつりける百首歌中に
詠み人しらず
跡たれし北野の宮のひとよ松ちもとは君がよろづ代のかず (巻五)
平英時よませ侍りし百首うたに遠鹿
詠み人しらず
秋風の吹きこす空にきこゆなり山のあなたのさをしかのこゑ (巻三)
なお「詠み人しらず」の歌と英時の返歌が巻八にみえるが、これらは何れも北九州を場としたものではなかろうか。
川添氏も想定しているように、そして私も同じ頃それを考えてみたのであるが(「鎌倉末・南北朝初頭歌壇における一動向」<立教大学>日本文学11=昭和三八11)、鎮西探題府を中心として北九州歌壇といったものが形成されていたものと思われる。探題府引付衆の出自は、川添氏によると、探題被官・中央幕政機関職員・少弐大友一族被官・守護級有力御家人・在地御家人など、様々な人々がいた。また既に島津氏の如きは六波羅に参候し、忠景─忠宗(正中二年十一月没、新後撰以下)の如く鎌倉中期から勅撰歌人であり(忠秀は忠宗男)、往古の大宰府を考えれば九州とてもとより歌に縁のない地ではなかったが、特に鎮西探題府の成立・充実に伴って、中央の職員が赴任して来て和歌が一層普及したであろう事は容易に推察できる。まして文化的な家柄である赤橋家の英時のような人が探題になった場合は尚更であろう。
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川添昭二氏の見解は後で紹介します。
この先は「和歌四天王」についてのある程度の知識がないと分かりにくいかもしれませんが、とりあえず引用しておき、後で必要に応じて検討したいと思います。(p319)
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能誉が九州に下った事は前に述べたが、こういう九州の情勢を考えると、或は鎮西探題府か、島津・大友・少弐というような豪族の数寄者から招かれたものではなかろうか。浄弁とて同様であろう。恐らく能誉と浄弁は九州で遭ったに違いないし、或は浄弁の下向は能誉が関与したのかもしれない。そして浄弁は英時と貞宗に三代集を相伝するのである。ところで浄弁は元徳二年二月古今集の相伝の説を貞千に伝えた。日大図書館蔵南北朝写二冊本(昭和三七全国大学国語国文学会に展示)奥書、貞応奥に続いて
元徳二年二月廿二日以相傳説所傳授大蔵丞藤原貞千如件
権律師浄弁 在判
延文弐年正月廿六日以浄弁法印自筆本書写終功畢
とある。なお久曽神昇氏『古今和歌集成立論研究篇』一四四頁にも掲出されている(但し「藤原負子」となっている)。これはどうも臨永集の作者藤原貞千らしいが、貞千か貞于か、或は似たような別字かよく分らない。が、恐らく同一人物と見做してよかろう。或は九州の武士(少弐の一族か被官か)であろうか。
為実・為相、或は飛鳥井家など、異端や他家の人々が蟠踞する関東は、正に反二条派の巣窟であった。その点、九州は二条派にとって誠に清潔な土地である。といって、老体の為世は勿論、現任廷臣である為定や為明らが自ら赴いて指導する事は出来ない。豪族の招きに応じて浄弁が下向、懇切な指導を行なった事は当然である。
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南北朝期を調べていると、戦争では敵味方がクルクルと入れ替わるなど変化のスピード感がすごくて、何だか奇妙に現代的な社会だなあ、と思うことが多いのですが、歌壇の人間関係など、今のネット社会の先取りみたいなところも感じます。
討幕の時点まで、尊氏と大友貞宗は直接の面識はなかったでしょうが、「北九州歌壇」で催された歌会では大友貞宗は赤橋英時とその妹と直接の交流があったでしょうし、そういう場では義理の弟で有望な歌人である尊氏(高氏)の名前が出ても不思議ではない、というか出るのが当たり前ですね。
あるいは尊氏が先輩歌人である大友貞宗に、書状で作歌の指導を請うような関係があったかもしれません。
ま、そこまで言うと小説の世界に入ってしまいますが、二人はともに『臨永集』の写本で相手の名前ばかりか歌風まで知っていたはずで、そうした結びつきが討幕および戦後統治において、二人の特別な関係を作った可能性は十分にありますね。
尊氏が元弘三年四月二十九日に篠村から「大友近江入道」宛てに出した有名な「髻文書」も、森茂暁氏の解釈だとまるで二人が後醍醐を介して初めて接触したかのように読めますが、これも二人が旧知の間柄だったとすると見方が相当に違ってきますね。
