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川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)

2021-02-12 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月12日(金)08時33分59秒

尊氏が歌壇の人間関係を政治的に利用した、との発想は森茂暁氏と同じではないか、と言われるかもしれないので、念のために書いておくと、私は歌壇での交流が結果的に尊氏の軍事・政治活動に役立った、と考えているだけです。
『臨永集』が編まれた元徳三年(元弘元、1331)の段階では、後醍醐の不穏な動きはあったにせよ、まだまだ幕府は強大な存在で、その本格的な動揺はこの後の護良親王・楠木正成の活躍によってもたらされた訳ですから、この時点で尊氏に歌壇での人間関係を将来、軍事・政治活動に利用しようという下心があったとは思えません。
森茂暁氏の場合、正中三年(1326)、『続後拾遺和歌集』が編纂されて尊氏が二十二歳で勅撰歌人になった時点で、後醍醐は「あらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようと」しており、他方、尊氏も「まだ本格的な討幕の意志は形成されていなかったせよ」「後醍醐に接近したいという意図」は「あったであろうことは容易に推測され」るとされます。
そして、この互いに野心と下心を持った「尊氏と後醍醐双方の利害がおよそ一致したところに、尊氏詠草が後醍醐撰の『続後拾遺和歌集』に入集する必然性が生まれた」とされますが、単なる妄想ですね。
誰を勅撰集の撰者にするかについては政治的判断が作用しますが、いったん撰者を決めた後は、誰のどの歌を選んでどのように配列するかは専門歌人の仕事です。
後鳥羽院のように自ら撰集に関わった天皇(治天)もいることはいますが、それは後鳥羽院が定家もその天才を認めざるをえない特別な存在だったからで、後醍醐はそこまでの歌人ではありません。

勅撰集入集の政治的意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccedc9b7d94a1dc0492371c975c00daf

さて、『中世歌壇史の研究 南北朝期』での『臨永集』の説明はもう少し続きますが、細かい話になるので省略し、井上氏も参照されている川添昭二氏の「北九州歌壇」(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)に関する研究を見て行きます。
川添氏は九州の中世文芸に関する論文を『中世文芸の地方史』(平凡社、1982)にまとめておられましたが、後にこれに若干の論文を追加して『中世九州の政治・文化史』(海鳥社、2003)という著書を出されているので、引用は後者から行います。

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『中世九州の政治・文化史』
政治・宗教・文芸が一体であった中世社会。平安期から江戸前期まで、大宰府天満宮安楽寺、鎮西探題、九州探題、大内・大友・島津氏などを主題に捉え政治史の展開に即し九州文化史を体系的に叙述した川添史学の決定版。
http://kaichosha-f.co.jp/books/history-and-folk/846.html


同書の「第二章 神祇文芸と鎮西探題歌壇」は、

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一 法楽連歌と託宣連歌
二 菅公説話と大江匡房
三 天満宮安楽寺と蒙古襲来
四 鎮西探題歌壇の形成
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と構成されていますが、第四節から少し引用します。(p44以下)

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  四 鎮西探題歌壇の形成

 次に中央(京都)の有名文(歌)人・実力ある文(歌)人の九州下向を軸とした京都文芸の九州文芸への影響を見てみよう。
 京都の貴顕・文人の下向にはさまざまな場合がある。藤原(葉室)光俊(一二〇三-七六)のような配流の例もある。父光親は後鳥羽院無双の寵臣で、承久の乱において京方謀議の中心と見られて斬罪され、光俊は連座して流刑となった。【中略】
 京都の著名な歌人で九州に下向していることが知られるのは鎌倉最末期における能誉・浄弁の場合である。
 『了俊歌学書』によると、二条為世門の四天王として浄弁・頓阿・能与(誉)・兼好をあげている。『正徹物語』では能与に代って慶運が入っているが、鎌倉最末期の段階では能誉はいわゆる和歌四天王の一人として当代を代表する歌人と目されていた。『井蛙抄』に「能誉は故宗匠〔二条為世〕の被執し歌よみなり、故香隆寺僧正〔守誉〕の愛弟の児なり」とある。仁和寺の僧で二条為世が嘱目した地下の法体歌人である。井上宗雄氏は「高雅な数寄者で、何物をも残さぬ、純粋な気持の法体歌人であったと見える」と評している。同じく『井蛙抄』によれば、鎌倉末、頓阿が東山にいたころ、能誉は頓阿を訪ね、物語などして筑紫へ下っている。九州下向の目的も理由も、下向後の状況も一切分からない。和歌数寄者の懇請によるものかもしれないし、仁和寺系の寺院や庄園を縁として下ったのかもしれない。いずれにせよ、能誉の九州下向は九州数寄者の文芸愛好と無関係であったとは思われない。九州における二条系歌風の伝播に一役買ったことと思われる。
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いったん、ここで切ります。
「和歌四天王」については、稲田利徳氏(岡山大学名誉教授)に『和歌四天王の研究』(笠間書院、1999)という1174頁、28,000円(税別)のとんでもない大著があって、私は最初の方を少し読んだだけです。

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『和歌四天王の研究』
南北朝期の二条為世門の歌人である頓阿・兼好・浄弁・慶運の、歌歴・家集・後世への影響・和歌資料及び歌風を総合的に研究し体系化。二十余年をかけて、各人ゆかりの伝本を博捜し調査した成果の集大成。
鎌倉末期から南北朝期を代表する、頓阿、兼好、浄弁、慶運という四人の和歌と生涯を考察。遁世した僧侶という立場で、厳しい動乱の時代を歌の道でもって生き抜いた、その生きざまと和歌の特質を究明する。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305103291/

「和歌四天王」の四人(プラス能誉で五人)の中で、現在は兼好法師が一番有名ですが、中世人の評価では兼好はちょっと劣るとされていて、歌人として一番優れているとされたのは頓阿ですね。
頓阿は上記引用にも出てくる『井蛙抄』の著者です。
ただ、九州に特別に縁があったのは能誉と浄弁ですね。
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