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全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』

2021-02-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 5日(金)12時25分10秒

井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻るべきか、それとも奥州将軍府・鎌倉将軍府をめぐる「逆手取り」論の検討に進むべきか、ちょっと迷っていたのですが、歌人としての尊氏を検討することが、いささか遠回りではあっても『太平記』や『梅松論』などの二次史料によって歪められていない尊氏に近づく最適なルートだろうと思うので、前者の道を進むことにします。
歌人としての尊氏の分析は、国文学の方でも井上氏の古典的業績以降はそれほどの進展が見られなかったのですが、石川泰水氏(故人・元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』第32号、2011年)という優れた論文が現時点での到達点と思われるので、井上著の次にこの論文を検討します。
ところで、歴史学の方では歌人としての尊氏は全くといってよいほど研究されていなくて、例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)は、二十五人もの分担執筆者がいながら、誰一人として歌人としての尊氏について論じておらず、全然「すべて」ではありません。

櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009684491-00

同書の「あとがき」は「編集者を代表して」櫻井彦氏が書かれていますが、これによると、同書の趣旨は、

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 本書にかかわったすべての方々が敬愛する師といえる佐藤和彦先生は、二〇〇六年五月十三日に急逝される直前、『日本歴史』六九六号の「はがき通信」欄に次のような一文を寄せられている。
  定年も間近というのに、勉学は一向にはかどらず、尊氏と正成、内乱と悪党、惣村と一揆など未
  脱稿のままです。研究史の整理、史料の蒐集など、まだまだやらねばならないことが多く、「知
  足」には、日暮れて道遠しです。
 同号は二〇〇六年五月一日に刊行されているので、まさに先生が残された最後の文章といえる。先生はここで、今後成すべき研究課題を列挙されているが、その最初の課題として、「足利尊氏論」を意識されていたのであった。本書は、先生がもっとも思いを残されながら成し得なかった「足利尊氏論」を、ご縁に繋がる皆様とともに一書にしたい、という願いから企画されたものである。
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というものです。
では、佐藤和彦氏自身が構想されていた「足利尊氏論」はどのようなものかというと、櫻井彦氏から見れば、

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 こうした企画の主旨に沿って、巻頭には「佐藤和彦の足利尊氏論」として、先生が折々に発表された尊氏にかかわるご論考のうち、四本を厳選して収載した。【中略】
 四論考をあらためて読み直してみると、先生が描こうとされた「尊氏像」を伺い知ることができるように思う。すなわち、「内乱期社会の特質を明らかにするという観点を貫きつつ、尊氏像を具体的に追求していく」(「研究の視座と課題」)という基本的立場のもと、「鎌倉末期における足利氏の所領のあり方と、支配方式」と「南北朝内乱の過程における所領の拡大とそれにともなう足利氏の支配組織」(「"足利尊氏論"を検証する」)の解明という課題を設定された。そして、本拠地である下野国足利荘の特質(「内乱期社会における情報伝達」)と、いったん敗走した尊氏が九州から見事に復活するという事実の分析(「尊氏は九州を知らなかったのか」)を手掛かりとして、足利氏がもつ情報ネットワークの視点から、設定した課題に迫ろうとされていたと思われる。それぞれの局面における尊氏の行動にきちんとした理由付けをすることで、彼が活躍した内乱期社会を見通そうとされたにちがいない。
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とのことです。
私も佐藤和彦氏が書かれた巻頭の四論文を読んでみましたが、尊氏の精神生活に関するものとして「この世は、夢のごとくにて候」という有名な自筆願文などには触れておられていても、歌人尊氏についての言及は全くありません。
また、佐藤氏以外の二十四人の論稿を見ても、歌人尊氏への言及は極めて乏しいですね。
もちろん、執筆者には尊氏の和歌について関心を持っていた人がいるかもしれませんが、少なくとも櫻井彦氏を含む三人の編者は歌人としての尊氏などにあまり興味がなく、それを抜きにしても「足利尊氏のすべて」を論ずることは充分可能と考えておられたであろうことは明らかです。
このように、歌人尊氏は歴史研究者の共通の盲点となっている、というのが私の認識であり、ここを深めることによって新たな尊氏像を提示できるのではないか、と考えています。
例えば、『臨永集』という鎮西探題を中心とした「北九州歌壇」の歌集があるのですが、これに入集している尊氏を含む武家歌人を分析すると、佐藤和彦氏やその周辺の人々には見えなかった「足利氏がもつ情報ネットワーク」の一端が見えてくるのではないか、などと思っています。
なお、『南北朝遺文 関東編第一巻』の巻頭には「二〇〇六年五月十日」付の佐藤和彦氏の「序」があるので、「二〇〇六年五月一日に刊行」された『日本歴史』696号の「はがき通信」よりは、こちらの方が「まさに先生が残された最後の文章」といえそうですね。

人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b
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