それは少弐や島津などとの関係でも同様だと思います。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」では、歌壇での人間関係についての言及は一切なく、歴史研究者にとってそうした関係はなかなか視野に入ってこないのかもしれませんが、少なくとも川添昭二氏は「北九州歌壇」(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)を相当深く研究されているので、その学識が九大系の研究者に継承されていないのは残念に感じます。
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
さて、井上著の続きです。(p318以下)
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しかも注意すべきは次のような歌である。
安楽寺にたてまつりける百首歌中に
詠み人しらず
跡たれし北野の宮のひとよ松ちもとは君がよろづ代のかず (巻五)
平英時よませ侍りし百首うたに遠鹿
詠み人しらず
秋風の吹きこす空にきこゆなり山のあなたのさをしかのこゑ (巻三)
なお「詠み人しらず」の歌と英時の返歌が巻八にみえるが、これらは何れも北九州を場としたものではなかろうか。
川添氏も想定しているように、そして私も同じ頃それを考えてみたのであるが(「鎌倉末・南北朝初頭歌壇における一動向」<立教大学>日本文学11=昭和三八11)、鎮西探題府を中心として北九州歌壇といったものが形成されていたものと思われる。探題府引付衆の出自は、川添氏によると、探題被官・中央幕政機関職員・少弐大友一族被官・守護級有力御家人・在地御家人など、様々な人々がいた。また既に島津氏の如きは六波羅に参候し、忠景─忠宗(正中二年十一月没、新後撰以下)の如く鎌倉中期から勅撰歌人であり(忠秀は忠宗男)、往古の大宰府を考えれば九州とてもとより歌に縁のない地ではなかったが、特に鎮西探題府の成立・充実に伴って、中央の職員が赴任して来て和歌が一層普及したであろう事は容易に推察できる。まして文化的な家柄である赤橋家の英時のような人が探題になった場合は尚更であろう。
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川添昭二氏の見解は後で紹介します。
この先は「和歌四天王」についてのある程度の知識がないと分かりにくいかもしれませんが、とりあえず引用しておき、後で必要に応じて検討したいと思います。(p319)
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能誉が九州に下った事は前に述べたが、こういう九州の情勢を考えると、或は鎮西探題府か、島津・大友・少弐というような豪族の数寄者から招かれたものではなかろうか。浄弁とて同様であろう。恐らく能誉と浄弁は九州で遭ったに違いないし、或は浄弁の下向は能誉が関与したのかもしれない。そして浄弁は英時と貞宗に三代集を相伝するのである。ところで浄弁は元徳二年二月古今集の相伝の説を貞千に伝えた。日大図書館蔵南北朝写二冊本(昭和三七全国大学国語国文学会に展示)奥書、貞応奥に続いて
元徳二年二月廿二日以相傳説所傳授大蔵丞藤原貞千如件
権律師浄弁 在判
延文弐年正月廿六日以浄弁法印自筆本書写終功畢
とある。なお久曽神昇氏『古今和歌集成立論研究篇』一四四頁にも掲出されている(但し「藤原負子」となっている)。これはどうも臨永集の作者藤原貞千らしいが、貞千か貞于か、或は似たような別字かよく分らない。が、恐らく同一人物と見做してよかろう。或は九州の武士(少弐の一族か被官か)であろうか。
為実・為相、或は飛鳥井家など、異端や他家の人々が蟠踞する関東は、正に反二条派の巣窟であった。その点、九州は二条派にとって誠に清潔な土地である。といって、老体の為世は勿論、現任廷臣である為定や為明らが自ら赴いて指導する事は出来ない。豪族の招きに応じて浄弁が下向、懇切な指導を行なった事は当然である。
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