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「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)

2021-01-21 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月21日(木)12時27分33秒

私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えていますが、歴史学研究者には歌人としての尊氏を理解していないという共通の欠点があるのではないかと感じています。
もちろん和歌の世界で政治の動きを全て説明できるはずもありませんが、中先代の乱の直後、「建武二年内裏千首」をめぐって交わされた二人のやりとりを見ると、後醍醐と尊氏の間には、本当に深い部分で信頼関係があったことが伺われます。
そして、こうした二人の信頼関係が歌人としての活動に限られず、政治の世界における公武協調体制を現実に基礎づけていたと仮定すると、従来奇妙に思われていたいくつかの点が説明可能となるのではないかと思われます。
例えば尊氏が後醍醐のために建立した天龍寺ですが、尊氏は一体どのような資格で天龍寺を建立したのか。

「世界遺産 臨済宗天龍寺派大本山 天龍寺」
http://www.tenryuji.com/

尊氏は後醍醐に対する反逆者ですから、義務教育レベルの日本史の知識を持った一般的な観光客が天龍寺を訪れた場合、天龍寺の伽藍のあまりの立派さに驚いた後に、何でこんな寺を反逆者の尊氏が建てたのだろう、という素朴な疑問を抱くはずです。
また、日本史の専門研究者であっても、例えば亀田俊和氏は『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、天龍寺造営がいかに困難な事業であったかを縷々説明された後で、

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 全盛期の天龍寺は、壮大な伽藍を誇る寺院であった。何度も被災して創建当初の姿は失われたが、それでも現代世界遺産に指定されているほどである。後醍醐の怨霊鎮魂という主目的以上に、尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している。
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と書かれています。(p99)
尊氏個人が後醍醐個人に対して極めて好意的な私的感情を抱いていたことは従来の研究で明らかにされていますが、それだけだったら幕府関係者は、幕府財政に尋常ならざる影響を及ぼした、現代人から見ても「常軌を逸している」としか思えない天龍寺建立のための莫大な建造費負担を納得できたのか。
天龍寺の建立は、尊氏がまるで後醍醐の正統な後継者であるかのような振舞いですから、南朝側が極めて不快に思ったのは当然として、尊氏に擁立された北朝側にとっても、単に不快であるだけではなく、自らの正統性を覆されかねない極めて危険な行為であって、深刻な懸念を生んだはずです。
また、当初は寺号が暦応年号にちなんで「霊亀山暦応資聖禅寺」と予定されていたため、叡山その他の寺院勢力との間に、強訴を伴う強烈な抵抗を生んだことも周知の事実です。
天龍寺のようなヘンテコな寺を建てなければ、室町幕府は出発点において無駄な軋轢を避けることができ、財政的にも順調なスタートを切って、鎌倉幕府並みの長期安定政権を確立できたかもしれません。
しかし、様々なマイナス要因、不安定要因を押し切って、結局のところ天龍寺の建立が成し遂げられたのは何故なのか。
それは、尊氏による天龍寺建立に尊氏個人の後醍醐に対する私的感情を超えた、幕府関係者が納得できるだけの何らかの公的な正統性があったからではないかと思います。
そして、そうした正統性の淵源の可能性を探って行くと、仮に建武政権が決して後醍醐の独裁体制ではなく、尊氏を不可欠な、余人をもって代え難いパートナーとする公武協調体制だったとすれば、尊氏が後醍醐の後継者として天龍寺を建立しても、それは多くの人がけっこう納得できる正統性を持った行為と受け取られたのではないかと思います。
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